岬めぐり

 北海道は、島の形状から実に多くの半島や岬があります。その数がいくつあるかわかりませんが、内陸部の魅力とは別に海と半島がつくる景観は岬と空のコラボとあわせ観光客に感動をあたえます。
 今回の旅の目的の一つが「岬めぐり」ということもあって海岸線を走ることが多くなりました。今回訪れた半島の岬や海岸をご紹介します。



積丹半島
 積丹半島(しゃこたんはんとう)は北海道西部、後志支庁にある半島です。地名の由来はアイヌ語のシャクコタン(夏の村)という意味だそうで、日本海に向かって突き出た半島です。
 調べると地質学上では那須火山帯に属する後志火山群の延長上に位置しているそうです。半島部の全長は約30q、地形は平野部が少なく急峻で、中心では積丹岳や余別岳が脊梁をなし、沿岸は複雑な海岸線の連続です。そのため、風光明媚な景観に優れ、海岸線一帯はニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定されています。
 
 半島には積丹岬や神威岬など岬が多く、それを取り囲む小さな湾に幾つもの漁村集落が生まれ、とりわけ江戸時代から大正末にかけて続いたニシン漁を始め、長らく漁業が周辺町村の経済を支えていました。
 近年は沿岸漁業の不振により、人口流出による過疎化が進んでいます。最近では観光業が注力になっていますが、札幌大都市圏に比較的近いにもかかわらず交通の不便さが大きなネックとなっています。
 ただ車を利用すると一足飛びに岬まで行け突端の灯台まで少し歩けば灯台にたどり着くので不便は感じません。適度な緩やかな坂道のコースでもあり自然の中を歩くこともいいものです。
 積丹半島は、温泉資源が豊富であるにも関わらず、雷電温泉、盃温泉郷以外はさほど開発が進んでいないのも自然の中で交通の便が良くないからです。
 近辺は魚介類が豊富で、ヒラメ、イカ、ウニ、スケトウダラ(タラコ加工も盛ん)などが名物となっています。かつては檜山や留萌と同様、ニシン漁でも知られ、一帯はソーラン節の発祥地でもあます。
 北海道の岬は、いや岬以外の観光地も一部を除いて人が少ないので驚きます。
 この灯台を訪れた日は平日でしたが、私たち以外に若いカップルがひと組と、三脚を抱えた男性のカメラマニアとおぼしき人の、たった5人だけで静かな岬でした。

 昭和45年に航路が開かれた新日本海フェリーが小樽港に入港するときに一番長く見えるのがこの灯台の灯りです。
 積丹半島の赤白灯台は個性豊かで船から小樽に入る人たちを真っ先に迎える特に印象的な岬です。
海から見る岬と、岬から見る海原と両方味わえたことは良い思い出となりました。




スコトン岬
 北海道に着いて最初の観光地が礼文島です。この礼文島の北部西海岸の断崖がそのまま岬になったスコトン岬に行きました。ここが礼文島の最北限といわれています。
 紺碧の大海原が広く広がる岬の正面には、冬はトドが見られる無人のトド島が浮かび、右手には対岸の金田ノ岬を望み、天候に恵まれればはるか沖合いにサハリンの島影がみられます。
 スコトン岬が最北限の地という表現になっているのは、実際の最北端は宗谷岬だからです。測量をやり直す前まではここが日本の最北端と思われていたようですが、宗谷岬より緯度的にはわずかに南にあります。
 最北端ではないことが明らかになってからも北限のイメージを残したいということから最北限という表現を使っているそうです。
 
 今回小樽から直行した町が稚内でした。その稚内港から礼文島に向い標識に従って最初に来たのが日本最北限の地が「スコトン岬」でしたが何と言ってもスコトン・・・と言う実にとぼけた地名に興味を覚えます。漢字で書くとそれなりに重みを感じるのですから日本語は不思議です・・・。




澄海岬(すかい岬)
 礼文島の海を代表すると言っても良いくらいこの岬の海は美しく輝いています。海は最高の透明度をほこり、礼文島西海岸北部にあるこの岬は絶壁、岩礁、青く透明な海、お花畑と、実に変化に富んだ名勝です。
 西海岸を歩く人達の格好の遊歩コースでもあり、道端にはイワベンケイやノコギリソウ、ツリガネニンジン、クサフジ、イチリンソウなどがごく普通の草花として、何処にでも咲いています。
 地図にあるスカイ岬ってどんな字を書くのだろうと思っていましたが、澄んだ海・・スカイ!ネーミングの天才ですね・・・




猫岩・地蔵岩
 礼文島西側の海岸を走ると、小高い丘の展望台から桃岩と猫岩が眺められます。地蔵岩は白亜紀という古い時代の地層が表面に出て侵食に耐えたもので形だけでなく生成の過程も貴重なものだそうです。
 最初はどれが猫?で・・地蔵?と見渡していると、あれがそうなのか!!と判るようになります。誰もいない海岸線に人の居ない土産物屋があり実に不思議な感じがする観光地でした。
 礼文島を気ままに走りながら案内標識にさそわれて足を進めた場所のひとつでしたが、岬の小高い丘は風が強く内地なら誰も寄りつかないくらいの風が日常的に吹いていました。




利尻島・富士野園地
 6月中旬〜7月中旬にかけて一帯で咲くエゾカンゾウの群生地としても知られ、ウミネコなどの海鳥とクロユリのサンクチュアリの群生地です。
 岬と言える地形ではありませんが低い展望台なので、気楽に行くことができます。間近に礼文島が見え、展望台からはポンモシリ島が望める事が出来ます。
 利尻・礼文サロベツ国立公園内にあり、富士野園地が岬が否かは別として美しいところでした。海浜植物の宝庫であるこの海岸線は貴重な自然遺産です。



宗谷岬
 この寒さは何だ・・・気温9度、風速10数メートル!北海道の岬の厳しさを体感したのが宗谷岬でした。
 宗谷岬は北海道稚内市にある岬で「日本最北端の地」と記された石碑が建てられており、この石碑を目指してやってくる観光客も多く私もその一人です。
 現在、北方領土を除く日本の最北端は、日本政府の実効支配の及ぶ領土としては、実際にはこの宗谷岬の西北西に位置する弁天島という岩礁です。



 また2004年10月には宗谷岬周辺の丘陵地帯、通称「宗谷丘陵」が北海道遺産に選定されました。
 肉眼で確認できる周氷河地形というのは全国的に見ても珍しく、この地形を利用した牧場が広がり放牧されている牛達を見ながらの丘陵地帯を通る道は、稚内から宗谷岬を目指す観光ルートの一部として定着しています。

神威岬
 国道238号線、浜頓別を過ぎたころ神威岬という標識に出会いました。国道をそれて足を進めると灯台にであいました。
 地図には北見神威岬とでています。積丹半島のカムイ岬とは異なります。


延々と続くオホーツク道路は何も見所のないところですが、北海道ならではの道が続きます。
この灯台には説明書きもなく良く分かりません。
カムイ岬を名乗っているのですからそれなりの由来はあるはずです。
道路も狭く、長く駐車することもままならない場所ですから訪れる人もまばらでしょう。


知床半島
 知床半島は北海道東部、斜里郡斜里町と目梨郡羅臼町にまたがり、オホーツク海に長く突き出た半島です。半島の南側は根室海峡に面し、その対岸にはロシア連邦が実効支配し日本が返還を要求している島の一つ国後島が伸びています。
 知床の名前の由来は、アイヌ語の「シルエトク」 (sir etok:大地の果て、大地の突き出た所)からきています。
 2005年7月、日本最後の秘境といわれた「知床半島」がユネスコ世界遺産になりました。知床半島は1964年に国立公園に指定され、すぐれた自然景観、原始状態を保持している地区として保護が徹底されています。
 私はウトロの町から観光船に乗りましたが、羅臼からも観光船がでていて知床の両側を見ることができれば最高の自然に触れることになり旅人としては最高の贅沢でしょう・・・・・



 観光などの公園利用に厳しい制限を設けている知床半島特別保護地区は、半島面積の約60%を占め、国立公園に指定されている面積は38,633ヘクタールに及びます。
 知床半島は、流氷がはぐくむ豊かな海洋生態系と原始性の高い陸域生態系の相互関係に特徴を持ち、生き物達の中でも世界的な絶滅危機に立たされている希少な動物も多く棲息しています。
 流氷がもたらすプランクトンがたくさんの生き物のいのちの源となり、海と陸の生態系がとぎれることなく連鎖しています。
 この豊かな海を漁場にしている漁師さんも夏の顔と冬の顔が極端に違う知床の海には畏敬の念をもって暮らしていることを感じます。

納沙布岬
 納沙布岬は、北海道の岬で離島を除いた日本の最東端です。根室半島の先端に位置し東経145°49′、北緯43°22′にあります。
 半島は根室市に所属し、珸瑤瑁(ごようまい)水道を挟んだ海の向こうには現在ロシア連邦の占領・実効支配が続いている歯舞諸島を望みます。
 歯舞諸島貝殻島まではわずか3.7kmしか離れておらず、ロシアの巡視艇が海上に頻繁に姿をあらわします。内地の人たちが意外と知らない事実です。
 納沙布岬は穏やかに我々を迎えてくれました。ここでも観光客の余りの少なさに驚きましたが、もうこれが北海道の標準だと慣れっこになりました。



 この岬は印象深い土地です。望郷の岬公園、四島のかけはし、納沙布岬灯台、北方館、望郷の家、平和の塔などがあります。
 元旦には北海道一早く初日の出を拝める場所として、「納沙布岬初日詣」がおこなわれています。
 北方館、望郷の家には双眼鏡が設置され、ここから歯舞諸島の水晶島(7km)を見ることが出来、平坦な島の上に、ロシアの監視塔や、レーダー施設を見えます。
 私のように北海道にご縁がないものでも日本の歴史やこれらの島に戸籍を持っている人がいかに多くいることからもその心情を察すると望郷の念は筆舌に尽くせないものだと感じます。
 何よりこの辺りの海域は、日本海域とロシア海域が共に200海里を取る事が出来ない為、岬から歯舞諸島との間に日・露中間線(事実上の国境線)としてのブイがあり、日本の漁船がこれを超え操業しロシア側に拿捕される事件が度々起こっている哀しい海でもあります。
 四島(しま)のかけはしは世界平和といわゆる「北方領土」返還を祈念するために作られたシンボル像で、像の下には「祈りの火」と呼ばれる点火灯台があります。
 この火は1972年5月15日に沖縄県波照間島から採火したもので、 アメリカ占領下から日本復帰へとげた願いをこめて、全国の青年団によるキャラバン隊の手により運ばれました。その時のカンテラが種火ともに北方館に展示されています。

襟裳岬
 襟裳岬は、北海道幌泉郡えりも町えりも岬に属し、太平洋に面する岬です。今回の旅も終わりに近づいたころ当初の計画を変更して襟裳岬を目指しました。出来れば北海道の岬をすべて回りたいという希望がありましたがその為にはどうしてもあと3泊滞在しなければなりません。
 しかしオホーツク道路の走行が意外とスムースで1日行程が繰り上げられことで襟裳岬との出会いが叶いました。
 北海道で最も有名な岬の一つですから、せっかく知床、納沙布をこの目で見たのでどうしても行きたくなりました。
 襟裳岬は北海道の形を大きく表徴する自然地形の一つで、日高山脈の最南端になります。
 太平洋に突き当たって長年の強風と荒波に削られ落ち込んだところがこの岬で、岬の先にある岩礁群も日高山脈の一部だそうで日高山脈襟裳国定公園の中核を成す観光地となっています。
 それにしてもこの風の強さはいったい何だ・・とおどろく程です。
 駐車場に置いた車が横転するのではないかと思えるほど恐怖感を覚える強風でした。
 波しぶきか雨か分からない水しぶきはカメラのレンズを一瞬にして曇らせます。もし天気が良かったらどんなに美しいでしょうか・・・!
 岬には歌碑が二つ並んでいます。ひとつは島倉千代子が歌ったもので1971年設立され、もう1つがレコード大賞を受賞した森進一の襟裳岬で1997年に建てられたものです。
 そう言えば稚内から礼文島への船ではダ・カーポの宗谷岬が流れていました。歌による観光客の誘致は絶大なものであることを感じました。

オタモイ海岸
 なかにし礼さんが作詞した曲に「石狩挽歌」あります。その歌詞の中に「オタモイ岬のニシン御殿も・・今じゃさびれてオンボロロ・・」というくだりがあります。
 当然オタモイの町にも立ち寄りその岬を探しました。しかし岬という表示はありません。地図にはオタモイ海岸というのが出ています。さっそく目指してみました。
 車が交叉出来ないくらいの狭くて急な道がオタモイ海岸に行く道です。着いたところは何もない広場でぽつんと看板がありました。
 なんとここにその昔竜宮城があったそうです。記述によると・・
【景勝地 オタモイ海岸】
 オタモイ。地名はアイヌ語のオタモイ(砂の入り江の意)に由来する。オタモイ海岸は、市の北部にあり高島岬から塩谷湾までの約10kimに及ぶ海岸の一部で付近には赤岩山(371m )など標高200m前後の急峻な崖と奇岩が連なっている・・(中略)かつてこの地に一大リゾート基地が存在した。昭和初期、隆盛を誇った割烹「蛇の目」の店主 加藤秋太郎は「小樽には見所がない」という知人の言葉に奮起し、名所探勝の日々にあけくれる。そしてついに古来白蛇の谷と呼ばれたこの地を探し当て、昭和11年「夢の里オタモイ遊園地」を完成させた。その規模は当代一を誇りブランコ、すべり台、相撲場等の遊園施設のほか、龍宮閣や辨天食堂といった宴会場や食堂を設けた。特に京都清水寺を凌ぐといわれた龍宮閣は切り立った岩と紺碧の海に囲まれ、まるで竜宮城のおとぎ話の世界のようだたという。
 最盛期には一日数千人もの人々で賑わったこの施設も戦争が始まると贅沢とみなされ客足が遠のき、戦後、これからという昭和27年5月10日、営業再開を目前に「龍宮閣」は失火炎上 焼失してした。
と言う内容でした。
その後、「オタモイ遊園地」は再開が果たされないまま、「白蛇辨天堂」は崖崩れで崩壊、時の経過で朽ち果てた「辨天食堂」は昭和52年9月22日、撤去されてしまう・・・夢の跡を偲ばせるのものは坂上の丘に移設された「唐門」、遊歩道トンネル、そして「龍宮閣」の「礎石」だけである・・・当時の小樽人のスケールのさることながら悠久の世界に思いは深まる・・

 この情報によると、石狩挽歌の歌に出てくるオタモイ岬は存在しないようです。私の車がやっとの狭い道が結ぶ遊園地に一日6000人が訪れたという意味が全く理解できまま帰ってきてしまいました。この謎解きを誰かにお願いしたい・・真剣に思っています。

神威岬
 神威岬は、積丹半島西北端に突出する高さ80mの岬です。国道229号線から少し登ったところにある駐車場から、「チャレンカの小道」とよばれる遊歩道を20分ほど歩くことで岬の先端にまで行くことができます。
 沖に立つ巨大な神威岩には、源義経を慕って後を追ってきたアイヌの娘チャレンカが海へ身を投じ、その姿がやがて岩と化したという伝説が残っています。
 かつては海路の難所で、舟に女性を乗せると海が荒れるという言い伝えがあり、1855年(安政2)まで女人禁制の岬だったそうです。
 今回の旅の最終日、小樽の町を散策する前に積丹半島を一周することにしました。神威岬の駐車場から歩くこと20分あまり・・延々と続く小道はそれだけでも絵になります。
 岬のつけ根から海を見下ろすと、透明度の高い海が乳白色の輝きと青いシルエットをつくり何ともいえない美しい色をしています。
 岬への入り口に女人禁制の門がありますがこれも今や観光用のシンボルとなっていますが、ここから突端を見渡し引き返す人も多いようです。

神威岩伝説
 神威岬の先端にある神威岩の伝説です。 奥州からひそかに逃れた源義経は、日高の首長のもとに身を寄せ、首長の娘チャレンカは義経を強く慕うように。しかし、義経は北へ向かって旅立ち、後を追ってチャレンカも神威岬までたどり着きます。ところが、義経一行は既に出帆してしまい、チャレンカが大声で叫んでも折からの強風にかき消されて届きません。
 悲しみにくれたチャレンカは、「和人の船、婦女を乗せてここを過ぐればすなわち覆沈せん」という恨みの言葉を残して海に身を投げてしまいました。その姿がやがて岩と化したと言い伝えられているのが神威岩です。以来、女性を乗せた船がこの沖を過ぎようとすると必ず転覆したため、神威岩はかつて女人禁制の地となっていました

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