葛西 松崎家由来記改訂補修について

戦況日々に悪化し敗戦の様相漸く表面化しつつあった昭和19年10月これを取まとめ少数の縁故者に配布したが粗末なガリ版印刷を現在まで大切にされているを知り少なからず責任を感じ、機会あれば訂正したいと思いつゝ現在に至った。

何故こんなもの作ったかと言へば昭和17年3年振りに印度支那より復員し翌年入田を訪れ松崎医院を訪ねた時、留守をまもる道ちゃんから祖先の調査を頼まれ引受けた所産がこれで、いわば私の無事帰還の記念品でもあり往時を回想し感慨深いものがある。
当時、私は警部補で多忙を極めプリントといえども文書の領布は許可を要し、発行者の氏名住所目的を明らかにするを要し戦意高揚と家族制度維持を目的にこれを作った。そうしなければ、それ自体が法に触れる時世でもあった。

時代は大きくゆれ動き家族制度も危機に瀕し歴史の転換期を迎えつゝあるやに見受られ人口の都市集中、都市と農村の経済の格差、貧富のへだたり更に都市では狭いアパートが親子の同居を阻み夫婦中心核家族化し家族制度そのものが危機に頻しつゝある。
家族制度の精神的支柱をなしていた神棚や仏壇も狭いアパートでは置く処もなく敬神崇祖もともすれば忘れ去られる様相すらある。こうした時代背影に於て古い時代の佳き伝統を残し先人の労苦を伝え成敗の跡を明らかにすることは物質的遺産以上に価値あり、子孫を激励する要素たり得ることは広く知られている。そこで、祖先以来の事歴を一冊の本にまとめ、その都度加除すれば仏壇位碑の役目をも果し宿替移転にも便利であろうと考えその後の新事実をも加え少し程度の高いものにすべく書直すことにした。

それはさておき記事の大半が中近世に属する故に時代の背影を明らかにするため私見を加えることにした。

       昭和45年 明石市の一角にて 松崎(長谷川)康雄 記

幕藩制について

 徳川氏によって制定されたこの制度は家を中心に世襲身分制による統治形態、つまりすべての家に差等を設け権利義務を異にする印度のカースト制、和製版ともいうベきもので階級の異動を極力抑制する建前をとっている。
 我国は国の創めの上代に於いて徹底した身分制度を実施し、支配階級の地位を安泰ならしむため人間は生れ乍ら尊卑の別あるが如く錯覚せしめ如何なる才能あるも身分の上昇には限界あり、これを冒すものは神を恐れざる所業として忌み嫌い英王チヤールス一世の王権神授説以上の思い上がりを示し君臣の分をまもる自体が道徳以上の価値あるものと仰がれ、これに反する者は不逞のそしりは免れず洵に支配者たる既成階級に好都合な道徳が存し、その子孫は賢愚にかゝわらず優位な地位を保証され、それを子孫に譲ることが神の名に於て正当化され反する者は討滅の理由ともなり英雄豪傑も時に錯覚を起し、その矛先を収めるなど身分制度は愚かなる支配階級の隠れみのともなる反面、披支配階級出身の英傑は麻酔薬を注射された恰好で戸迷っている。
 その上慈悲と博愛、平等の仏教までが釈尊の教えに反し奴隷階級に味方せず上層支配階級に取り入り平等の精神を没却し、下層民に対し諦めの精神を植つけ現世における苦境の脱出を断念せしめ善行による来世に希望を持たしむるなど支配階級の道具として利用されるに至った。
 要するに明治以前に於ては分を護ることが治政の根本をなし、勇気と反抗は罪悪視され、主従は三世とする朱子学的考え方が尊重され徹底した現状維持に終始している。

 然して百年も続いた応仁以来の大乱はさしも厳重な身分制度も崩れ永年下積みの苦労をなめた下層階級にも千載一遇の好機が訪ずれ、下剋上は時代の風潮と化し実力ある者は刀槍一本で支配階級に躍進し、越前、織田神社の神主の子孫が斯波氏の披官となり主人の領国を横領してのし揚った信秀、信長父子更に乞食坊主徳阿弥が三河松平郷に流れつき出戻り娘と婚した子孫が戦国大名となり更に天下を握って幕府を開き支配階級に昇化したのも乱世のお蔭である。
 彼等は出世後、頻りに家系を飾るなど苦心しているが、それ自体披支配層出身である事を物語り豊太閤の開放的明朗さは彼等には見られない。
 然して一世の英雄信長は乱世の根源を中世以来の兵農一体制にあり、特に社寺の庄園に培われた富と兵力僧兵の横暴には怒り物凄く千年来何人も畏敬の念を以て手出し出来なかった叡山にも兵力をくり入れ、僧侶僧兵善男善女諸共三千の人々を殺害し宗教の蔭に隠れて悪事を働く坊主を退治し、南都をはじめ信長の宗教退治は中世の終わりを告げる悲鳴でもあった。
 兵農分離は善良な農民と職業軍人を区別けすることでこれにより迅速な行動力と新式兵器の修熟を促進し天下布武の旗印は土豪を寒からしめた。

 中世の特徴は兵農一体寺社庄園に巣食う土豪の離合集散であり、信長はこれを乱世の根源として忌み嫌い新しい感覚で職業軍人を育成しそれによって旧来の土蒙との力量の差を大ならしめ門閥を敵視し才能を愛し、身分出身の如何を問わず登用し新しい時代を切拓いた功績は没することが出来ない。
 信長の後を継いだ秀吉は、明朗、開放、新しい世代作りに精出したが惜しくも病没し、それに代った家康は学問を愛し思慮深い性質ではあったが保守退嬰かつ陰険でもあり自家の永久政権化には細心の注意を払うも時代の進歩と民生の向上には熱意なく支配者の立場からのみ物を見て披支配者の立場で物事を考へたことなしといった政治家であった。この点秀吉とは大きく相違する。

 自家を最も高く尊貴この上なきものとし、侍という名の中世の下層民を武士として上位に引き揚げ農工商を設け更に同一民族を奴隷階級に落して異動を制限するなど高僧を多く側近に侍べらせ乍ら仏教の精神を棄て階級制度による身分の固定を図り終始肚黒い政策を用い豊臣家を亡すなど陰険極悪とはかゝる人物を指す。
 こうした社会の閉鎖固定化は福翁自伝による如く奥平家300年下級より上級に昇りし者数名という有様で恩恵は上層それも跡取り長子に限られ次三男は妻子か長兄の災厄を待つしか運命の転換は望めなかった。

 こうして無用化した武力集頭を農高民にしわ寄せし低い生活程度で向上も望めず平和の代償としても変態で家康は神も仏もすべて自家政権の強化の道具に用い、例を見ない強心蔵でもあった。
 こうした暗い閉鎖社会はいづれも共通し、例を仙台伊達家についてみると伊達姓を名乗る一門以外の門閥一家一族に属するもの45家ありこれを裏返せば藩主並上層士族の次三男を機会ある毎に押付養子として送りてみ、その代償に家格引揚げ意味し伊達氏に限らず大名家臣共通の慣例となり戦争なき平和な300年を徒食し品位を保つための生活共済組合的存在となり固定した閉鎖社会に於いては新しいことはすべて危険と見られがちとなり特に海外との接触はその最大のものであり勢い現状維持、君臣の分を明確にした朱子挙が学問の本流となったのは自然の成り行きであり既成階級の精神的な武装手段として有名な「君は君たらずとも臣は臣たれ」との士道こそ彼等の最も欲する道徳であった。

 ところで阿波藩蜂須賀家の出身は天下周知の通り中世時代の半農半武の出身で時の実力者の雇われ兵として織田信清、信澄らに奉公したがいづれも信長のため亡ぼされ前半の経歴は失敗の連続である。それが秀吉の手付き与力となって以来好運を掴み戦功により阿波の領主となったのは非常な幸運であった。
 その家臣団は尾張近江播磨出身者が多く阿波出身者は少く然も下層者が多い。この点同じ太閤取立大名でも讃岐の生駒親正とは正反対である。その理由は、入国早々三好細川以来天下を左右した阿波武士の誇り高き人々に抵抗され散々悩まされたことにもよるが元来土着の豪族に名門が多く新興領主には槍一筋の成上り者が多い処より、軽蔑し利害の対立と相埃ってそれが最も激烈だったのか社寺の多い紀州の根来雑賀衆、肥後の土豪達で折角肥後の大守となつた佐々成政も土豪の反抗によって威信を失墜し切腹させられ、代って入国した清正も散々苦しめられ土豪といっても3,000町歩もある大地主もあって木山弾正の如きは清正と対等の武力を示し、百姓などと侮っては失敗するのは当然といえる。

 こうした経験から阿波人は警戒され重用されなかったのであろう。蜂須賀氏の阿波領国は天正13年(1585)であり戦国末期から明治に至るまで同一地域に君臨した数少い大名のひとりである。その故か中世の遺風が多分に残存し近世大名の家臣の知行地は単に収入を確保する手段として宛行なうものでその地の住民まで支配する事は禁ぜられているのに阿波では中世の地頭制に通ずる拝地の百姓何人と記入したり作付指導を行を行ったり居住民にまで強い支配力を及ほしているようだ。
 これでは兵農分離は実現出来ない。それ故秀吉は二度に亘る検地を断行し領主と住民のつながりを断ち切り、これによって旧来の領主とのつながりをなくし田地毎に石高を定め自己が任命する何人でも統治可能な支配制度を設定したが家老の稲田氏の場合天正以来美馬郡岩倉城代時代より近在を領有し、家来の大半を拝地内で農業を営ましめ幕末その数二千と称せられ兵農分離せず中世方式による屯田制その儘ですごし実力以上の兵力と家来を養っていたのもこうした事情による。
 徳島藩の陪臣の大半は在郷であり平常は農耕に従事、必要に応じて城下に出て主家に奉公し武士の任務を果す二足のわらじ的存在であった。こうした風習は阿波に限らず土佐山内家でも行なわれていたらしく吉田茂元総理の父竹内綱は重臣安東氏の家来であるが四石二人扶持の軽輩として宅地二段田地一町歩山林二十町歩を有する自作農でもあった彼がのち代議士となったのも彼が流通経済に通じていたが故に成功したもので、いとこの岩村通俊・高俊両男爵も共に安東の家来であった。

田中光顕伯は土州深尾の家来だったが切米15俵、米の飯は盆正月の二度だけといった有様と伝えられ田地なき陪臣は全くみじめであった。
 然し支配階級である家中の人々も生活は豊かとはいえない。知行千石取でも実収四公六民として400石の手取ししかなく5年に一度の災害を見込めば更に少くなり、米価の上下によって更に収入にひゞき第一収入の増加は望めない。平和な時代に加俸は望めず役職に就いて賭路を稼ぐ以外途はない。
 長州では代官三年にして終身安楽に暮し、山岡鉄舟の父は飛騨高山の代官数年にして数千両の蓄財あり、水戸藩の貧乏は有名であるが家中の武士ですら役職に就かざれば、すしも満足に食べられず役職にありつけない人々は内職に箸作りに精出し収入の道を講じたという。

 上士階級の窮乏化の原因は経済知伝の欠如もさること乍ら太平の世に一定の人員を確保する兵員制にあった。石高に応じ兵備を要求され常に体面を重んずるため家格に応じた供侍を必要とし万一の不慮不覚あれば家名断絶切腹の憂目ある故でもあった。 それに較べて扶持米取の下級武士は気楽で彼等は世臣ではないが良き跡継ぎあれば任用してくれるので結果的には世襲同様になっていた。
 阿波では陪臣は優遇されている。その大半は必要に応じて駆け参じ用務を果していたようだ。然も譜代の家来は郡代及庄屋の支配を受けしめず本属領主の命にのみ服せばよい訳で郷土原士の上におかれ在郷士分の上位を占めていた旧幕時代、多い夫役免除だけでも大助りで、この特権は一族一家同じ苗字を名乗る、すべてに及ぶ仕組であって文化三年入田村では譜代19家ある旨県史に載っている。

 前述の如く近世大名は兵農分離を実行していたが独り鎖国的風習を残し鎌倉幕府成立以来薩摩大隅日向三ケ国に君臨し同一地域に600年間在住した島津氏は兵農分離を実施せず中世その儘百二外域を残し全住民の6割を士族で占める兵力を堅持したのも芋侍の所以であり明治維新にその強味を発揮している。
 藩士である直臣も陪臣も初期には取り扱い上差異なく藩主も陪臣に直接関係しない不文律があった蜂須賀氏は秀吉の旗本から立身して大名となったが秀吉が付人として派遣した稲田、林、西尾、中村、牛田、森、樋口など七人衆は元の同僚が家臣となり居付いたものもあり権限を犯すことは武家の自滅を招くおそれあり、八幡太郎が弟加茂次郎義網を殺したのも家来を愛したが故であり、家康が福野正則を憎んだのも無理に伊奈熊蔵に切腹させたからといわれている。それ故陪臣にして大功あった安永長次鈴江氏などあるも直臣に取立てることはなかった。
 然し封建身分制度もいつしか固定化すると人間心理に融通性かるくなり、それが明治3年稲田騒動となって直臣陪臣の取扱をめぐって流血の惨事を起し淡路は徳島から分離された陪臣といっても稲田家の井上氏は500石を領しているのに藩士は扶持米取でも士族にするが知行取でも陪臣は卒として庄屋の支配をうけしめるというのでは騒ぐのは当然で騒動のおかげで稲田家臣の大半は士族とせられ、そのついでに岩屋の鉄砲足軽五石二人扶持の者まですべて士族にしたが騒がなかった中堅藩士の士分の家来まですべて卒に落されるなど不均衡が生じている。

 300年近くも平和が続いたのに戦国時代同様の軍備を持ちそのしわ寄せを百姓町人に強いて徒食していたのだから時代と共に文化が向上し生計も苦しくなるのは当然、大した産業もなく中期以後漸く殖産振興に力を入れ始めて流通経済の波に乗って農産物中心から一般商品に進出しそのためその途に明るい庄屋階級が役人の末端に加えられるに至ったのも閉鎖社会で育った家中では役立ったが故である。
身分取り扱いの上では商人は下層に属するが経済の実力と生活内容から見ると上位の生活を営み農民が最もみじめな生活を送っていたようである。
 四公六民とは表面だけ乾燥べり検見役人の接待などの外城池などに使役される夫投銀を加えると六公四民となり自作農ならまだしも小作では残り半分を地主に納めねばならなかった。こうなると芋か大根を食べるしか途なく生きるのが精一杯という外ない農民とは実に気毒な境遇であったといえる。


松崎家祖先の出自について

 松崎家は徳川時代中期まで葛西姓を名乗っていた墓石がそれを物語っている。
昭和18年春入田を訪づれた時、祖先調査したが古文書の資料は維新の際の任官辞令ぐらいで葛西家に関する佐七郎と彦八郎についてはすべて団平氏の談話をメモした伝承記録である。
 彼は当時75才の高年令しかも村内唯一の医師として多忙な中を大変乗気になって色々話してくれた。同氏と生前このように深く話しこんだのは初めててゞそれが最後となった。今思えばよく聞いておいてよかったとつくづく思う。遠い祖先の事など誰も知っている人もなく興味を示さなかったからである。

 私が家系について知ったのは勉めさんから松崎は源氏の出だといわれたがそれは彼女が勘六の辞令にある源教重とあるのを見たからであろう。
 団平氏によると祖先は葛西佐七郎と言うが「名はエート何んとか言ったな・・重高か清武か言ったが・・」とすこぶる頼りないもので讃岐国から阿波へ入国しその妻は白鳥神社の神官の娘だとの事であった。
 高齢のせいか記憶も薄れがちで佐七郎と彦八郎を混同している向もあり兎角調査しようと紫雲山西福寺内の葛西家の墓所を調べたが佐七郎の墓は見当らず彦八郎以後の墓はすべて揃っていた。後藤住職も応援してくれ色々調べても佐七郎清武の墓は存在せず伝説の人となった。

 彦八郎の基は森家の墓所の傍にあり葛西彦八郎の墓とのみ刻み重高という名は刻んでなかった。元々浪人であり晩年は完全な農民となっていたので浪人時代の名は遠慮したものであろう。
 団平氏による名前が不確実であったので思出したら知らして貰う約束で帰ったが忙しく自分もそして団平氏も共に忘失し、とうとう永久に判らなくなって仕舞った。仕方なく前回のプリントには、なにがしとぼかしておいたが大体そんな名であったとしか言いようがない。
 処で昭和29年葛西勝之氏が老齢を鞭打ち西福寺に出向き葛西関係すべての石碑を整理破棄し仏体のみ収め豊中服部霊苑に埋葬したので再調査の手掛りは難しくなった。


葛西氏の起源について

 姓氏辞典によると、カサイ又はカッサイと杯し下総国葛飾郡葛西庄より起るとあり中世葛西郡の私称ありと伊勢神宮領となり、葛西御厨という古文書に皇太神宮御領下総国上葛西下葛西右当御厨は本願主葛西三郎散位平朝臣清重先祖以来本田数の員数に任せ永く伊勢大神宮に寄せ奉る神領なりと、桓武平氏豊島氏流清重豊島権守清光の子と杯せうる。
 これに対し、葛西系図には平良文(村岡五郎)の孫中村太郎などあり高望王一将恒軍功により葛西庄を賜うと又千葉系図には清光一清重などあり古くより桓武平氏の出としている。
 鎌倉幕府の公文書東鑑によると千葉北条三浦など板東八平氏の一人として源家譜代の家人として中央で栄華を誇る伊勢平氏討伐の参謀となり頼朝の信任厚い人でもあった。
 文治5年彼は頼朝に従って奥州藤原氏を討ちその功によって奥羽総奉行従五位下検非使に任せられ子孫この職を襲い17代晴信に至って亡んだ。


家紋三ツ柏由来

 伝説によると下総より海路石の巻に至り同地で祝宴中、折からの風で柏葉舞下り盃中に落つ。清重大いに喜び吉兆となし家紋となすと、然しこれは子孫の作話であって豊島氏流故秩父の山中に多い柏を紋としたとの説あり始祖以来累代これを用う。
 清重の事は東鑑、源平盛衰記、平家物語にもあり江戸太郎重長、畠山次郎重忠とはいとこの血縁であったようである。 関東の地、古くは葛原親王大守として下降以来子孫有司として赴任し任期満ちても帰京せずその儘土着し広大な未開の地を開拓し富を積み武力を養い多くの農奴を擁し財産保護のため自衛手段を講じ、その勢力と富と武力には 中史貴族も驚いている。 平将門もそのひとり貞盛の父国香を殺して討たれ(940)上総介平忠常は安房の国守を殺して反乱し源頼信に討たれ(1030)るなど平氏出身の大地主の横暴は眼に余るものがあった。

 忠常の討伐に出動した源頼信の人格信望は桓武平氏の殆んどを信服せしめ三浦、千葉、北条など板東八平氏を含め主だった開拓者の子孫は殆んど源氏の家人となった源氏の開拓者は上野に入植した新田義重と下野を開拓したその弟、足利義康ぐらいで関東の地殆んど平氏出身者で固まっていた。
 こうした開拓農民の親方達の信望を集めていた源氏は後日その子孫頼朝が中央貴族たる伊勢平氏討伐に立上った時、坂東平氏の殆んどが参加したのに反し清和頻氏の新田も足利佐竹南部武田も余り活動せず平氏出身の武将のみ有名である。

 摂関政治以来庄園の保護には組織的武力を必要とし開拓民中力ある者は弓矢刀剣の技を磨き有事に備え中世武士とは農民を指し平時は耕作に有事には武士として働くのが当時の慣習であった。
 以来関東の強兵名高く関八州の兵全国の兵に相当武蔵相模の兵、八州の兵に相当すると後世伝えらる。故に関東を制するもの天下の武権を握ると移せられた葛西氏もこのひとりで早くより土着した農民の親方であり55卿の地主として頼朝を支援し、鎌倉幕府成立に功労があり頼朝の信頼厚い幕府のひとりでもあった。
 治承4年(1880)東鑑の条に9月景親、源家、譜代の御家人たり乍ら今度処々で射奉る、中畧乃ち御書を小山四郎朝政、下河辺庄司行平、豊島権守清元葛西三郎清重を遭わし有司の輩を語らい参向すべき由なり就中清重源家に於て忠節を抽んずる者なりと。顔平盛衰記には三郎重俊香取、神宮造営記にも葛西壺岐入道定蓮、伊豆三郎兵衛尉清定などあり武蔵国丸子庄を賜わり、のち奥羽征討に功あり幕府成立の功労者として知られている。
 恒武平氏の入植者達の地味な活動に反し源氏の始祖満仲は関白藤原氏に接近し、以来藤原氏の番犬となり頼義、義家など摂関家の堆挽で奥羽の安部一族の討伐に功あり余り深入りしすぎ同族相討つ悲劇をくり返し自から墓穴を掘った感じが深い。
 この弊を痛切に覚ったのが頼朝で法皇始め貴族の気まぐれに悩まされ、自身に下された院宜を逆用し法皇の弱味に付こみ兵糧米として段当5升の徴収権と治安確保のため守護地頭任命権を獲得し自己中心の政権を確立し、そのため国司は有名無実となり攻権遂に武門に帰するに至った。

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