上田氏について

 ここで累代松崎家がお世話になった上田家についてふれてみたい。
慶長2年(1597)蜂須家分限帳には上田氏については載っていない。ということはそれ以後関係を持つに至ったということになる。
上田氏の子孫に接触できないので確かではないが慶長末期前の越前の国主豊臣姓を許された上田主永正重長即ち茶人宗固は関ケ原以後浪々の身をその友人蜂須賀家政を頼り3年間徳島に滞在していたことがある。
客臣として子孫の一人を残し主永正は慶長19年大阪役では友人浅野長晟の客臣として働き一万石を給され子孫は明治に至って1万7千石になっている。

 徳島の上田氏は功るくして大禄を食み中老に列している処より間違いないものと思う。蜂須賀重喜時代、家臣の禄を大きく削減されているが武功抜群の家はその儘残しているか然らさる。
家は遠慮なく削られ初期に較べ半減以下の家も多い。棒禄が生活給に変化しつゝある時代傾同がみえる。上田家は中期以後、岩田家(1300石)と共に馬術師範を命ぜられ明治に至っている。上田家は幕末禄700石ではあるが名門出身として重きをなしていた。身分制度のきびしい時代に下意上達の途を得ることは困難なことであるが上田氏との結びつきによってそれが可能になったことは松崎一族には幸運という外ない。
後年鎌田家が小奉行として勘六が藩の役職についたのも上田氏の推換があったことは疑う余地がない。

三代 鎌田 順治
 なぜ古くから伝わる葛西姓を捨て鎌田姓を名乗るのが確かなことは分らないが、父若くしく母が名西郡大原村鎌田家より来たのでなかろうか。
旧幕府時代には苗字を勝手に変更することは許されない何故なら蜂須賀入国以来、棟付帳を備付けられ祖先以来田地の移動変遷並に特殊な家柄については支配外帳を設け郡代及庄屋の支配を受けしめず士分特偶者として扶役義務をも免除するなど入国当初の誇り高き阿波土豪達の反抗に手を焼いた懐柔策として各種の士分を設けたが、その筆頭は陪臣である。同じ陪臣でも一門重臣の陪臣が羽振りよく稲田家来の片山や井上はいづれも500石を給されているので直臣と変わらないぐらいである。それが明治3年陪臣はすべて卒として待遇し庄屋の支配に移すとしたことよりあの稲田騒動が発生した百姓たる庄屋の支配は恥辱というわけである。さて順治は鎌田姓を名乗る方が家格つまり身居上有利と解したのであろう。名跡は今日の登録商標の如き価値あり事実順治の代より藩有林の監視役たる御林目付の役職を持っ有力者となり奉行の下役を勧めている。身居は大切なもので名誉を伴なうものであるが天保以後は藩の財政難とて上納金次第で最高小高取絡まで郷土原士何でも入手出来るようになり家格の魅力は低下した。兎角順治という人は仲々の人物であったことは確かでこの人のお陰で家格は高くなったものと思う。
文化元年3月12日没 法名一教心覚信士 行年66才 その妻真月妙心信女

四代 松崎右八
 名は清逝という 順治の次男又吾の弟として明和8年入田で生る若年にして徳島に出て上田家の従士として勤めのち帰村して農業に従事す。父の信頼厚く兄叉吾は仲々の人物であったが父の許しなくして同村中筋の高橋家の娘と結婚したことにより廃嫡され従って御林目付の役職も次男の右八へ譲られた。処が兄又吾は同じ井之丸で住む処より付近の農民は依然として鎌田さんと敬杯し前と変わることなかったのみならず家中の評判も右八より又吾の方が人気がよく右八は失意の人となった。これによって御林目付も又吾に移り同じ処で住んで今更下風に立つをいさぎよしとせず当時井之丸付近を松ケ瀬又は松ケ先と呼ばれていたことより姓を更め松崎と称し葛西以来の家紋たる三ツ柏を更め九枚笹を用いるようになった。上田家の許可を得て届出すましたこと勿論である。天保7年7月10日没 法名翫月覚円居士 行年66才

五代 松崎勘六
 右八の長男文化3年生 由井太の兄に当る 幼名治助 元服して勘六 教重と称した温厚篤実 小柄で終生人と争ったことなしと伝えられる。
弟由井太はこれと正反対大柄気性激しく対照的であったと伝えられる。葛西佐弥都以来農業に従事していたが順治時代から在郷譜代となっている。15,6才の頃より商売の味を覚え禁制品以外の商品を取引し弟と共に種油で大儲けしたと伝えられる。
 開拓者佐弥都の子孫として田地二町余山林数町を所有する自作農でもあった。孫に当る団平の話では特別に学問が有ったわけでないが士分待遇者としてひと通りの勉強はしたらしいが詳しいことは判らない。
 勘六が一躍有名になったのは文政天保年間文武創業の功臣笹山家が借財で苦しみ破産に瀕し取潰し寸前の状態に陥ったとき依頼をうけこれを救済したことによる。
当時は藩も30万両以上の借財あり知行取の上士もすべで借金で苦しんでいた。当時商品経済の知識と流通機構に習熟し新しい時代の先覚者らしい感覚を持っていたらしい。
 こうした先覚者には庄屋階級に多く明和の財政建直しを行なった藍畑の小川栄左ヱ門 天保の改革を行なった勘六の友人 石井町東覚円出身の志摩利右ヱ門などあげられるが彼の伝記によると当時民問の俊才として知られた松崎勘兵衛など云々あり、米麦中心より商品経済に重きをおく流通機構に習熟した人材がどこでも重宝がられ薩藩では調所長州では村田清風など藩士から出ているが阿波では庄屋陪臣など民間人にそうした新時代向の人材が出ている。

 同時代小田原藩では二宮尊徳、南部では新渡辺伝など流通経済に明るい人が改革の立役者というわけである。封建時代は主従は三世の契ともいわれこれに背く者は道徳的な強い制裁を蒙ることは免れなかった。そうした背影では生命を堵けても失敗は許されないので伝来の田畑山林をすべて抵当に入れ現金化し笹山家建直しに努力した甲斐あり数年にして成功した。然しそれによって得たものは刀一振だけで不動産の殆んどは再び還らなかったが得たる名声は大きく後日登用される素地を作ったことになる。いわば徳島藩における二宮尊徳的な人気が生じたことになる。
 余談になるが石井健一が松崎貞治より聞いた話として幕末徳島藩では勘六がそろぱん持てばお蔵が開くという評判があったそうで金銭のやりくり上手で藩用のみならず重臣権門からも個人的に頼まれると気軽に大阪兵庫、までも出掛け藩の出入先の広岡鴻池など富豪に掛合い兎角調達したので貸借双方から信用されていたらしい。

 明治元年維新政府が出来ると薩長土肥より多くの若手人材が明治政府へ徴士として勤任することになったが徳島からは勤王党の頭目であった中老大津伊之助はじめ中島錫胤 林厚徳が送りこまれたが阿波藩札二億枚の跡始末に困りその結着をつけるべく勘六は責任負わされ明治2年3月大蔵省出納大令史に任ぜられ新政府の役人となったが持前の人柄と手腕によって巧く処理し新進の後任渋沢栄一らに引継き再び藩に呼戻されている。
 代って新政府に微士として推せんされたのは明治3年送り込まれた人に芳川顕正、松岡康毅ら大官となった人々がある。
明治3年任半ばにして勘六は帰藩を命ぜられ商法方に任命されているが出納大令史在任中恭明宮家御用掛を命ぜられた辞令が残っている。
 藩ではこれから物産取扱によって冨強しようと井上高格らが考え石井の志摩利右ヱ門を獄中より引出しこれを頭取にすえ発展を企図していた矢先廃藩置県となり、この計画は御破産となったが若年より60才余に至るまで第一線の出納役人を勤めたことは当時として珍らしい存在であり明治3年退官帰国の際には天朝より土器製お盃を戴いたとの事で当時としては大変な光栄であったという。
 その妻は中筋坂東氏の出となり二男五女あり69才明治7年甲戊1月27日没法名修善院本念勝義居士 その妻修光院妙蓮大姉年82才明治22年5月没

松崎 勘六  → セン(一宮半束妻)
 → 官六(槌太)
 → タカ
 → 守治
 → カノ
 → マサ(松崎一男妻)
 → 清水谷家に嫁す

六代 守治
 勘六の次男官六の弟である官六(槌太)は上田家用人を勤め仲々の才人であったが馴れに従い交際が派手になり段々評判となり将来を案じた勘六は真面目な後継者として娘まさに養子として海見の相原尾助を迎えその後任とした。
これが松崎一男である。一男は勘六が見込んだけの人物で文武の才能あり信頼を博したようである。一方守治は兄官六程の才能もなく平凡な人と目され武士として奉公し上田家を差配するのは無理だと入田にあって農業に従事し偶々鎌田家に奉公中であった佐野氏の娘を鎌田又五郎と松崎由井太が見込んで仲介し守治に配したこの人仲々の賢夫人として蒼れ高く三男四女あり、子達すべて成長度順調に社会的に成功したのは偏えに母のお蔭としてその徳を慕うこと一方ならず洵にうるわしい一家を築いたものである。
大正12年8月没 行年82才法名千松院清道照義居士

松崎 守治  → 団平
 → 為助
 → 芳三郎
 → しま(佐々木氏)

七代 松崎団平
 明治2年守治の長男として生る。明治20年頃徳島師範卒当時の師範は秀才の登竜門として評判あり多くは士族の子弟で占められ当時の教員は士族中教養ある者、神主、坊主など漢学の素養あるも近代西洋式教育の知識ある者少なく師範卒業せば年長の先輩を追越し年若くして校長となるなど優遇されていた。
 家族は団平の卒業を心侍ちしていたが卒業するや親の期待に反し阿波郡市場村の香美小学校へ就職して仕舞った。
在学中同村出村の才媛に心ひかれ下宿して勤務していたという。然し翌年入田へ帰り奉職し20才時代で入田小学校長となり10年余在職しその後、前期後期医師国家試験に合格し医学実習のため明治36年上京し順天堂佐藤達次郎 杏雲堂佐々木氏 耳鼻科を金森氏など当時の名医について実習し東京滞在3年にして帰郷開業す。
 当時は漢方医多く従来医として診療していたが西洋医は少なく稀少価値あり名西山分の数少ない医師のひとりであった。
然し団平の真の望は陸軍々人たることで明治20年頃広島師団参謀長たりし上田但馬の次男で後の男爵陸軍大将上田有沢を訪ね軍人たらんと相談したが当時薩長藩閥全盛時代とて上田も前途に希望持てなかったのが悲観的で歓待をうけ激励されたが軍人志望は諦めるより仕方なかった。

 上田氏も期待以上に出世したわけだが陸大の創設者メッケル少佐の弟子の一人であり明治30年代には田村いよ蔵、児玉源太郎、東条英教など共に秀才として知られている。
団平は無頓着な人でなり振り構わず気軽に出向き貧しい家庭からは医療費をうけず入田は勿論名西山分での人気者名士として活躍し大正期の農村医の典型でもあった。

佐野為助
団平弟母の実家を継ぐ 5尺8寸の偉丈夫 若年兵庫県巡査拝命し湊川会計主任など勤めのち関大の前身関西法律学校に学ぴ升護士試験に合格し神戸楠神社附近で開業す。昭和20年敗戦色濃く高令のため郷里へ疎開し子息の下で逝去す

阿部芳三郎
 松崎守治の三男 団平の弟 明治17年生 幼にして秀才の誉れあり小学校就学前小出塾に学び明治38年徳島師範卒入田小学校で奉職す。
 国府町中村組頭庄屋阿部の養子となる、のち離籍す。明治41年医師国家試験前後朋合格したるも外国語の必要を感じ東京外語の入学試験をうけ合格、独語、ラテン語を修得すその間、東大医学部に於て臨床実習し夜間は外語に通学し双方両全これを見事に修得できたのは健康と頭悩に恵まれたるが故である。

 明治45年医師として独立後、兵庫県下唯一の病院たる中馬病院に動め院長であろ中馬代議士に大変信頼され、のち大正2年兵庫県庁衛生課技師に任ぜられ勤務中大正7年西宮町長、田沢熊一より熱心に請われ町長の年俸1,200円なるに不拘ず、町立夙川伝染病院責任者として年俸1,500円を給され人力車夫付など町長以上の侍遇にて招かれ感激した彼はこれを逐次整備し当時西宮は裕福な階級多く個人で10万円20万円を寄付申出る冨豪あり今日の金額にして1、2億円に相当するという。
 これ実に我国初の公立病院の嚆矢にして当時毎日見学者多勢押かけ、その応接に忙殺され本務に差支えたりという。その後公立診療所は拡大整備の一途を辿り昭和11年遂に綜合公立病院に昇格し初代院長に就任し、その間西宮町は市制をしき阪神間における高級住宅街西宮市に発展し医師会長など勤めたるも同年引退し同市分銅町で開業、豊富な経験と人柄は多くの入々から信頼されていたが高令のため健康を害し子息にれを継ぎ現在に至る妻 前野氏との間に4男1女あり男子すべて婿を加えて5人共医学博士という珍らしい家庭である。次男裕は阪大教授第一内科主任を勤め後進を指導している。

八代 松崎秀夫
団平の次男 明治39年生 九州帝大医学部卒外科専攻第二次大戦中応召ニュギニアへ転身、ラバウルに駐留、九死に一生を得て帰還 軍医大尉父の跡をうけ入田で開業す

近藤文雄
 団平の三男 秀夫の弟 大正5年生 旧制六高九州帝大医学部卒、陸軍軍医学校卒、第二次大戦中南方軍に属す 軍医少佐、復員後東大大学院に入り医博となる、近藤氏へ入籍。
 その後仙台に移り国立多賀療養所長として勤務の傍ら東北大学医学部の非常勤助教授として整形外科を担任し本職の療養所は2万坪の地に広大な施設あり病院と学枚を餅設し恵ぜれざる身体障害者を収容し小学校から中学校に至るまで一貫教育を実施し、傍ら職業教育を施すなど前人未踏の境地を拓きベッドスクールなる特異な名称と共にその名全国的に高く恵まれざる人々に夢と希望を与えるなど社会教育家として仙台で骨を埋める覚括で活躍している。二男一女あり。

松崎 団平  →
 →
 → 勉(藤岡中佐の妻)
 → 秀夫
 → 敏(女)
 → 栞(女)
 → 春(女)
 → 文雄
 → 道(女)
 → 武(女)


官六流

初代 松崎官六
 助六教重の長男 才気縦横 円転酒悦 仲々の人物で評判よく父の跡うけて上田家の用人となり家来の筆頭として信用ありしも封建の気風を嫌い遊興に走り父の許しなく近藤氏の娘と結婚せるため体面を傷つけたとして廃嫡さる。幼名 槌太という槌太時代前途を嘱望されたが期待に反したわけである。

松崎官六  → 男(天折)
 → 高助   勘六
守夫
 → 邦助
 → 利平  板東家(三好氏)16代目を継ぐ。その子由吉  徳島市で牛乳店を営み盛業なり
 → 賢治 徳島で土木請負業を営み松崎組を興し養子初雄と共に活躍中
 → 仲太) いそ(谷川)
栄一

松崎 栄一
 明治30年仲太の長男として生る。早くより大阪に出て呉服整理業従業員となり20才余にして独立し手広く営業し、蓄財し父のため新築するなど親孝行は郷里で有名であった。
若年より信仰篤く御嶽教の先達として今日に至る。第二次大戦で丸焼けとなり戦後北区に移り呉服整理等を長男光雄と共に営み義侠心篤く、松崎貞治もずい分世話になったものである。


一男流

初代 松崎一男
 入田村海見に生る 初め拍原尾助という。官六廃嫡後勘六の娘マサの夫として松崎家を継ぎ上田家の用人となる。の人仲々の人物で上田氏の信用篤く10石2人扶持をうく。明治元年戊長の役に従軍し東北に転戦す。徳島藩は佐幕派かつ徳川家出身の藩主斉裕のため勤王派諸藩より請疑され、土佐藩出身板垣参謀の指揮下に入り日光今市の戦斗より参加、敵は幕府の歩兵奉行大鳥圭介なるも同人は徳島藩にて30人扶持を給され藩の教授たりし人なり。
この戦斗で勇敢に戦った一男の長男金六の話によると板垣退助はその人物を借しみ東京に駐めおかんと再三説得せる事ありという軍人としての長所を備えていたらしい。

松崎一男 マツ  ー宮栄次郎(村長)裏
金六 (大阪営林商に勤務)
サイ
兵庫(大正7年投) 初美
義一
サダ

松崎初見
兵庫の長男 明治43年生 昭和8年大阪府消防手拝命 昭和14年応召 南支那方面へ転進、奇しくも筆者と同日同部隊となる。昭和17年復員以来累進し守口消防署長となり現在守口門真組合消防長となり現在に至っている。

松崎 実
兵庫の次男 宝専市で建築業を営む。

松崎 義一
兵庫の三男 大阪市で洋服商を営む。


由井太流

初代 松崎由井太
 右八清逝の次男 文化6年生 勘六の弟なり、兄は小柄で温厚なるも弟由井太は大柄で気性激しく相反した兄弟との評判ありしと伝えられる。
 武人としては兄より適性を備えていたが再三のすゝめに不拘ず出仕を拒み入田で一生をすごす。思うに気性激しく封建下では身分が駒定し出世の見込みなく失敗せば生命も捨てねばならす気が進まなかったらしい。
 松崎一族はすべて上田氏の譜代となつていたので郡代庄屋の支配をうけず扶役免除されていたが上田家の用務も多く、文化年間上田家に所属する農家は一家46戸小家14戸計60戸もあり、これが指導や年貢取立など在郷譜代としても負担であり然も自身農業木材など取扱い半商半農の生活を営み用務を帯びた時は武士として服務する風習とて割合気楽な存在ではなかったか?妻安芸氏は法花の郷士安之進忠質の娘なり。慶応元年没、行年58才、二男三女あり。

松崎由井太 正則(楠太郎)
貞治
女(森氏)
女(葛西長次郎妻)

松崎正則
 由井太の長男 弘化元年生る。幼名楠太郎 晩年由井太と杯す。
元治元年征長の役に際し出陣広島に至る。この役総督紀伊藷主にして蜂須賀斉裕副総督として出兵10,000人と伝えられ幕末最大の出費なりという。阿波は殆んど損害なく紀州家の老臣安藤、水野の両氏の兵のみ多大な損害うけ敗走している。妻富碕氏との間 二男二女あり 矢野村県社社々家の出身

松崎貞治
 由井太の次男 嘉永元年生 父由井太に可愛がられ武士として立ちゆくベく少年の頃より徳島に出て寺島学問所などに学び文武両道に励む。幼名貞次という、長じて貞治と杯す。当時藩の出納役人たりし叔父勘六の世話もあって藩祖家政夫人の生家尾州小折の域主の跡と伝えらる中老生駒家譜代の坂尾家の養子となる。
 年令19才の頃という貞治は身長5尺7寸近く大柄で老成の風あり、家来30人前後を擁する1,500石生駒家の長臣としてこれを勤め、慶応4年奥羽征討に際しては松崎一男らと共に徳島藩兵として従軍し先に単独出兵せる家老稲田氏の兵の後詰めとして慶応4年6月12日今市に到着、同年7月1日より白河城攻撃戦に参加せしめられた阿波兵は500人と記録され精兵の誇り高き会津若松藩 仙台藩が主力であった佐幕派と対戦しているが官軍の総師は板垣退助であった。東北戦争は、ずい分苦しかったらしく葛西勝之の妻初野の話によると貞治もずいぶん危険な目に逢い苦しかったという。この戦争に参加した伯爵芳川顕正も土州藩士と記され阿波藩の名は殆んど記録に出ていないようだ。

 奥羽諸藩連合軍の中心は仙台会津であって同年8月22日石筵口の戦斗より会津は主導権を失い敗退、官軍若松城に迫る。かくて慶応4年9月18日会津若松落城、従軍阿波兵は帰郷についたが戦死者は土州藩兵として取扱われているようである。
 戊辰戦争は300年間殆んど戦争の鯵禍を知らなかった人々に今更乍ら失費の大きさと従軍の苦痛を思い知らされたらしい。更に門閥を誇る世襲式士が案外役立ず阿波でも農兵出身者が勇敢であることを立証し長州と同じ徴候を現わし注目をひいている。明治に入り矢次ぎ早に減禄処分があり更に追討的に藩そのものが財政的苦難に陥り、明治3年庚年には家老稲田氏の家臣団の分藩独立運動が発生し稲田騒動が起こり阿淡両国が分離された。この時の首謀者のひとり多田偵吾は生駒家へ預けられ切腹命ぜられたが貞治はこれを優遇切腹の前夜大いに語り大いに飲みこれを慰め切腹に際しては許しを得て非公式に蔭よりこれを見守り家族に状況を伝えたという、これが我が国最後の公式切腹であったという。

 維新後、板尾家も生計苦しくさりとて名案なく明治10年頃板尾家を出て松崎家に復帰し、明治15年頃橋本宇平の娘たねと婚し長子章一を生む。明治初期、徳島市佐古で酒商を営めりという。
 生駒家の別荘あり知人多かりしためなるが、その故に只飲みする人多く倒産せりという。のち大阪に出て衛生監督などしたほか定域に就かず?の石井健一が僧侶としての収入より補助をうけ、松椅栄一にもよく世話になり失意の裡に死す。大正11年11月18日没 小笠原氏にすゝめられ日蓮正宗にこり祖先以来の真言宗を改めている。池田源立寺に葬る 法名春山院貞照信士 享年73才

松崎章一
 明治17年生 徳島市で生れ寺島小学枚より徳島高等小学枚を経て父に伴われ上阪し難波銀行本町支店の給仕となり長じて行員となる。
 日露戦争の余波のため戦後破産し止むなく造券局に臨時雇いとなり明治42年大阪府巡査拝命、東暑詰より池田署へ転勤するも健康勝れず大正5年5月12日没 行年33才 法名法操院章円信士 妻北井氏の問に二女一男あり。

松崎章一 春美
康雄
佳代(小山)


松崎正則(由井太) 一郎
二郎
ちえ
すえ(谷氏)

松崎一郎
 正則の長男 入田で生れ入田で一生すごす。公職として入田村会議員農事改良実行組長など勤む。昭和15年脳卒中にて死す。康雄、少時この家にてすとす恩人なり 妻富崎氏との問に五女三男あり

松崎一郎 首合子
津満枝
すい子
恵美子
チエ子

松崎二郎
 正則の次男 一郎の弟 頭脳明晰 健一と仲良として話題にのぼりし人少年時代より朝鮮に渡り大正初期群山にあり成功せるも昭和に入り経済界の変動により事業失敗し晩年は不遇の裡に死す。妻は青山氏の出忙して旧家中なり、一女かおるあり

松崎 学
一郎の長男 入田に於て農業に従事す。

松崎 亨
一郎の三男 川崎坑空機会社入社 技術社員として勤務 将来嘱望さる

松崎(長谷川)康雄
 章一の長男 明治44年生 幼時、紀州田辺在母の実家ですごし、のち入田一郎方に養われる。東京板東商店へ入りのち大阪に帰り昭和8年兵庫県巡査拝命。
 昭和27年郡家地区警察署長となり以来県本部はじめ県下各地で勤務、昭和41年5月尼崎北署長で退職す 年54才 元警視正 退職後 県交通安全協会参事として再就職、現在に至る。
この間昭和14年より昭和17年まで南支及仏印方面へ 3年間従軍補充兵役陸軍兵長 妻との間三女一男あり


井之丸 鎌田家

初代 又吾
 松崎家三代日鎌田順治の長男として生る。松崎右八の兄に当る。
団平によると又吾は有能かつ社交性あり両親に愛され将来を嘱望されていたが同村中筋の高橋某の娘と許可なく同棲せる、故を以て家格無視として父順治より廃嫡さる然し住居は同じ井之丸に住んで跡取りとなった右八と競争する立場になり御林目付は右八が勤めていたが農家の連中は鎌田さんと敬称し人気が集中し、上士である家中も又吾を支持するに至って兄弟の反目に勝負は決まった。
 又吾には子がなく広野村雨返し阿部家へ嫁した妹の息子、虎之助近直を妻子として迎え跡取りとした。虎之助も中々の人物だったらしく父の職を継ぎ役職を勤め藩士となり家格は小奉行鎌田又吾は天保9年戊年10月23日没 弟右八より2年おくれて死す法名観光宗白居士

鎌田 二代目
 虎之助近直 雨返し阿部家に生る。長じて又吾に子なく叔父の家を継ぎ御林目付など勤。藩士の支持多く小奉行となる。
有能な人材たりしという島民の人気あり社交佐あり明治5年5月2日没 法名功徳院篤心白哲居士

錆田瀬治 鎌田又吾
松崎右八
娘(雨返し阿部氏妻) 虎之助

鎌田 三代 又五郎
 虎之助近直の子 この人若年死し世間に余り知られす明治13年辰12月3日没 法名観阿浄心居士。

鎌田 四代 官吾
 虎之助の次男 兄死して家を継ぐ。この人父に似て仲々の人物であったらしく幕末封建期に育ち時流を明察し祖先以来御林目付として森林業者に縁多く木材を当時鮎食川は水流多く上流より筏を流しこれを製材し新しい時代の生き方を工夫し、それによって産をなし早くより徳島藩大参事たりし井上高格らに近づき明治12年我国最初の県会議会議員選挙、実施された時 井上らの支援を受け名西郡定員二名に対し山分選出として当選したが吉野川流域は賀川豊彦の父の兄石井町出身、河野磯次が当選している。

 然し幕末佐幕藩として知られた阿波人は中央の人気なく明治9年8月名東県は廃止され、高知県に合併させられ阿波人は亡国の悲哀をなめさせられ阿波人は ずい分反対したらしいがどうにもならず人口の多い阿波が、人口の少ない土佐に併合きれ阿波出身県議26名に対し高知選出の県議24名となる。

 然るに議長は少数派の高知県が握り後の衆院議長となった破垣退助の同志片岡健吉が議長、副議長は石井出身の河野磯吉に振り向けられた官吾はこうした嫌がらせに屈せず同志と結んで反抗し、こうした努力の甲斐あり明治15年3月中失政府阿波人の希望をいれ名杯も新しく徳島県と改め徳島市に県庁を置く独立県として高知県の支配より脱出した。
 これ県民の悲願で官吾は その後明治17年9月再建され二期県会議員として名西山分の名士として指導力を発揮し、道路の改修、入田と石井の連絡のため童学寺トンネル工事など議員退任後も有力者として奔走せるため完成したもので交通不便な山村に大なる利便をもたらしている。
 然し、晩年失明し阿部芳三郎少年時代 官吾老人を案内し、これを助けたりという二男一女あり信助、新七なり明治45年7月5日没 行年78才 法名直誠院義徹居士。

鎌田 五代 信助
 官吾の長子 傑出した人材だった父に較べ意欲なく、村会議員を勤め銀行の入田出張所長を勤めねのみ裕福な家庭に育ち小地主として余り意欲なく消費生活をなし材木置場をはじめ千坪近い家屋敷、長屋門まで手放し没落したのは時勢に先がけた父に似ず遺産にのみ頼る消費的田舎旦那の一生を送った。
 三男一女あり兄二人若死し、三男貞一 跡を継ぎ食品雑背商を営む。同家で特筆すべきは明治以来、両三回火災に遭い全焼 記録文書などすべて消失せりという。昭和29年12月13日没 法名常喜院信峯智量居士 行年74才


あとがき

記録の少ない古い時代の事は神秘のベールに包まれ誤り伝えられたことが多い。この記事もそうしたそしりを免れないかも知れない。
文書が少なく伝承記事が多いのが盲点で、要するに昔の妻の座は洵に哀しく男子の付属品みたい 法名のみあるも実名は記されず良妻賢母も名なしでは事蹟の書きようもない。有識層の家でこの有様だから推してて知るべし結局男子のみの記録伝記になって仕舞った。
それはさておき、この記述の要点は失なわれつゝある伝承記録を再現し、共通の祖先を有する人々との親睦を深め認識を新たにし、社会的動物たる人間は物質のみに生きるに非ず人生に浮沈はつきもの一喜一愛せず歴史の観点に立って広く永く人生を観察し、勇気と誇りを以て強く生きる心の糧として、この小著が幾分でも役立つなれば幸甚の至りである。

昭和45年5月 万国縛覧会開催を記念にこれを改訂補修す。

                                        明石市大久保町大窪1099番地
                                             松崎康雄(長谷川)しるす。

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