4S7YHG/JA3HXJ
初めてのスリランカ訪問の記録「その1」
(2001.6.7〜6.14)
  どうしてスリランカに行くことになったの?‥
 島全体が文化遺産で覆われているようなインド洋に浮かぶ美しい島、スリランカに行ってきました。初めて訪れる国です。

 スリランカに行く目的は趣味のアマチュア無線運用をするためです。しかし自分達の楽しみだけではなく、今後スリランカを訪問する日本人アマチュア無線家が、短期間の旅行中でも免許取得が可能となるように道をつける事や、スリランカの人々と友好関係を築くことを目的としました。
 もう一つは、かねてからの念願であったあの世界で最も有名なSF作家「アーサー・C・クラーク先生」に会うことでした。

 訪問チームは15人のメンバーで構成し、いずれも関西在住の仲間とその奥様達です。
 結果的には11局が正式免許を受け、6月8日深夜から4S7(スリランカ)初となる外国局11局の運用が実現しました。
 予告無しのこの運用は世界中のハムをかなり驚かせた様子でした。事実スリランカ政府テレコム高官からも、開国以来一時にこんなに多くの免許発給をしたのは初めてだと言われました。

 
 そもそもこの旅のきっかけを振り返ると、1997年秋大阪に来られた当時のスリランカ観光大臣と面談した際、翌年に控えた建国50周年行事にあわせてアマチュア無線訪問団を作り、式典前後の期間にスリランカから世界に向けて無線運用してはどうかとの誘いがありました。
翌年の建国式典はイギリスのチャールズ皇太子を招いて、スリランカの古都キャンディーにて盛大にとり行われる事になっていました。
 
 インド洋に浮かぶ小国スリランカは、紀元前3世紀頃からアヌラーダプラを都としたシンハラ仏教王国が栄えた歴史ある島で、東南アジアやローマとの交易も盛んに行われ隆盛を極めましたが、13世紀頃北部の乾燥地帯を中心とした王国が急激に衰え南部へ移動しその遺跡がいつのまにかジャングルに覆われてしまいました。
 その後1815年にイギリス人がスリランカ全土を支配し王国跡の遺跡を発見するまで長い眠りについていました。この発見の多くが現在のスリランカの文化遺産となっているものです。

 
 スリランカの首都は?と聞かれるとコロンボと答える人も多いのですが実際はスリ・ジャヤワルダナプラコッテと言い恐らく世界最長名の首都ではないかと思います。
 この首都スリ・ジャヤワルダナプラ(コッテ)は1984年にコロンボからこの地に移されました。実質的な首都は今でもコロンボに違いないのですが、この都市は日本の援助によりつくられたもので、国会議事堂や道路もすべてスリランカのイメージとは程遠い人工的な都市だと説明を受けました。
 何故日本がこの都市つくりに協力したかと言えば敗戦国となった日本が連合国による分轄統治を避けるために貢献したスリランカ人法律家の功績に報いる事業であったことは意外と知られていないようです。その人の名をとって首都となったそうですが、今回は訪ねることができませんでした。

 このような背景がありましたが、とかく紛争で危険な国と言われ観光客が激減しているスリランカの観光客誘致にアマチュア無線家に一役買って欲しいというスリランカ政府の希望もあったようです。
 その時点で私は日本のアマチュア無線家がスリランカを訪問して比較的容易にアマチュア無線局の開設が可能となるのであればその価値が大きいと伝えたところ、早速本国政府に伝えられ、その後スリランカ政府から協力する旨の回答を得て具体的な訪問予定を組むことになりました。


 そして具体的な日程も決まり概要が決定した1998年1月25日、建国記念行事が開催されるスリランカ一番の聖域といわれる「仏歯寺」が反政府組織により爆破され多くの死傷者をだしてしまいました。
 式典会場になるこの寺院はシンハラ人の尊厳ともいえる誇り高い場所で、お釈迦様の歯を祀っているお寺です。
 スリランカのテロは自爆型で、その昔の日本の特攻隊を髣髴させるものです。この時の事件も700キロの爆弾を積んだトラックが警備の軍隊と銃撃戦をしながら寺院玄関まで突入し自爆したものです。
 日本ではこれらのニュースが無差別テロと区別されることなく報道されるのでスリランカは危険地域といわれ観光の対象から外されているようです。
 しかしながらスリランカのテロは外国人を狙わず、ましてや多くの人の殺戮を望んでいない事が判ります。それは外国人の被害者を出すと反政府勢力も大きなダメージを受けるからです。
 その証拠にスリランカの反政府テロは人の少ない早朝に起こっています。この事件で建国式典は大幅な延期となり我々の訪問も中止となってしまいました。用意した免許申請書類もふいになりました。

 この事件にもめげずその後再度計画を立てましたが、ふたたび爆弾テロが発生し同じように断念しなければならない事態を招きました。
 
 そもそもこの紛争のもとは16世紀ポルトガル人がこの島を統治下に置いた時代以前から根底にあるもので、イギリスが全島を支配した19世紀、労働力として南インドから導入されたタミール人と土着のシンハラ人との紛争として現在も続いていますが、シンハラ対カソリックまたはムスリムとシンハラナショナリズムとの衝突でもあります。
 このようにシンハラ人(仏教)とタミール人(ヒンズー教)の対立は千年以上続いており今世紀が終わっても解決などできない背景となっています。

 スリランカについて知ろうとすればするほど興味深いアジアの歴史を見るようで、なおさら興味がわいてきました。どうせ今世紀いやこの先千年もの間日本の国内旅行のような安全な旅が困難ならこの際思いきってアマチュア無線運用はもちろん、歴史豊なスリランカの遺跡を訪ねる旅をしておかないと永遠に機会を失ってしまうと思いました。
 実際、反政府組織のテロ活動は外国人をターゲットにするものではないが、巻き添えには注意しなければならないがこれを心配していたらきりが無く、安全について最大の配慮をしてもらうことを条件に今回ついにGOサインを出したものです。

 この呼びかけに応じたのは15名。アマチュア無線局運用に際し、スリランカで将来恒久的なアマチュア局を作ろうとの計画を立てることにしました。
 これに賛同した15名のメンバーが6月7日から14日までスリランカを訪問し初の大量個人免許取得が実現しました。もちろんビザなし短期滞在者として初の大量免許です。

 訪問に際し主要な目的を、アマチュア無線を通じた日本とスリランカの親善友好組織をつくり両国のアマチュア無線の活性化を計る。
 一般旅行者でかつ善良なアマチュア無線家のスリランカでの免許取得を容易にするための道を拓く。
 スリランカの青少年のために、アマチュア無線を通じた科学する心の援助を行い次世代の交流の橋渡しを行う、などを掲げました。さあ、そんな旅のレポート、2001年4S7(スリランカ)への旅が始まります。

2001年6月7日出発の日

 スリランカへの空路は残念ながら大阪からの直行便がありません。直行便は成田とコロンボを結ぶ、最近国営から民営化されたスリランカン航空だけです。大阪からはアジア系の航空会社から数便飛んでいますが乗り継ぎのため効率の悪い時間が必ず発生します。
 大阪から成田も決して楽ではありませんが、それでもスリランカ航空の直行便は捨てがたい魅力です。そんなわけで今回は大阪から成田経由でコロンボを目指すスリランカ航空を選びました。

 メンバーは、JARL関西の各局で私、長谷川(JA3HXJ)と家内(JG3FPN)、大阪府支部長、宮本(JA3DBD)、兵庫県支部長、安孫子(JH3GXF)、元評議員の海老原(JA3ART)、元監査長小永井(JA3CHS)と奥様(JH3FAR)、大阪府副支部長、武市(JH3IJY)と奥様、大阪府支部役員、田中(JR3QHQ)、同、中浴(JA3UJR)、兵庫県支部役員、池田(JQ3DUE)、同女性役員、阪本(JM3INF)、そして大阪の出崎(JF3KKE)と奥様の総勢15名が伊丹に揃いました。

 早朝の便は空港までのアクセスに苦労します。8時00分伊丹発のANA、NH76便に乗るには特に京都のはずれにいる海老原さんは苦労したようです。
 しかし集合時刻になっても近いはずの宮本さんのグループが到着せず心配しましたが、交通渋滞に巻きこまれそうですが何とか全員間に合いました。
高速道路の事故のだったそうですが、一番の冷や汗は本人達だったようで成田出発に間に合わせるために新幹線で移動しようか・・などを真剣に考えていたとのことでした。

 スリランカ航空UL455便は、13時20分成田を出発します。出発までここでも待ち時間が発生します。日本の空港は使用料が高いと外国の航空会社に敬遠されていますが、滑走路一本の国際空港など日本人にとっても不便この上ない空港です。海外から到着しても地方に帰る国内線がありません。
今回の旅を終えた帰国時には6時間成田で待たねばならない予定になっています。出かける前から苦言のようで申し訳ないのですがこれは何とかしてほしい旅行者の願いです。

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今回ありがたいのは15人のわいわいがやがや組ですから時間の消費には事欠くことが無いのがせめてもの幸せです。いよいよ出発です。海外旅行通も何人かいますが、海外旅行が初めてという方もいます。
 お馴染みのX線による荷物検査が終わりほっとしてカウンターに行くと空港警備員からいきなりスーツケースの開放を命じられました。なるほどこれから行こうとする国への緊張感が少し高まったようでした。
 このとき「スリランカからの出国はこんな生易しい検査じゃないよ!」と耳打ちされたことが現実になったのは帰国便のコロンボ空港でした。


 我々一行は危険なものは持参していないものの何しろアマチュア無線運用を目的としているために無線機2台、アンテナ2基を持参しており、無線機は箱ですがアンテナは長尺の厄介者です。
 スキーやサーフボードのような特例の扱いが無いのでこんなものどうするの?と思われるのか融通の利かない航空会社ではかなり交渉が大変です。このアンテナのためにスリランカ入国の際にタイムロスが発生することになりました。

 

乗ってしまえば天国

 スリランカ航空のUL455便の機材はA340クラス。これで採算が合うのかなと思うほど空席が目立ちます。海老原さんは4人掛けの席に足を延ばしてそのままコロンボに…ファーストクラスなどメじゃないほどゆったりとした快適な空の旅でした。

 機内食はアメリカ系の航空会社より断然よく、アシスタントパーサーが着用するスリランカサリーの美しさとそのセパレートのユニフォームの間から見える褐色の肌が、彫りの深い顔立ちとマッチして南国の情緒を漂わしていました。次回もスリランカ航空にしてもいいかな‥。

 空路は9時間、時差は-3時間です。成田を午後1時20分に出て現地に夜7時30分に着きます。日本は夜10時半になっています。乗ったらすぐにランチタイムになります。その後ウトウトとしながら各席に用意されているビデオやナビをワッチしながら夜間飛行に入ります。実際は真昼です。
 目が覚めるとやがてディナータイム‥正に飛行機の旅は養豚場の豚のようにフォアグラつくりをイメージするくらい食べてばかりの感じがしないわけではありません。
 到着後はおそらくカレー料理三昧‥今のうちに日本の香りを楽しんでおこうと思いながらコロンボ到着を心待ちにしていました。


 私の海外初旅行は冬のロンドンでした。その頃はロシアの上空を自由に飛べない時代でアンカレッジ経由か悲惨な南回り便しかヨーロッパに入ることが出来ませんでした。
 通常18時間、南経由では20数時間かかりあれはまるで「修行場」です。それ以後私の飛行機での限界時間は6時間程度というリズムを感じ今に至っています。ですから今回の9時間の飛行も正直嫌だったのですが、余りに多い空席のおかげてあちこちに移動でき妙なファーストクラスより快適な飛行でした。


 もう一つ貴重な経験をしたのは、メンバーの池田青年が車椅子なのでスタートの神戸から利用した空港リムジンバスに付き添い介護員として乗車しそのまま航空機まで搭乗したことです。
ANAはビジネスシートを開放してれ皆が降機してからリフト車が機材に横付けされ直接ゲートへ送迎される経験をしました。ただ一つの問題は「おい、池田君もっと減量せー!」車椅子への乗せ変えの時の感想です。
 

コロンボに着く

 コロンボ国際空港に着きました。荷物を受け取り皆がルンルンでカスタマーを通過‥その時「それ、何や?」もちろんシンハラ語だったようですが、長いアンテナの箱に係官の目が光りました。
 成田では長い荷物を聞かれたら「スキーです!」と言えばいいなんて無責任な話をしていましたが現実になりました。私は赤道に近い国で「スキーです!」言うほど心臓も強くなくジョークが通じなければ虚偽の申告で余計に時間がかかります。ガイド役はオロオロと「正直に申告すると無線機は課税の対象だ・・」と心配そうで頼りがいがありません‥。
 「スリランカに寄贈する無線機とアンテナに課税してどうするねん??」そんな思いでしたがカスタマーオフィスに連れていかれました。
 荷物を管理してくれていた田中さんと税関の調査室で尋問されることになりました。同じような経験が中国でありました。無線機が目に留まり公安の部屋に連れて行かれたことがあります。迎えの政府関係者の到着が遅れ「困ったなあ」と思ったことを思い出しました。その時はすぐに顔なじみの友人が現れ「さあ行こう」その荷物を手にそそくさとその場を離れたことを思い出しました。市長より共産党地区書記長が偉い国ですから何でもないことだったのでしょう。


 さて、コロンボ空港ではそうはいかず、まずスリランカディフェンス(防衛庁)の許可証を見せました。次に観光大臣の許可書類そして何よりも心強いのはスリランカテレコミュニケーションが私に出した無線局免許状です。実は私はこの免許を空港で受け取ったのです。

 確かに私の名前と4S7YHGのコールサインが書かれた正式な免許です。それでも係官は、それぞれのセクションに電話を入れて確認をとっているようです。初めての旅行者ならちょっと尻込みする光景かもしれませんが、「無線機をゲリラに取られたらどうする?」という発想が真っ先に浮かぶ政情を思い浮かべました。

 厳しそうな顔つきの役人のデスク前で待つ事数十分、また別室に行きそこで通関書類にサインをしようやく開放されました。1時間かかってしまいました。比較的ノンビリしているようでかなり厳しいコロンボ空港のカスタマーオフィスでした。
 税関のおエライさんに礼をいってようやくゲートをくぐりました。他の皆さんは何事も無かったように既にスリランカルピーの両替を済ませやる気充分の様子でした。

 

大型観光バスがコロンボ市内「TAJ SAMDARA HOTEL」に向かう

 スリランカの車は、バスと三輪バイク以外はほとんど日本車です。しかも新車は輸入できません。中古車でも3年を経過したものがその対象で、バスはインド製のTATAというその昔メルセデスベンツと合弁した会社のものがほとんどを占めています。

 我々を迎えてくれた旅行社のバスは運転席に「踏み切り一旦停車」「泥はね運転注意」ステップには「自動扉」などおなじみの文字が見える大型観光バスです。ボディカラーは西武系観光バスと同じなので恐らくそのお古に間違いないでしょう。
この大型バスが翌日から、すさまじい交通ラッシュの中をまるでゴーカートの様に走りだすとは想像もつきませんでした。

 最初の宿TAJ SAMDARA HOTELは、インド系のチェーンホテルです。ホテルのロビーで部屋割りを待っているときハプニングがありました。部屋に入る前休憩を取ったラウンジに「バースデーケーキ」が届いたのです。
 この日は小永井さんの誕生日にあたります。突然思いがけないみんなの祝福を受けてご本人も感激だったようです。旅の初日にこんな祝福を受けるのも珍しい事ではないでしょうか。
 隣の奥様も嬉しそうに微笑んでいたのが印象的です。ケーキの味はめっちゃ甘く「まいった!」と言う感じでした。スリランカ最初の夜も更けて来ます。明日はいよいよ免許取得の正念場が待っています。
 

免許をもらう(はたしてもらえるのか‥)8日の朝

 食事はすべてカレーです、と言う言い方がいいのか解りませんがもちろん外国人用にパンもミルクもありますが、基本的にはスパイス料理です。ビュッフェスタイルで嫌いなものを避ければいいのですが、好奇心にあおられ何でも口にすると涙とともに汗が吹き出す料理が朝から並んでいます。
 上手に食さないと食あたりではなく消化不良により下痢を誘発することがあります。中国へ出向くと強烈な下痢を起こす人が多くいます。20数回行った中国でそのメカニズムが解ったのは3度目位のことでした。
 日本では使わない大豆油で調理した食物を摂り続けると腸に油膜がはって吸収できなくなるという経験でした。スリランカでも椰子油を使った料理に同じことが起こるのではにかという事です。
 私の旅の注意はこの点がおもな配慮です。何と言ってもおいしい料理が目の前に並んでいるのですからパスするわけにはいきません。



いよいよスリランカの電監へ出頭

 交通渋滞のなか大型バスがテレコミュニケーションを目指します。一時のタイ、バンコクのような渋滞です。2車線の狭い道にぎっしり車があふれているのですからテレコム前に着いても、バスを止めるスペースがありません。クラクションの中急いでバスを降りて銃で武装した警備員が居る警戒厳重なゲートをくぐりました。バスに残ったのは無線やらない班の3人と車椅子の池田青年です。

 一番無線に熱心な池田君を置いていくのは気の毒ですが、この道路を横断するには高度なテクニックが必要で危険回避のために止む無く池田君をバスに残して緊張の高まる社屋に入ることになりました。テレコミュニケーションはもちろんテロリストのターゲット施設であり警戒が厳重なのは当然でしょう。
 すぐに担当のデスクを訪ねあとのみんなは暑い入り口で待機してもらうことにしました。
さて、書類はと聞くとみんなの申請書は保証人のサインを得るために観光局にあるとのことでした。今から観光局に戻る時間がないために観光局アシスタントを走らせ書類を取りに戻らせました。

 その間みんなは待ちつづけたままです。お陰でスリランカのアマチュア無線事情を聞くことが出来ました。
スリランカのアマチュア無線有資格者は316人だそうで、そのうち局運用資格者が200人とのこと。
 ライセンスはノビス、ジェネラル、アドバンスでそれぞれ当然ながら電力運用周波数が決められているとのことでした。今回我々に免許を与えられると外国人として151人の免許発給となるそうですが、次に来ても同じコールが与えられるようお願いしたところそんなに期間をあけなければ大丈夫だとの返事が得られました。


 待つ事1時間あまり観光局から書類が届きいよいよ個人免許付与のための書類作成となりました。一人一人担当官の前に座り署名をすることになりました。
 担当官は女性でRamanie Indilcadulleさんです。今回上手くことが運んだのは彼女の功績が大です。

 手続きを終えてテレコミュニケーションのトップ、ジェネラルディレクター・R、D、Somasiri氏に面談を申しいれて会うことが出来ました。
 しばらく話しているうちに、彼がNTTで研修を受けたことや17回も日本を訪問して、友人が多いことが判りましたが、話をしているうちに「日本からアマチュア無線運用を希望するものが多く便宜を図っているが、スリランカ人の日本でのアマチュア無線運用については認められていない。ぜひ帰国したら日本の主官庁に申し入れしてほしい」と強い要望がありました。
 帰国後JARL理事会でも報告し是非とも総務省に伝えるよう申し入れたのは言うまでもありません。

 そのような話をしているうちに、ジェネラルディレクターのSomasiri氏が、書類が間もなくまわってくるだろうからすぐにサインしようと約束してくれました。思わず「やった!」と喜びの握手を交わしました。

 その後スリランカ最後の日、観光局主催のパーティーに招かれた時に、彼がわざわざ来てくれて「今回免許を与えたことは本当に良かった。次回の訪問の際にも協力しよう」と改めて言ってくれたことは大変大きな意味をもつもので喜ぶべきおみやげとなりました。

 書類が出来上がるまでの間昼食をとるために局舎を離れました。着いたところは「錦城」という中華料理店です。まさかコロンボで中華料理店に行くとは思っていませんでした。

 今回のメンバーの中に飲兵衛が何人かいます。スリランカ航空の中で初めて「スリーコイン」というビールを飲みました。意外と評判がよくそれ以後このビールをたくさん飲むことになりました。
 食事を終えて、改めてテレコミュニケーションを訪ねました。みんなをバスに待たせて局舎に入りました。
 しばらく待って10人の免許が手元に届いた時は3年間の苦労が実ったと嬉しくて仕方がありませんでした。
 免許を手に駆け込むようにバスに戻り、待ち望むメンバーに免許を手渡した時は、本当に約束が果たせたのだとホッとした思いでした。心は今夜からの運用地ギリタレの町への移動です。


 スリランカでの外国人の免許はコールサインの後にG(ゲストの略)がついてきます。私のコールは4S7YHGヨシヒコ・ハセガワの頭文字が割り当てられYHGとなっていました。
 みんなからクラブ局免許とからかわれ、それなら全員イニシャルで行こうかと思ったのですが、希望するコールを割り当ててもらえないかとお願いしたところところ快くOKしてもらったものです。希望がかなわなかったのは坂本嬢だけです。先約があったからです。


その結果、4S7YHG(JA3HXJ)、4S7GGG(JA3ART)、4S7DBG(JA3DBD)、4S7GXG(JH3GXF)、4S7CHG(JA3CHS)、4S7FAG(JH3FAR)、4S7IJG(JH3IJY)、4S7QHG(JR3QHQ)、4S7UJG(JA3UJR)、4S7DUG(JQ3DUE)、4S7YJG(JM3INF)の11局が勢ぞろいする事になりました。

 

DE JA3HXJ 


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