承久の乱と葛西氏

 頼朝の急死後幕府の実権は北条氏に移った朝廷は政権奪還を考え些細な失態を理由に北条氏追討の院宣を下し恩賞を以て諸国の武将を味方につけようとした土豪達も迷ったらしく甲斐の武田信義は同族小笠原長清と相談し有利な方へ味方しようと相談しているが朝廷方に参加する者少く勝負は余りにもあっ気なく片付いた。

 葛西氏は終殆北条氏の側近となり、その政権強化に協力し奥羽総奉行に任命されても赴任する気配なく鎌倉に落ち着いたので北条氏も諦めて留守職を設け伊沢氏を任命して赴任せしめた。これ留守家の先祖で明治に至ったが葛西氏が正式に赴任したのは3代目ぐらいと史家は評している。

 永久の乱は新興武士階級をして大きく目醒めしめる役割を果した。彼等は最早源平時代の如き無知な階級でなく大地主もしくは中小地主、中産階級として誇りを以て時代の移りゆく姿を直視する識見と勇気を以って公然と朝廷を取巻く貴族反抗した、いわば庶民草命ともいえる彼等はこれによって自らの運命を自から切り拓く由由を獲得したといえる。


南北朝の動乱と葛西氏

 頼朝死後における飯倉幕府は泰時の善政以来その基礎は固まっていたが高時の失政によって権威を失い楠正成の旗上げによって天下の武士を千早城に釘付けにし幕府の権威失墜せりと見た新た義貞は不意に飯倉を襲ってこれを討滅し、更に足利尊氏も朝廷に寝返り僅か一ケ月内外で幕府は亡んだが尊氏の野心によって天下は再び戦乱の世を迎えた。北条高時は義貞に襲われ危急を避けるべく葛西氏の館葛西谷に逃げこみ、この地で自害した。

 北条と葛西がいかに親密であったかを物語っている。その北条氏に代って幕府を開き朝敵となった尊氏に好感を持つはずはなく葛西清貞は楠新田亡き後までも独り東北を拠点に活発な行動をくり返している。即ち尊氏叛するや陸奥守兼鎮守府将軍たる年少18才の北畠顕家を補佐し義良親王(のちの後村上帝)を奉じ運命を堵して激斗している。
延元3年11月沙弥宗心状によると葛西氏六代目武蔵守清貞以下兄弟一族残らず朝廷にお味方申上げ中納言顕家の指揮下の中核として奥羽の豪族、伊達、南部らと共に大いに戦い特にその弟対馬守武晴の働振り眼ざましく徹底的に足利氏に反抗しその野望に挑戦している。

 尊氏が幕府を開くや彼は東北に眼をつけ一族吉良斯波両氏を奥羽探?として送り旧勢力、葛西氏一掃を企てた。これがのちの大崎氏である。
葛西一族が最後まで永く抵抗したのは南朝に対する忠義の外、自家の命運に関わる危機であったことを物語っている。新田、楠亡きのちの南朝方の主力は九州の菊池氏を除き、義貞の遺児義興義宗らの小反発にすぎず、その主力は北畠兄弟をもり立て再三奥羽の地より大軍を京都大阪方面に送って死斗をくり返したのは葛西氏唯一人である。
 顕家は貴族として飾物にすぎず実質的には足利対葛西の両実力者による南北両朝の運命を堵けての指導権争いの観あり、清貞の執念物凄く自己の影響下にある伊達南部田村武石など奥羽の諸豪族を盟友とし最後までその中核として足利氏に反抗している。


南朝の柱石 清貞兄弟

 南北朝動乱全期間を通じ最も永くかつ最後まで南朝を支援したのは、清貞兄弟一族である。彼は奥羽第一の大名として親房の信任をうけ東北の諸豪族を帥い奮戦しているが、その功績の殆んどが北畠親房父子兄弟に帰し葛西氏の名は顕われていない。
 当時の諸豪族は地下人として軽く取扱われ問題にされていなかった証左で歴史はすべて貴族中心に評価され門閥身分なき者は、いかに大功あるも賞されずその主人の功に帰し歴史の影に隠れている。要するに門閥身分意識は骨のずいまで各階層にしみこみ武士は貴族の前には只の下僕にすぎなかったことが判る。以下葛西氏関係の忠誠を記すと次の通り。

(1)延元元年(1336)尊氏叛するや清貞、義貞、正成と協力し奥羽より大軍を帥い伊達、南部、結城、相馬の四氏と共に京都に兵を進め尊氏を撃破しこれを敗戦せしめている。この戦いで清貞の総領三郎左ヱ門宗清、神楽坂で戦死している。
(2)延元2年(1337)義良親王を奉じ、伊達行朝、武石高広と共に清貞その主将として利根川の陣に於て尊氏義詮父子の連合軍を破り鎌倉を占領す。
(3)延元3年、顕家の下知により奥羽大名と共に東北より鎌倉を経て伊勢、伊賀、奈良の各地で戦い足利勢を破り大勝を博したるも打続く長途の遠征と志気の疲れもあって泉州阿部野ケ原の大激戦に於て将軍顕家22才を一期として戦死したるほか、南部師行武石高広など大名達も戦死し犠牲極めて大きく敵将高、師直、師泰兄弟に大敗し主将清貞危く逃れ辛くも東北へ帰りついている。

 これ史上有名な泉州堺の戦争ともいわれ南北朝天下分目の戦いとなり、これを契機として南風競わず足利氏の天下は安定するに至った。別格官弊社阿部野神社は北畠顕家を祀る。この戦斗が葛西氏をはじめ奥羽諸豪族に与えた影響は大さく再び起上る勇気を失わしめた観がある。その証拠に以後、朝権回後を眼ざして大軍を京都に進めていないことで判る。
 阿部野ケ原の大激戦で主将清貞のみ辛じて東北へ選ったものゝその一族部将卒達は敗残の身を異境に露し身の置き所すらなく、さりとて足利勢力の真只中を潜って遠く奥羽へ還る希望と勇気を失い、彼等唯一の希望は当時反足利勢力として阿波管領細川氏に反抗し南朝唯一の味方として気を吐いていた阿波一の宮の城主小生原長宗を振って再生を図ることにあった。長宗は阿波国造家の後、裔一の宮長門守を亡ぼし自から一の宮長門守と名乗った悪党であるが南朝方の忠臣としての一面もあり阿波勤王党の首領山嶽党の頭領株でもあった。

 これに関連して興味深い事実として昭和43年阿波郡土成町の旧家秋月城主の子孫森本義男氏が入田の近藤忠男氏に案内され秀夫氏を訪問したことである。
 その後自分も土成に森本氏を訪づれ調査したが、それによると葛西清重の曽孫に政平という人があり南北朝時代一の宮城に阿波の守護であった小笠原氏(長京ならん)を頼ってその客臣となりーの宮に滞在していたが政平は新田義宗を慕って伊予を経て阿波入りし小笠原氏を頼り客分として滞在申そのすゝめにより笠井姓に更め、開谷城に義貞の甥脇屋義春を訪ね細川氏に対抗したが敗れ、のち曲折を経て子孫帰農して土成に笠井姓の家数家あり本家は東京に番転しているが森本氏の妻が笠井氏の出身なりという以上断片的ではあるが当時の情勢を分析判断することによってある程度堆察出来る。
史実によると伊予の南朝方は気焔をあげ、建武4年懐良親王は新田義宗を伴い伊予に到着し一世紀近く続いた南北朝動乱は永く尾をひき一波は万波を呼び平地で破れた阿波南朝方は一の宮より焼山寺に至る山嶽に本拠を置き散発的な小勢力として残存し、阿波山嶽党の勤王といわれるのもそうした理由であろう。葛西家臣小野氏の阿波入りも阿部野原合戦に出陣し敗れて阿波小笠原氏を頼って入国したものと思う。

 故書によると陸中の小野寺氏、磐井郡一の関城に拠る封内記に一の関古畳葛西家臣小野寺伊賀守の拠る処なりと、歴代葛西家臣にして南北朝時代正平7年3月11日同家文書に阿波朽田庄地頭職に補せられ出雲守時有これを奉じ小野寺八郎これを受け日時と理由不明であるが、遠く奥羽の蒙族が阿波入したのも前記によるものと思う。
 この南朝方と足利氏の天下分け目の合戦は阿部野ケ原の合戦(1338)であるが、地方における両派の争いはその後約一世紀続いている。肥後の土豪菊池氏の如き鎌倉末期から足利時代にかけて九州を三分する三大守護職、肥前など三ケ国の大守少弐氏、筑後、肥後、豊後三ケ国の大友氏、更に大隅、薩摩、日向三ケ国の守護島津氏など全九州の兵力と戦い一勝一敗その智勇は南朝の精華として誇り高く、一方東北に於ては敗れたりと雖も葛西清貞戦死せる顕家の弟顕信を迎へこれを盟主と仰き南部伊達田村との連合軍は、興国元年(1345)三迫に於て奥羽探顕、吉良貞家、石塔義房らと勢力を争いこれを破り活気を呈している。

 更に時代は移って、正平6年(1351)名取郡広瀬川に於て(この川仙台市内貢流)官軍側は顕信の子将軍中院守親を奉じ足利方を破り大いに気勢を挙げているが、自領の中心地で戦う不利は覆うべくもなく盟友南部、伊達、田村、石川も次第に苦境に陥り奥羽総奉行の権威も薄れ打続く戦乱のため経済的破綻を来し社寺領を侵すなど信望を失いつつある。奥羽将領中武石佐藤は足利方へ相,鴨氏は両派分れて戦い負けかけると結束乱れれ不運がつづく正平4年(1348)四条畷で楠正行兄弟が戦死した外南朝万の有力称領伊達行朝が58才で死亡したことで、南朝方の没落をいっそう早め葛西氏は非常な苦境に陥っている。その頃になると清貞の勢力は衰えその子備前守良清、漸次足利氏に傾き保身の策を講じ自領の経営に乗出していたようである。
 元々南北朝の動乱遠因は庄園争いから起ったといわれ、上は皇室から下は女士に到るまで大義名分より欲得づくめの感あり純粋精忠は楠、新田、菊池ら三氏で南朝最後の華は菊池氏の手に握られている。子孫祖谷郷士となり山嶽党の一員でもあり、蜂須賀氏に協力し祖谷の元締格に納まっている。


伝説の人葛西佐七郎について

 佐七郎清武若くは重高と称する人が、祖先との事だが西福寺内にも墓はなく、いつの時代の人か経歴時代その他一切判らない。そういえぱ同族間に佐弥都佐市など似通った名前の入が多い。
 団平氏によると讃岐を経て入国というか彦八郎と混同しているように思えて信用出来ない、多分前記南北朝時代阿波入した葛西一族の一人としか思えない迂余曲折徳川初期葛西彦八郎重高(不正確)が蜂須賀氏を頼って阿波入し入田に土着帰農したのが入田村葛西氏の創始者である。
 因縁とは不思議なもので森本氏の話による葛西一族を保護した一宮氏の子孫は入田に現存じ、葛西氏の子孫松崎一族より一宮一族へ嫁しづく者あり遠い姻戚となっている。

奥羽平姓 葛西氏

初代 三郎清重
建久6年9月奥州検断総奉行に補され子孫これを継ぐも足利氏時代大崎(足利)氏これに代り権戚は失っている。
従五位左兵衛尉検非遺使、建久元年壷岐入道平清重とあり頼朝の腹臣の一人法名 定蓮、この人源平盛衰記平家物語にその名多くあり。

二代 清親
壷岐守左衛門尉 法名清蓮この人東鑑にその名あり。

三代 清時
四郎左衛門尉伯耆の前司 法名行蓮

四代 清経
伯耆三郎左衛尉 法名経蓮

五代 滑宗
伊豆守 法名明蓮 中尊寺文書にその名あり。太平記元仏元年笠置軍文書にその名あり、即ち幕府の命により楠正成を笠置に囲みこれを攻めた東国勢の一人である。
清宗は敏腕家で北条氏の命で出兵したが軍費に困り奥羽の名刹毛越寺中尊寺の寺領を侵し幕府の戒告をうけ特にその代官葛西伊豆太郎左衛門時員及葛西彦五郎親時は幕府の命に背き隣接の庄園を犯し勢力伸張に努力している。
この財政的裏付によって清宗の子清貞南朝の忠臣として度々奥羽より出兵せる経済の裏付が出来たものと推定される。

六代 清貞
式蔵守 法名円蓮 南朝の忠臣最も永く最後まで生残って尽した南朝方最大の実力者

七代 良清
備前守 法名蓮阿

八代 満良
陸奥守 法名蓮昇この人足利義満と和睦し南北朝統一を容易ならしめ三代に亘る戦乱に終止を打ち平和を招来し義満よbその名を蜴わったものと思う。
余目記録に吉良殿 畠山殿 葛西蓮西の十六番目の子富沢の先祖右馬介云々とあり。

九代 満清
備動守 法名良蓮

十代 持重
備前守 法名法蓮

十一代 信重
葛西三郎 法名会蓮

十二代 満重
陸奥守 法名誠蓮

十三代 宗清
(伊達成宗の子)

十四代 晴重
陸奥守 法名祝蓮

十五代 晴胤
法名津蓮可梁

十六代 義重
(伊達植宗の子)法名金蓮

十七代 晴信 
法名智山 天正18年豊臣秀吉、晴信遅参の罪を責めその領地没収す。晴信屈せず佐沼城に籠り一族即党多く戦死し鎌倉以来続いた葛西氏は滅亡した。奥羽に在ること402年、一族四方に散布す。


戦国時代における葛西南部氏の争いについて

 南部氏は鎌倉時代から奥の岩手郡に本拠をおき明治に至っているが天正年間26世信直は支族より入りこれを相続した。
南部彦三郎晴政は津軽地方を侵し天文年間厨川滴石の両城を奪い更に探顕斯波氏の領地を奪い近辺の豪族を攻め南部本家大膳大夫を攻め殺してこれを乗取り更に転じて奥羽最大の大名葛西領に侵入した。これに対し葛西氏は時代に即応した軍制に更めず旧態以然たる体制を以て改革を怠っていた。
 例えば家臣団の如きも富沢、拍山、江刺、薄衣、大原、浜田の7氏あり、いづれも二万石三万石を領しているがその家来に対してはそれぞれ二千石三千石を与え領地を分割し中世その為め統治方式請負制度による兵制では緊急に間に合わず平時は地頭対農民、戦時は武将と兵隊の干係を持し鉄砲など新しい戦術を採用せず南部氏の侵畧に対し、葛西家の部将柏山伊勢守明吉がその家来石川越後守の働きによって南部勢を打破り大功を立てたのに対し感状を与えているがそれによると「今度南部衆と一戦を遂げ北七郎、六戸弥太郎(いづれも南都一族)始め馬上十騎雑兵など打遂げ比類なく候。
 これにより伊沢郡下河原にて三千苅、若柳村にて五千苅、磐井郡にて四千苅、机島にて三千苅を忠賞として相添え永代宛行なうもの也仍て証文件の如し」明吉黒印 天文3年8月7日とあり南部信直領土拡大は着々成功し、前田利家を通じ秀吉に誼み通じその地位を確保したのに反し晴信はこれを怠り滅亡するに至った。


入田葛西氏について

元組は彦八郎である。
 名は清武或は重高らしいがはっきりしたことは判らない。紫雲山西福寺内に墓あり、団平氏と共に墓参したが墓石には葛西彦八郎とりみ刻み名乗はなかった。武家浪人として伝手を求めて入国したが当時30万人と称せられた浪人洪水時代とて任官の望みなく従者と共に開拓に従事し帰農したと伝えられる。その時期は元和寛永年間の始め頃と思われる。団平氏によると讃岐を経て阿波入国と伝えうる処より讃岐葛西氏を調査したが同国の葛西氏は角切、角の内、釘抜の家紋を用い阿波蔦西姓の多くは鷹羽違いとて入田喜西氏とは直接関係なさそうである。入田葛西家は清重以来の三ツ柏を用い現在に至っているところより奥羽平姓の流れを汲むものと思える。
同時期に浪人で入田へ入植した人ありと伝えられ寛文6年6月2日没行年71才、法名還阿常雲禅定門。その妻元禄9子年4月6日没法名禄衣如光大姉

葛西二代 七右衛門
 彦八郎の子 元緑9子年5月4日没 法名陽扇道繁禅定門その妻元禄16年末2月111日没 法名曜倉春光大姉

葛西三代 小十郎
 七石衛門の子 享保元年9月18日没 法名帰入常仙禅定門。小十郎弟 七右衛門、父の名を襲名す、この人葛西分家江島屋と称し農業の傍ら商業を営み子孫冨を積み次弟に大きくなり名西山分屈指の大地主となる。享保9辰年11月28日没 法名霜厳浄遊禅定門 その妻 雲法智光大姉
 この頃より葛西本家小十郎の子孫次第に衰亡、田地を手放し分家葛西氏が本家格となり地位入替っている。

蔦西四代 善次兵衛
 二代目七右衛門の子 天明6丙午5月21日没行年81才 法名実相院即室亮念居土 その妻天明6年丙午7月19日没 法名妙寛院寂室寿貞大姉

葛西五代 久兵衛
 元文4年生文化10発 12月24日没 行年75才 法名観理院諦道宣聴居士 その妻文化9年戊年9月25日没 法名唯心院慈円妙光大姉

葛西六代 善右衛門
 天明4年生 明治7年没91才 法名法閣院蓮光道翁居士 その妻 行年43才 法名真如院閑凍大姉 善右衛門後妻安政6年正月16日没57才 法名阿光院密室妙蓮大姉

葛西七代 久兵衛
 祖父の名を襲名 文久元年正月16日没行年60才 法名宝光院顕道遊仙居士その妻嘉永3年2月18日没 行年45才 法名高徳院蓮乗日光大姉

葛西八代 久兵衛
 祖父の名を襲名し三代目久衛兵衛となる。この人、名東郡上幡村の豪農ヱタカン佐々木氏より養子に来る。家付娘と結婚し、長男長次郎出生したるもその後若くして他界し為に、三代目久兵衛は後妻をめとりたるため子供あり、その後久兵衛死亡し後妻が更に婿養子を迎えたので複雑な家庭となり、財産争い起り跡取り息子長次郎は坊ちゃん育ちのお人好とて借金の請印を依頼されると実印を投げ出して任す有様で明治に入り急激に没落し、徳川中期以降入田矢野国府にかけ百数十町歩といわれた大地主も明治十年代に無一物となり自宅さえ押えられ窮乏のどん底に陥った。

葛西九代 長次郎
 葛西八代目 久兵衛の子 父の代にすっかり財産は失ったといっても若干不動産は残っていたが農商業に余り意欲なく建康もすぐれず失意の裡に若死す。その妻 松崎由井太の次女である。長男勝之 次男健一 外に二女あり。

葛西十代 勝之
 明治14年生 徳島中学在学中 破産し三百年来住みなれた家屋敷まて差押えうけ卒業を待たず上阪し郵便局に勤め、のち満州奉天郵優局に転勤したるも健康を害し大正時代大阪に移る。
 永年動続し正八位勤八等に叙せらる。妻森氏は広野村の名家森氏の出にして名は初乃 昭和25年没、夫婦の問に斉、良、修の三人の息子と千鶴、萬亀、寿の三女あり、昭和29年6月没 法名寿心院勝誉良性居士 その妻はつの宝珠院梅室妙温大姉 昭和25年2月20日没。次男良 長身明朗な人であったが昭和18年ヒリッピンにて戦死 遺児良介あり。

葛西十一代 斉
 明岩44年生 永年住友金属に勤め定年退職後余生を楽しみつ々無理せす長生したいと仕事を楽しんでいる。

本家葛西家 について
 武家浪人として入植した葛西彦八郎の直系は小十郎家で子孫は清成であるが父子共に身を持ち崩し窮死している。


井之丸 葛西(松崎)家

初代 葛西佐弥都
 小十郎の次男 生家は川南地区にあったが分家するにも川南地区に余地少なく、その頃川北地区は満足な堤防はひとつもなく洪水毎に上流の堀田から井之丸地方にかけ土砂石ころが流れ苦心した土畑も荒地と化す農耕地としては不安定な地であり住民も少なかったらしく明治初年第十一族が移住してきた事でも判るように麦と芋、野さい類しか出来ないといわれた不毛の地に入植開拓した勇気ある人であった。
同地は慶長末期より中老上田家の知行地でもあり、そうした地縁から後年上田氏に臣事したのでなかろうか。何はともあれ開拓は大変なことで当時裕福だった葛西家の援助はあったにしても労苦は想像以上のものがあり、その子佐弥市を伴って武士でも農民でもない浪人者の子孫として細々自給自足している生活から脱却すべく立上り子孫のため運命を切拓いた恩人でもある。
安永7年3月16日没 墓は川北堀田にあり行年91才 法名秋読樹讃禅定門 その妻京保9年子年没 秋読樹讃禅定尼

二代 佐弥市
佐弥郡の子 親子揃って川北に移り本格的農民として川北に安住の地を求め移住した。京保5年生 安永7年5月18日没 父におくれること2日法名杖堤自頓信士。


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