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4S7YHG/JA3HXJ(2001.6.7-14)

初めてのスリランカ訪問の記録その3

古都キャンディーの町へ

 11日は朝からアンテナとリグの撤収、そして各自の荷物の梱包と忙しい夜明けとなりました。

 きょうはいよいよスリランカ自慢の古都、KANDYへ移動する日です。心地よい環境のこのDEER PARK HOTELともお別れです。アンテナと無線機はスリランカに残して来ることになっているので丁寧に梱包しなおしました。爆走観光バスが走り始めました。
 ギリタレからキャンディーまでは5時間くらいの道のりでしょうか。途中スパイス工場や木彫りの店などに立ち寄りました。スリランカのカレー料理は豊富なスパイスによって成り立っています。

 日本のカレーとは異なる多種多彩なカレー料理はスパイス料理と言った方がいいのかもしれません。カレー料理はちっとも辛くは無いのです。辛いのは、唐辛子の粉をどのくらい入れたかの問題です。
 とにかく珍しいスパイスの現物を多く見ることが出来ました。とくに黒い長豆のようなバニラの実を買ってきました。
これが我が家でどんな形で活かされるかを楽しみに‥

 ジャックフルーツをご存知ですか?実はギリタレのホテルでカレー料理の講習会をしたのです。その時の材料にトゲトゲの大きな実が置いてありました。この実を切ってカレーに入れたのですが、熟すと美味しい果物だとの事です。
 半信半疑だったのですがこの大きな果物が山積みされているところを何度も通りました。では一度食してみたいと思い一個買い求めました。
 一つ100ルピー(140円くらいかな)程度で現地では安くは無いのでしょう。昼立ち寄ったレストランでこのジャックフルーツを出してもらう事にしました。私にとって初めての味でしたがお気に入りの味覚でした。

 キャンディーに向かうバスは、前回の戦闘機のような走りではなく比較的おとなしい運転のように思えました。あれは運転がおとなしくなったのではなくて我々が慣れただけだ、という意見もありました。居眠りをしながらどこを走ったのか記憶の無いところもありましたがとにかくキャンディー郊外のMAHAVELI BEACH HOTELに着きました。
 実はこの夜はキャンディーに古くから伝わるキャンディアンダンスのショーを楽しむ事になっています。その前に3年前どうしても行けなかった仏歯寺に行くかどうか迷ったのですがショーの後に行こうという事に決りました。

 キャンディアンダンスは、日本で言えば京都の都踊りなのでしょうがリズム感あふれる太鼓と激しい踊りが基本です。朝鮮半島に伝わる踊りをご記憶でしょうか。
 太鼓と帽子のてっぺんのリボンをぶんぶん回す踊りです。びっくりするくらい原型が似ています。恐らく何らかの関係があるように思えました。劇場の中はほとんどが外国人です。

 特にドイツ人が多いそうで日本人は我々だけです。地球のどこに行っても日本人を見かけない観光地はありません。にも関わらずスリランカには何故こうも日本の観光客が少ないのでしょうか。それはすべて外務省の渡航情報による危険指定を受けているためです。旅行社はもし何かあればこれを根拠にお咎めがあることを恐れて販売しない事がわかります。では、ヨーロッパ各国の旅行代理店は無責任なのかと疑ってしまいます。

 要するに日本人的な発想にある自らの生命は自らが守るという意識の差が問題でしょう。旅に出て自分の命を守るというのは当たりまえの事でしょうが、自己責任より他を責める傾向が日本人にあるといえばしかられるでしょうか。私に言わせれば日本人が多くいく世界の観光地に危険なところが沢山あります。スリランカはある条件を差し引けばそれよりずっと安全であると断言できます。

 そして、3年前自爆テロで壊された仏歯寺に向かいました。もちろん裸足で入らなければなりませんが夜の7時を過ぎていたのとキャンディーは大変涼しい町であり、半袖で居ると寒いくらいの日があるそうで快適な町です。
石造りの頑丈そうなこの寺院が一瞬にして破壊されたわけですが、お釈迦様の「歯」を祀っている七重の宝塔のところは難を免れて無事だったようです。
 しかしその朝お参りに来ていた巡礼達20人もが犠牲になったとの事です。それよりも驚いたの
はキャンディアンダンスの劇場で聞いた太鼓とシンバルと大声の読経が飛び込んできたことです。耳をつんざくような大きな音は、お釈迦様のお膝元で大丈夫なのかと思うほどの音響です。都踊りとキャンディーダンスとの落差そのものです。
 そして大乗仏教と小乗仏教との違いでしょうか‥そういえばこの言い方も最近では適切ではない言い方だそうです。

 この日は遅い夕食になりました。部屋に戻って電子メールを開いてみました。200通余りのメールが人の気も知らずにせっせと落ちてきます。
 巨大な添付ファイルもあり全部を落とすのに30分近くかかりました。帰国後の対応で頭が痛い思いでした。明日は、観光地を巡りながらコロンボに戻ります。

 


最初の町コロンボへ

 美しいキャンディーの町をでて、コロンボに戻る事になりました。これから行くとことは植物園や「象の孤児院」紅茶工場です。時間の制約があるので急ぎ足になります。

 特に昼食をとった象の孤児院は、親からはぐれたり怪我をした象を飼育しているところです。ここの象はもう自然に戻ることが出来ないそうです。しかし、手の届くところに象が60頭もいる光景は初めてで迫力ある場面でした。もし子どもたちがいたら大喜びだったことでしょう。
 スリランカは紅茶の産地です。セイロン紅茶の工場に行きました。紅茶の作り方を初めてみましたが、かなり原始的な工法です。紅茶になれば香りは異なりますが、青い葉は緑茶と同じ香りです。
 もとは同じ茶の葉ですから当然でしょう。その日立ち寄った植物園は素晴らしい公園になっています。珍しい熱帯植物が茂りかなり手入れも行き届いています。もっとゆっくりしたい場所でしたが目抜き通りを歩いた程度でゆっくりは見学できませんでした。

 そして午後5時ごろ最初に宿泊した「TAJ SAMDRA HOTEL」に着きました。今夜はスリランカ最後の夜、観光局主催の晩餐会の日です。

 みんなが正装してロビーに集まりました。行き先は近くのホテルです。このホテルも少しまえ爆弾テロの標的になり長い間休んでいたそうです。 

 定刻より少し遅れて到着した我々を出迎えてくれたのは政府観光局のチェアマンです。その他コロンボ観光局の代表や我々にとって恩人のテレコミュニケーションンのボス達でした。

 報道陣も取材に来たこのパーティーではエールの交換だけではなく来年の日・ス国交樹立50周年を祝うために再びスリランカを訪問する事を約束し名残り惜しさを残し会場をあとにしました。
 あすはいよいよスリランカともお別れです。そして念願のアーサー・C・クラーク先生と会える日です。
 

アーサー・C・クラーク先生との出会い

 コロンボ最後の朝、ホテルの部屋から見えるインド洋の荒波に触れるために道路をわたって海岸にでました。
 イギリス時代に作られた護岸でしょうか、砂浜はありません。話しかけてきたスリランカ人が言うにはこの海は最も危険な波の海岸であるとのこと、そういえばずっと南に黄金海岸という100キロにおよぶ綺麗な海岸線がある事をガイドブックに書いてあったことを思い出しました。
 話しかけてきた男は結局、耳の不自由な人のために義捐金をよこせというもので短パンにサンダル姿の私が持ち合わせがないというとホテルまで行くと言い出す始末で、朝のコロンボも結構この手の誘いが多いようにおもえました。
 ちなみに男が持っていた奉加帳にはヨーロッパの観光客と思しき直筆の寄付名簿がありました。意外と福祉に弱いのは日本人だけでは無いのかもしれません。


 急いで部屋に戻り、身支度を整えました。きょうのフライトは夜11時半過ぎ、ホテルのチェックアウトを夕方にしてもらったために昨晩のスーツに着替えホテルをでました。行き先はアーサー・C・クラーク先生の書斎です。3年前に面会をお願いし爆弾テロで中止となった先生との面談が今回実現します。

 メンバーの中には「クラークって一体だれや?」と言う程度の認識しかない人も誰かとは言いませんが居た事も事実です。
 「ああ、あの北海道の‥」に至っては黙って帰れ、と言いたくなるのをこらえて皆さんに事前に案内を送りました。中には先生の著書を用意している人もありその価値を理解していることに満足感を覚えます。

 玄関に入ると車椅子が置いてありました。先生は1917年生まれで今年84歳、足は不自由ですが頭は全く衰えていません。

 我々の前に姿をあらわした先生から「病気があるので長い時間話すことはできないが‥」と前置きされましたがそれでも色んなお話をしてくれました。
 先生には申し訳なかったのですが現地で手に入れた著書にサインをしてもらってみんなの記念品にする事にしました。
 痛む右手をさすりながらサインをしてくださった優しさを忘れることができません。こんなに大勢が押しかけたにもかかわらず優しく接していただいたご恩を忘れることなく、人生最大の思い出としたいと思いました、先生の益々のご健康とご活躍を祈りながらご自宅を後にしました。
 そのとき訪ねるよう案内していただいたアーサー・C・クラーク記念館に昼食をはさんで向かうことになりました。

 昼食は「錦城」そう、あの中華料理店です。あまり時間がありません。大急ぎの昼食ですが先生の記念館に行かねばなりません。午後1時半研究所を兼ねた先生の功績と著書を所蔵している施設です。会員になればいつでも図書を閲覧できる場所です。
 入り口に先生を一躍有名にさせた1945年の衛星をつかった地球を覆う通信システムの論文のカーボンコピーが掲げられています。そのコピーを貰えたのは光栄でした。私が生まれる以前にそれも日本が敗戦国となった年に今の理論を論文にまとめあげた事実にただただ驚きを覚えます。
 今回のスリランカの旅は何と幸運続きだろうと感謝しながら岐路につきました。出発までまだまだ予定があります。ご婦人方のショッピング、バスを止めてもらって宝石店やショッピングモール巡り、もうきりがありません。ホテルに帰り空港に行くための準備に入りました。


 最後の予定は夕食会にスリランカ一のアクティブハム4S7EA、ERNESTさんとのアイボールQSOです。数人は旧知の仲で話が弾みました。ただ招待したのが日本料理の店「さくら」で彼にはこの料理は合わなかったと思えます。

 1時間程度しか歓談の時間が取れませんでしたが、これですべての日程を消化する事が出来ました。
 空港まで約40キロ、急いで行かねばなりません。見慣れた景色だと感じたとき空港の施設に近づいてきた事が判りました。
 外は武装した軍隊と検問の軍人で一杯です。我々は旅行社のバスですから比較的簡単にゲートを通過できましたが、私の友人によると乗用車はまずボンネットをあけて周囲を確認して、トランクを開いて荷物を見る。当然人も降りてボディーチェック、そして車の下に大きな鏡を差し込んで入念に車体をみてからゲートを通過できる。と言う話でした。どんなミラーによって調べるのか興味があったにのですが今回初めて現物をみることができました。想像していたより小さくやや凸面鏡のような鏡で実に上手く出来ています。

 しかし、これからが本格的なチェックです。池田青年はスリランカ航空の係員が登場口まで案内してくれます。
 正直な感想は、この警備体制に好意を抱く日本人はいません。最もわがままで日本のルールが世界にルールと思い込んでいるツアー慣れした観光客はおそらく不平を言うはずです。スリランカ旅行の恐怖感はこの空港の警備体制を見て帰り際に湧いてくるのかも知れません。
 しかしこれを怠ったために起こる不幸な事件を防止するためには仕方のない現実です。結局荷物は2度開かされました。ある人は3度…


 UL454便成田行きの待合所にはいつの間にか多くの日本人の姿が見かけるようになりました。そういえば行きの便にも多くの日本人がいましたが入国の際誰もいなくなりました。
 かれらはコロンボで乗り継ぎモルジブに向かうための人たちです。帰りのこの便も同じようにモルジブから乗り替えのために集まった観光客です。


 コロンボ空港の厳しい警戒など知らない日本人ばかりです。こんなことを言うと不謹慎ですがもし、警戒のうすいモルジブから爆弾を持ち込めば‥などと考えてしまいました。
 コロンボを夜中に立ったスリランカ航空が成田についたのは日本時間14日の午前11時半の事でした。みんなは午後5時40分の伊丹行きのANAまで時間をつぶさねばなりませんが、私は翌日仙台で不法無線局の委員会を開催しなければなりません。
 その為に隊列をはなれ都内に入らねばなりません。せめて昼食でもとみんなでレストランに向かいました。そして午後2時に皆さんにお別れをいい京成線で都内をめざしました。その後16日と17日の理事会を経て我が家に戻ったのは17日の夜になっていました。

DE JA3HXJ

よき仲間との楽しい旅で多くの思い出と、4S7からのトータル1750局の交信を終え…。

 今回の旅に際して無線機を提供してくださったアイコム株式会社、好意的に免許取得のために何かと協力くださったスリランカ、テエコミュニケーションのジェネラルと担当女史、スリランカ政府観光局、アンドリュース旅行社、アーサー・C・クラーク先生をはじめ楽しい時間を共有していただいた素晴らしい仲間にお礼を申し上げ旅のレポートを終える事にします。

 

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