各地の名所

 北海道の初日は身震い 
 新日本海フェリー「はまなす」は定刻通り7月9日20時45分小樽港に接岸しました。20時間の快適な船旅を終え、翌朝礼文島に渡るフェリーに乗る為に夜を通して走ることにしました。船の中でゆっくり過ごしたので稚内までの6〜7時間は苦にならないと思ったからです。当初は海沿いの一般道を通り稚内に入る予定でした。
 燃料補給をしてから高速道路に入るつもりでしたが、フェリー周辺にガソリンスタンドが見あたらずきょろきょろしている間に道央自動車道に自然に乗ってしまいました。
 
 内地の常識では高速道路には60kmごとにSAがあり、給油は可能・・と思っていたのですがこれが誤算でした。PAに立ち寄っても広い駐車場に車が1台程度・・走行中も誰も追いつかない追い越せない高速道路なのです。まるでアメリカの田舎道を走っているような信じられない光景ばかりです。
 売店のアルバイトとおぼしき女性従業員に、次のガソリンスタンドがどこにあるのか聞いても「わかりません・・」と軽くいなされて、実に不安になりました。とにかく翌朝の礼文島行きのフェリーの予約を入れているのですから、この時間までにたどり着きたい一心でした。
 
 日常味わったことのない不安な走行になりました。目を凝らすように道路標識を見ていると、この先の砂川SAにガススタンドのマークを見つけました。やったー、距離はあと20km・・これなら問題なくたどり着くとほっとしながら車を走らせました。
 時間も遅く、市街地のGSなら閉店時間帯もやむなし、しかし24時間営業の高速道路なら安心とホッとしたものです。
 ところが・・、ようやくたどり着いた砂川サービスエリアのガソリンスタンドは灯りがついているものの、大きな看板に「7月中の営業は、朝8時から夜7時までとさせていただきます・・」と出ているではありませんか・・・こんなだまし討ちはないと憤慨しながらも、じゃあ冬場は何時まで営業しているの・・冗談じゃない、一大事です。
 
 もしこの先給油できなければ、携行している予備燃料だけでは稚内にたどり着く保証はありません。
 それにしても高速道路は夜に走るなと言うのか・・これが北海道標準なら少なくとも夏の観光立国としては失格でしょう・・。
 騙し打ちのような歓迎に失望し、高速道路の走行をあきらめ、一般道に出ることにしました。
 とにかくガソリンスタンドを探さねばなりません。神戸から舞鶴経由小樽までの走行距離は約140km・・小樽から稚内までまだ360km。燃料は最低36Lは必要です。どうしてもあと1回給油が必要です。

 当初旭川あたりで一般道に出てGSを・・と考えていましたが、愛車カーナビは旭川ルートではなく留萌への道を案内しています。距離的にはこのルートが妥当でしょうが、ガソリンスタンド発見の確率は大都市が断然有利です。ただこの選択は運命の分かれ道です。
 もし給油不可能ならフェリーのキャンセルを連絡しなければなりません。とにかく行けるところまで行こう・・・
 
暗い夜道が続き、いよいよ警告ランプが点灯し始めたころ何とか留萌の街に入りました。北海道の夜はすこぶる暗く、アメリカの田舎町を走っているようなイメージです。
 口数も少なくなりあきらめかけたとき明るい照明がみえました。看板を見るとどうでしょう・・「セルフ」と書いたガソリンスタンドがあるではありませんか。
 燃料ゲージは警告ランプから点滅にかわって飛行機なら墜落の警告ブザーです。まさに天の助け、地獄に仏のような思いでした。
 時刻は23時47分、心から感謝しながら満タン完了・・人間なんて勝手なもので今度は豊かな気持ちで稚内に向けて走ることができました。
 実はこの経験がその後の北海道を走るための一つの教訓を生み出し、その後の快適な旅を続ける知恵を授けてもらったのはいうまでもありません。

 岬巡りのご紹介は別のページに設けましたので、ここではそれ以外の名所や面白いものをご紹介します。

昆布干し「2007.7.10 10:00」
 礼文島や利尻島の海岸線は収穫したばかりの昆布干しの浜が広がっています。
 朝、石ころの浜に並べた昆布は午後には乾き、取り入れることができるようです。作業中の漁師さんになぜそんなに早く乾燥するのかと聞くと風が強いからだ・・という答えが返ってきました。

強風が昆布の美味しさを封じ込めるようです。風が強いため昆布が飛ばないようにネットをはっているのがわかります。
 
 昆布干しや乾燥後の取り入れは漁師さん総出の作業のようです。木枠の中に昆布を入れてほぼ同じ量になるようにまとめ、それを一つ一つ縛って一定の重さを保つように作られてきます。
 初めて見た昆布の乾燥作業はとても面白いものでした。
この作業をみると利尻や礼文の昆布が高いと言う意味が判ったような気がしました・・

礼文空港「2007.7.10 14:50」
 道路標識につられて日本最北の離島空港に行ってみました。昭和53年まで礼文島は、稚内への輸送をフェリーに頼っていましたが、空港が開港したことにより、長年の島民の願いである空の高速輸送が実現しました。
 「花の浮き島」とも呼ばれ、多くの観光客が訪れる礼文島です。緊急輸送やフェリーが欠航した場合の唯一の交通手段でしたが利用率の低下と採算性から平成15年3月より廃止となりました。そんなことは分かって作ったはずなのに、それを理由に廃港なんて実に責任のない現在的日本があります。
 私が行った日は、 電気室に業者がいてメンテナンスをしていました。聞くと今は定期航路はないがいつでも使えるようにしています、とのことでした。なんだ、経費はきちんとでているんだ・・なら使うのが当然でしょう・・・!
 だめ押しになりますが、昭和15年に採算性が低下して廃止とのことですが、どう逆立ちしても採算性など最初からないわけで無責任な役人の言い訳にしか聞こえません。
 使い方次第では充分に活用できる空港ですから、花の浮島をキャッチフレーズにもっと智恵をだせ!!と・・島民もこれに関しては冬眠せずに声を出せ!こんな激励をしたくなりました。
空港は緑と高山植物の小高い丘で結ばれとても清々しい場所です。
 ここで出会った人は、空港メンテナンスの二人と、兵庫県から車で来ているご夫婦二人だけでした。こんな名所なのに・・・

礼文町 高山植物園「2007.7.10 15:40」
 日本最北の花の島、礼文島に高山植物園がありました。北部の久種湖近くの見本園では30種、約2万株の高山植物が開花時期を調整しながら常時咲いています。
 併設のビジターセンターでは、高山植物についての資料を展示し学術的にも貴重な花々の生態を研究する施設があり、バイオテクノロジーを駆使した貴重な研究で有名だそうです。
 偶然通りかかって訪れた植物園ですが、狭い園内よりその縁を囲む雄大な草原に圧倒されました。植物園よりそれを囲む雄大な緑に300円の入園料を支払った感じです。

見内神社「2007.7.11 06:20」
 何の変哲もない礼文の海岸線に小さなお社がありました。見内神社(みないじんじゃ)と読むそうです。
 間単に言えば礼文アイヌの悲恋が秘められた安産祈願の神社ですが、詳しくは写真のオフィシャルな案内板をご覧ください。
 見ないカムイ伝説のいわれが書かれた案内板にまた古の礼文の歴史にふれました。旅人が伝える以外ほとんど紹介されることのないお話しかもしれません・・・

利尻島・姫沼「2007.7.11 10:10」
 最北の国立公園が「利尻・礼文・サロベツ国立公園」です。周囲63km、中央に1,721mの秀峰”利尻山”(通称「利尻富士」)がそびえています。
 姫沼というロマンティックな名前に誘われ車を進めました。
 駐車場ですれ違った人から綺麗なところですよ!といわれ余計に足がはずみます。
「おもいでばし」と名付けられた吊り橋を渡るとそこは別世界・・・草花が好きな人には垂涎の場所でしょう。
 利尻富士を湖面に映す雄大な景観が人気の的だけでなく周囲1kmのうっそうとした原生林に囲まれた神秘的な湖の周りは散策路が整備されています。珍しい「浮き島」が見られます。良いところです・・・

石崎灯台(利尻富士町)2007.7.11 11:55」
 利尻島と礼文島の大きな違いは、礼文は島の周回ができなのに反して利尻は島を一周できるところです。
 オタトマリ沼の近くに、車からはっきり見える背高ノッポの赤白灯台があります。道路からにょっきり頭を出しているので思わず立ち寄りました。狭い道を入ると草刈りがなされた広場がありました。これが石崎灯台です。
 何の解説も言われもなくぽつんと立っている寂しい灯台ですが、この素朴さが何とも言えない魅力となっています。
夏草がきれいに刈り取られ整備された広場に降り立ち、灯台守の仕事に草刈りがあることを知りました。

利尻町郷土資料館「2007.7.11 12:20」
 利尻町郷土資料館に行ったのは平日のお昼でした。大正2年に建てられた旧鬼脇村役場庁舎を活用した洋風建物が資料館になり、昭和48年に開館したそうです。
 建物は木造の古いものですが、バックに利尻山を控え往時の利尻島の賑わいを感じます。特に旅先で訪ねる郷土の歴史はとても勉強になります。
 展示内容は、利尻の自然をテーマにしたジオラマや原始古代から近代開拓期の生活、ニシン漁場の雰囲気を再現したものを中心として、この時代この町が栄え果たした歴史は尊敬するものでした。ここで昼食をとったので余計印象に残ります。

沼浦展望台「2007.7.11 12:50」
 これも全く予備知識のない場所のひとつです。利尻島は案内標識が多く、その通りに走れば逃すことなく観光地に行き当たります。
 ここは鴛泊〜鬼脇の海岸線を見渡すことのできる展望台で、聞くところによると海面から昇る朝日を眺めるには絶好のスポットだそうです。
 標高42m程の高台から、眼下にはオタトマリ沼、その先に利尻富士を望むことができる展望台です。
ここでも誰一人会うことはありませんでした。

南浜湿原「2007.7.11 13:00」
 利尻島で最大の湿原です。オタトマリ沼から南へ約2キロ走ったところにあり、この南浜湿原は、湿性植物・高山植物の宝庫です。静かな湿原の中は木道が整備されているので利尻富士を眺めながら、咲き誇る野の花を観察しながら散策するには最適です。
思わずシャッターを切りたくなるほどの美しい池と山が目前にせまります。
ただ駐車場の整備がされておらず乗用車3台程度しか停めることが出来ません。

利尻空港「2007.711 14:30」
 空港のビュースポット展望台はどの空港でも人気の的ですが、離島の空港は一段と魅力的です。
 利尻島は、稚内からフェリーで約1時間半の海上にある島で、中央には標高1,718mの美しい利尻山がそびえる漁業と観光の島です。
 観光需要への対応と離島振興、離島交通の確保のため、利尻空港を1,800mに延長する滑走路拡張事業を行い平成11年6月1日に供用開始し、これによりジェット機の就航が可能となりました。
 ただ一日1便の就航のようですがジェット機が利尻富士を右に見ながら着陸するのは感動的でした。一度は乗ってみたい魅力便ではないかと思います。

鴛泊港「2007.7.11 17:00」
 稚内から西に52kmの日本海に浮かぶ「夢の浮島」と言われる利尻島の玄関口が鴛泊港です。利尻島と稚内を結ぶ定期航路は
3000dクラスのフェリーが就航しており今回はこのお世話になりました。
 この港は大正9年に着工されたそうですが、昭和40年に国定公園、昭和49年に国立公園に指定されてから観光客及び貨物量が激増したため、昭和46年から再び整備を実施しています。
 鴛泊港は利尻島の玄関口であるとともに、古くからの漁業基地で、地元船はもとより、しけの時には外来船・近郊漁船も避難のため、鴛泊港に入港して賑やかになります。感激の礼文、利尻の旅を終えて稚内に向かいました。

稚内公園「20077.12 06:10」
 稚内は小樽に続き、私たちの旅の玄関口です。フェリーに乗船する前後この公園を訪れました。ここは「氷雪の丘公園」とも呼ばれ観光都市稚内のシンボルとなっています。
 晴れた日には宗谷海峡やサハリンの島影を見渡す事ができ素晴らしい眺望も魅力です。ここで見かけた観光客も2日間で4・5人だったのはあまりに早い時間だったかも知れません。

 氷雪の門は
稚内公園の代表的なモニュメントの中です。樺太で亡くなった人々の慰霊と、樺太への望郷の念を込めて昭和38年(1963年)に全国から寄せられた支援によって建立されました。
 雪と氷の中でたくましく生き抜いた人々を象徴する2.4mのブロンズ像、サハリンに真向かう高さ8mの望郷の門、そして大理石の霊石の三位一体で構成されています。晴れた日には、ブロンズ像の肩越しに遠くサハリンの島影を望むことが出来ます。
 公園への道は急坂です、愛車「還紅」が最も苦手とする種目ですが、朝の公園は空気もきれいで冷たい風が気持ちを引き締めてくれます。
九人の乙女の碑
終戦直後の昭和20年(1945年)8月20日、ソ連軍による樺太真岡侵攻の最中、勤務する真岡郵便局の交換台を最後まで守り、自らの命を絶った9人の若き女性交換手を慰霊する為に昭和38年に建立されました。
 慰霊碑には亡くなった9人の名前、彼女達の最後の言葉となった「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら・・・・・」の文が刻まれています。
 この物語は興味深く、私の担当するラジオでも取り上げようと多くの資料を集めましたが、その後脚色され美化された部分と、現実との差も多くあるようです。
開基百年記念塔・北方記念館は、
稚内市の開基百年と市政施行30年を記念して建てられ、北方記念館を基部に地上80mの記念塔から成っています。
 北方記念館には郷土資料や樺太関係の貴重な資料が展示されています。頂上には四方がガラス張りの展望台が有り南には広大なサロベツ原野、東にはオホーツク海、西には利尻島、礼文島、北にはサハリンの島影を見渡す360度の大パノラマはまさに圧巻きです。
 いつも早朝の会館時間前に行ったものですから内部には入っていません。今になって残念に思っています

間宮林蔵渡樺の地「2007.7.12 07:10」
 間宮林蔵について熟知しているわけではありませんが、稚内から宗谷岬を目指しているとき、この標識を見つけました。この場所から樺太探検に旅立ったそうです・・海を覗き込んでもとてもそんな環境ではなくどうやって船をだしたのか・・・
 間宮林蔵は1808年から1809年にかけ2度の樺太踏査を行い、樺太の離島と間宮海峡の存在を確認しました。当事は今では想像できないくらい大変な時代で、郷里(茨城県伊奈町)に墓まで建て、再び故郷に生きて戻ることは出来ない覚悟で出発したようです。想像もつかない危険な仕事を成し遂げた偉大な日本人を誇りに思います。

ウソタン砂金公園・ゴールドラッシュ「2007.7012 09:50」
 浜頓別町宇曽丹と言うのがこの地名です。実はこの旅で事前に予定に組み込んだのが砂金採掘公園です。公園内には「ゴールドハウス」があり、前の川では砂金掘りを体験できるというのですから興味津々でした。
 昭和63年にウソタンナイ砂金発見90周年を記念して建設されこのハウスは、ウソタンナイ砂金地の歴史・物語・写真を展示しています。
 誰もいない建物に恐る恐る入ると、お土産や昔採掘された金塊のレプリカなどが展示されていました。
 そのうち奥から太った若い女の子が出てきたので「砂金掘りはできますか?」と聞いてみました。実はとても寒い日だったので確認の意味で聞いたのですが「やろうと思えばでき
ますよ・・・」と小馬鹿にしたような返事が返ってきました。珍しい接客スタイルです。
 返事を待つまでもなくこんな寒い川に入るつもりは無かったのですが、返事が返事なので無口になります。
 この時会話を終っておけば良かったのですが、シューケースの中に昔取れた金塊のレプリカを発見しました。こんな金塊が出たんだと感動し、さっきのことは忘れ思わずまたその子に聞いてしまいました。「この金塊の本物はどこにあるんですか?」すると「誰かがもってるんでしょうね・・・」の答え!しまったと思ったのですが、ダブルショックです。
 こんなお粗末な留守番に店番を任せている宇曽丹の砂金公園にあきれて、すぐにおいとますることにしました。
 ウソタンという名前と・・対応が何か妙に名ピッタリして、けっこう笑いがこみ上げてきました。次回の北海道では選択外になるでしょう・・。

クッチャロ湖(浜頓別町)「2007.7012 10:30」
 感動的なウソタン・ゴールドラッシュの余韻を残しながら向かったのが周囲27kmの広さを持つ「クッチャロ湖」です。
 日本最大のコハクチョウの中継地であり毎年2万羽ほどが飛来します。昭和43年北オホーツク道立自然公園の指定を受け、平成元年には日本で3番目にラムサール条約登録湿地に指定された道北最大の白鳥の湖です。
 紛らわしいのは屈斜路湖(くっしゃろこ)ですが、これは北海道東部、弟子屈町にあるカルデラ湖で阿寒国立公園に属します。謎の生物クッシーの棲む湖として一時期話題となりましたが別の場所です。

千畳岩「2007.7.12 11:30」
 国道238号線を少し反れ枝幸町岬町海べりにあえるのがウスタイベ千畳岩です。
 畳を敷き詰めたような岩が海岸に折り重なる千畳岩は観光スポットになっています。道立オーホーツク自然公園内にありキャンプ場などが整備されています。
 枝幸町はカニで有名な町ですが、全体が岬状にオホーツク海に突き出したような地形となっていて、国道からも離れ海の音を聞きながらの静かなキャンプが楽しめます。
 海の向こう側に神威岬の姿も見えて、海と山の景観を一度に楽しめることができます。感心なことは、広大な芝生広場に自由に車を乗り入れることができ驚きです。もし都会でこのような環境を解放するとお行儀よく使えるだろうか・・との思いが残りました

道の駅おこっぺ「2007.7.12 15:00」
 北海道の地名には興味が湧きます。ウソタンもさることながらおこっぺはどうでしょうか・その道の駅おこっぺで休憩しました。漢字では興部と書きます。
 歴史を見ると宝永年間に松前藩の漁場として支配され明治22年に初めて、沙留に和人が定住・・大正4年に町村制が施行され興部村となり、その後大正10年国鉄名寄線が全通し、農業、林業、漁業の飛躍的発展をみるに至りました・・と書かれています。
 道の駅には噴水や車輪のオブジェがある公園「ジョイパーク」と、今は廃線となった名寄本線の歴史展示のある興部交通記念複合施設「アニュウ」があります。ジョイパーク内にある、ディーゼルカーを改装したルゴーサ・エクスプレスがこの道の駅の目玉で、このルゴーサ・エクスプレスは簡易休憩所「語らいの舎」があります。旅行者のための無料の簡易宿泊所「出会いの宿」を提供しています。

博物館網走監獄「2007.7.13 09:00」
 早朝、上湧別を出発し次の町網走に向かいました。網走と言えばあまりにも有名なのが「物館網走監獄」です。
 博物館網走監獄は、明治以来網走市と深く関わりを持っていた網走刑務所旧建造物を保存公開する野外博物館です。
 本物の刑務所は少し離れたところにありますが、例外を除いてもちろん見学などできません。
 網走刑務所が設置されてから110年、北海道開拓を進めるための労働力だったのでしょうか「北海道中央道路工事」に多くの囚人が動員され北海道の開発に大きな貢献があったことがわかりました。
 売店の監獄グッズは相当な数で、よくぞここまで考えたな!!と笑えるものが多く、刑務所は笑えなくても監獄はお笑いの対象になるようです。東京ドーム3、5個分に相当する敷地は広く面白いミュージアムでした。

小清水原生花園「2007.7.13 12:30」
 国道244号線を走ると自然に目にはいるのがこの小清水原生花園です。
 オホーツク海と濤沸湖に挟まれた細長い砂丘に広がるこの地は5月下旬〜9月の開花期は約70種類の野生の花々が咲き誇り、色鮮やかな花畑を散策できます、
 ログハウス造りの「JR原生花園駅」はまるでおもちゃのようですが、5月から10月までは実際に列車が停まる臨時駅です。
 ゆったりした散策路を登ると一番高い展望広場から、周辺全体を見渡せることができます。東に知床連山や西の網走から能取岬、南に濤沸湖、北にオホーツク海を望めます。そんなに高い展望台ではありませんが、周囲になにもないので遠くを眺めることができます。

オシンコシンの滝「2007.7.13 13:20」
 国道334号線、斜里から宇登呂へ行く途中にあるのがオシンコシンの滝です。国道沿いの駐車場から数分もかからず壮大な滝に遭遇できるのも珍しいことです。
 滝の途中から流れが2つに分かれていることから「双美の滝」とも呼ばれその名のとおり二つに分岐して水を落とす落差80mの美しい滝は迫力があります。
 滝の上にある展望台からはオホーツク海や知床連山を遠望することができ、流氷の季節にもう一度訪ねて見たいと思いました。オシンコシンとはアイヌ語でエゾ松がたくさん生えている所という意味だそうです。

ウトロ港(知床遊覧船乗り場)「2007.7.13 13:50」
 ウトロの遊覧船乗り場で、時間が合えば知床遊覧をしたいと思い切符の予約をいれました。運良くすぐに出る知床半周コースの遊覧船に乗ることが出来ました。
 天然の良港は豊かな漁民を育てるのでしょうか、この漁港の漁船は新造船が目立ちお金持ちのようです。
 港を過酷な自然から守るように「オロンコ岩」と呼ぶ高さ約60mの巨岩がそびえています。オロンコ岩の名前の由来は、昔この岩にオロッコ族が住んでいたことから付けられたそうです。
 知床半島の旅はここから始まりすが、遊覧船の中では栃木県の修学旅行中のグループとも仲良しになり大自然を満喫できました。

道の駅知床らうす「2007.7.13 17.30」  
 知床半島観光遊覧船を下船して向かったのは峠を越えた羅臼の町でした。町の食料品店で食材を買い、きょうの泊まりは国道335号沿いに建つ道の駅「知床・らうす」にお世話になることにしました。
 ここは日本で一番、北方領土・国後島に近い道の駅で、もっとも近いところで22.5kmくらいとのことでした。私の車が珍しいのか駐車場前の物産展のオーナーが来られ色々お話しを聞かせていただきました。
 それによるとこの道の駅もマナーの悪い人が居て、一時車中泊を禁止していたらしく、ようやくとなりの敷地を駐車場に借り上げ「歓迎」のスタイルに変わったそうです。
 北海道で見かけるキャンピングカーはまるでフェア会場のように多種多様ですが、各地で敬遠される事にならないように気をつけたいものです。
 オーナーのお許しをいただいて玄関に最も近いスペースをお借りしました。そしてここでしか食べられない高価なブドウ海老のお刺身や、羅臼ならではの食材で豪華なディナーとなりました。当地名物・・トド、ヒグマ、エゾシカの料理は今回はちょっと遠慮させていただきました。

北海道立北方四島交流センター「2007.7.14 09:20」
 昭和20年8月15日に太平洋戦争が終わりました。紛れもなく戦争が終結した8月15日以後、ソ連が侵攻しこれら島々を不法占拠したのが北方領土問題の始まりです。
 日本人の悲願とも言える返還のシンボルの北海道立北方四島交流センターに立ち寄りました。
 羅臼の町から目前に迫る国後島の余りの近さに驚く観光客の意識とは違う、この島々に戸籍を持ち、今なお帰島を願う同胞になすすべもない現状にいらだちさえ覚えます。
 このセンターはビザ無し交流という民間レベルの行き来を通して日本とロシアの意識の共有化を進めているようですが、資金だけは外務省が負担していながら政治力、外交力を著しく衰退させた戦後の政治にこれまた嫌悪感を抱きます。
若者に事実を教え、正しい外交の基礎を語りつぐ必要性を訴えたいものです。

根室駅と花咲カニ「2007.7.14 10:10」
 根室駅は、北海道根室市光和町2丁目にある北海道旅客鉄道根室本線の駅で、根室本線の終着駅です。北方四島交流センターをあとにして駅に向かいました。
 お昼に駅弁でも・・と考えたのですが、思っていたような大きな駅舎ではなくローカル線の有人駅のような感じです。
 売店の女性から親切に周辺のガイドをしてもらい、駅前でこの地方でしかとれない花咲カニを買いお昼にいただきました。

 花咲カニは、北海道の東部にだけ生息する珍しい蟹で、現在は根室でしか水揚げされることのない貴重品です!どちらかというとエビに似た風味で濃厚な味わいです。殻からも蟹の出汁がとれ季節の野菜をいれた味噌仕立ての「鉄砲汁」は絶品です。
 しかし、年々漁獲量が減って益々高価になっていくようです。ただ食べるのはちょっと力が必要です。入れ歯の方には危険な食べ物です。

北方館・望郷の家四島の架け橋「2007.7.14 12:30
 納沙布岬から少しばかり戻ると北方領土関係の古地図や写真などの資料が展示されている北方館・望郷の家があります。
 展望室には双眼鏡が据えられ、歯舞群島や国後島を見ることができます。
 北方館は、北方領土返還要求運動の発祥の地で目の前に広がる日本固有の領土である北方の島々を望みながら、北方領土問題の根源を知り返還運動への参加を促し国民世論の高揚を図り一日も早い北方領土の返還実現をめざすためのものです。
 一方望郷の家は第二次世界大戦後、北方領土の島々を追われた元島民の心のよりどころとして開設されたもので戦前の島民の生活関連資料や島々における街並みや住居表示を折り込んだ地図などが展示されています。
 北方領土の四島を4つのブロックに表現してできた大きなアーチ四島の架け橋の下には、一日も絶えることなく「祈りの火」が燃えています。この地に立つ意味を考えた時間でもありました。


霧と小雨の摩周湖「2007.7.14 16:30」
 霧の摩周湖は北海道川上郡弟子屈町にある湖で日本でもっとも透明度の高い湖のひとつです。注ぎ込む川も流れ出る川もないのに水位はいつも変わらない不思議な湖は、その名のとおり夏は特に霧のかかる日が多く、その姿をなかなか見ることができません。
 この日は正にその通り、霧とは言えない小雨交じりの強風と道路を塞ぐような、視界数メートルのドライブ環境は劣悪でした。
 摩周湖の姿を見ることができないだけでなく何が何だかわからないくらいでした。
 こんな日は売店だけが盛況で、小雨を避け土産物屋に人が集まり笑いが止まらないのはここだけでしょう。夏の摩周湖が姿を見せないのは売店の策略かと思うくらいです。
 不純物をほとんど含まない聖なる水が作り出す独特の深い青は「摩周ブルー」を見ることが出来ず悔しい思いで下界に下りることにしました。

阿寒国際ツルセンター・道の駅阿寒丹頂の里「2007.7.14 18:00〜」
 
道の駅阿寒丹頂の里は、マリモ国道と呼ばれる国道240号に面し阿寒国立公園の入口にある道の駅です。
 同じ敷地内と言っても良いくらいのすぐそばに丹頂観察ができる「釧路市阿寒国際ツルセンター」や、テニス、キャンプ場、パークゴルフ場、サイクルパーク、保養センターなどのスポーツ施設が揃っている「あかんランド丹頂の里」があり1年を通じてたくさんの観光客が訪れている名所です。
 環境抜群の広大な道の駅はこの旅を大きくサポートしてくれました。
阿寒丹頂の里のホームページから鶴のお話しをご紹介します。
 昭和25年1月、吹雪の朝。上阿寒地区在住(故)山崎定次郎氏が、自分の畑で一羽の大きな白い鳥がトウモロコシのニオのところに寄ってきてエサをさがしているのを見つけました。あまりに綺麗な鳥に、しばらく呆然と見とれていたといいます。そう、それこそがタンチョウだったのです。
当時、食料不足で自分達ですら食料に困っている中、定次郎氏は自分達の主食でもあるトウモロコシを畑一面にまきました。タンチョウはとても警戒心の強い鳥であるため、なかなか近づこうとはしませんでしたが、毎朝同じ時間にトウモロコシをまき続け給餌に成功したのです。今では二代目 山崎定作氏が北海道から給餌人として委託を受け、給餌活動を行っています。【出典:阿寒国際ツルセンター「GRUS」から】

釧路市湿原展望台「2007.7.15 06:50」
 釧路湿原については読みかじり程度の知識では解説できるものではありません。とにかく行ってみたいと願っていました。
 釧路市湿原展望台は、湿原に群生する「ヤチボウズ」をモチーフとした古風な西欧の城を思わせる建物で、昭和59年1月にオープンし、平成19年4月にリニューアルされ、四季の湿原やライブ映像を見ることが出来ます。
 
 さっそく湿原展望台を周回する遊歩道を歩きました。周囲2.5kmを回る遊歩道は7ヶ所の広場とサテライト展望台からなっており、温根内ビジターセンターと北斗遺跡へ通じています。
 駐車場に戻って驚いたのですが、隣に同じ59のナンバープレートの車がありました。
 かなり空いていた駐車場にもかかわらず私の隣にわざわざ置いたと言うことは意識的な駐車だと思いましたが、オーナーにはお会いできませんでした。




北斗遺跡「2007.7.15 07:15」
 北斗遺跡は、釧路湿原展望台手前に標識が出ていたので帰りに立ち寄りました。
 旧石器時代から縄文・続縄文時代を経て擦文時代に至る重複遺跡で、東西2.5km・南北0.5kmの釧路湿原を望む台地上に範囲に縄文・続縄文時代の浅い円形・楕円形竪穴102軒、擦文時代の四角形竪穴232軒がくぼんだ状態で残され、そのうち6棟が復元されています。
 展示館から木道700mを歩くと住居跡にたどり着きますが、歩いてみて結構遠いのに驚きました。

忠類ナウマン象記念館「2007.7.15 15:40」
 忠類ナウマン象記念館は国道236号沿いにある道の駅・忠類に隣接しています。忠類村と呼ばれたこの地は、2006年(平
成18年)2月6日中川郡幕別町と合併しました。
 記念館は、1969年(昭和44年)7月に偶然発見されたナウマン象の軌跡とその雄姿を末永く後世に伝えるため、太古のロマンを秘め1988年(昭和63年)8月にオープンしました。
 この建物は、上から見るとナウマン象の姿を想像したデザインになっており、中央の丸いドームの部分が胴体、四隅の展示室などが足、正面入口が頭部、玉石を埋め込んだ外壁は象の肌、「時の道」と呼ぶ長い歩道は鼻と牙を表現しています。
 道の駅・忠類や、アルカリ性単純泉で肌がツルツルになる源泉100%のナウマン温泉アルコ236そしてナウマン公園など家族でゆったりくつろげる北海道ならではの公園です。
 ここで初めて、我がラ・クーン「還紅」の姉妹車と出あいましたが、朝早い出発でも有りご挨拶無しでおいとましました。関東ナンバーの同士に乾杯!!

幸福駅「2007.7.16 06:50」
 富良野への道中「幸福駅」に立ち寄りました。幸福の地名の由来をフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から見ると・・
 もとはこの一帯はアイヌ語で「サチナイ(乾いた川の意)」と呼ばれていた。1897年(明治30年)、福井県大野から集団移住が行われ、入植者によって幸震(震の字を「ない」にあてたのは地震のことを古語で「ない」といった事による)という字を当てられた。それが後に音読みされて「こうしん」となってしまった(1929年に広尾線が部分開通した際には幸震駅が設けられたが、この駅は後に大正駅と改名されている)。その後幸震には福井からの移住者が多かったことにちなんで、集落名を幸福と改めた。あえてこの名を選んだのは開拓の苦しさと無縁ではないという。なお、近くに位置する中札内村も「サチナイ」から転じた地名である。その後、1956年11月1日、幸福仮乗降場を経て幸福駅が開業した。このころから片面ホーム一面に線路一線の棒線駅で、駅舎と呼ぶには小さな待合室だけの田舎の小駅にすぎなかった。

 その幸福駅に立ち寄りましたが、駅舎は名刺や張り紙だらけでお世辞にも美しいとは感じませんでした。単なる文字の組み合わせで誕生した幸福が、時代が作った名所として脚光をあび、再びみすぼらしい観光地に成り下がったように思えました。
 町では観光の目玉として、幸福駅ハッピーセレモニーとかの結婚式を誘致しているようですが、風化した張り紙の色合いのように朽ち果てていく寂しさを感じるのは私だけではないと思います。
 「愛の国から幸福へ」のキャッチフレーズや「あなたもステキな笑顔を大切な人に見せるために2人で幸福駅を訪れてみませんか?・・の誘い通り訪ねた地ですが、素敵な笑顔は浮かびませんでした。

幾寅峠ハチ公之碑「2007.7.16 09:30」
 富良野への道中こんな石碑に出会いました・・このように刻まれています。
「迷える忠犬の碑」
この坂道を下れば心あたたかい人里あり、遠く望むれば北国の雄大な原始の姿蘇る
雪深き昭和50年1月18日、一頭の迷えるうす茶色の北海道犬ここ幾寅峠に歿す
麓の里にひとときのねぐらも 一片の糧も求めんとせず通い来る人々の愛と恵みに支えられ一年有余年に亘り 何故か道行く車を見つめつつ只ひたすらに恩のある主人のみ慕いて迎え来る日をここに待つ
主よ何処に 悲哀なるその姿 死せる今狗 脳裏離れず *の絆 永遠に断ち難し この忠犬の在りし日を偲び世の心ある人々の志を得てここに碑を建立す
映像が浮かぶような碑文にもっと詳しく知りたいと思いました。

北海道のへそ「2007.7.16 10:30」
 北海道の「へそ」を表象する「北海道中央緯度観測標」を保存、保護普及するために富良野小学校校庭の一角に整備され作られたのが中心標公園です。
 歴史的には、富良野に開拓の鍬が下ろされて数年後の大正3年、
当時の京都帝国大学理学部教授新城蔵博士ら一行が地球重力の測定・天文観測・経緯度測定のため機械を据え付けた地がここで、この観測標は「北海道のへそ」として全国に知られる ようになりました。
 ガソリンスタンドで中心標の位置を聞いたところ富良野小学校の校庭です・・・・じゃあ入れないね?と聞くと「いや入れますよ!!」であつかましく敷地に入らせていただきました。北海道のおおらかさでしょうか・・・!!

深山峠「2007.7.16 12:00」
 上富良野町深山峠展望台は、旭川方面から国道273号線を経
由して美瑛町を過ぎた所にある観光ポイントです。展望台からは十勝岳連峰を一望できラベンダー畑が広がります。
 旭川市と富良野市とを結ぶ国道237号線上の峠は観光地化され、トリックアートの不思議な世界を楽しむトリックアート美術館 もあります。
ここでは、十勝岳の伏流水を使用し、ハンガリーの原材料と製法で仕込む地ビールがありさっそく買い込み夕食のお供にしました。

美瑛・新栄の丘「2007.7.16 13:15」
 富良野への途中、国道273号線を外れてこの場所にたどりつきました。ここは、美瑛新栄の丘でパノラマエリアの展望施設から、十勝岳連峰・旭岳・夕張岳・芦別岳など周囲360度「大パノラマ」が味わえます。
 お天気が良かったのが幸いし、美しい畑のラインと意図的に色づけされたように、花とトウモロコシの緑、牧草の色合いが実に上手くミックスされた景色は今でも脳裏に焼き付いています。



あさひやま動物園「2007.7.16 14:30」
 旭山動物園は、旭川市に昭和42年7月に開園した動物園です。「みなさんの動物園ができました、開園式を行います、たくさんの動物たちがお待ちしてます、きっと晴れます、雨なら緑が輝きます」という優しく温かな文章は、当時の旭川市民に宛てられた開園式の案内文でした。
 長年に渡る職員の努力と情熱、そして市民の動物園への愛情が実を結び2006年度の入園者数が300万人を突破、東京都恩賜上野動物園に次ぐ二番目となりました。【
旭川市旭山動物園資料から】
 旭川市に着いたのは16日午後2時、一番日差しの強い時間でした。連休最後の日で北海道の観光地で初めて人を沢山みた場所です。
 園内を巡りながら廃園寸前の動物園がどうして蘇ったのかを考えました。私の地元神戸にも王子動物園があります。どこが違うのかを再び考えたとき冒頭の案内文を思い出しました。動物園を格式のある動く図鑑に仕上げたのではなく職員の手によって見学者の目線を大切にした手書きの説明文など、決して美しくはないけれど絶対的な優しさを感じます。

大雪山系・旭岳「2007.7.17 06:20」
 大雪山は、北海道中央部にそびえる火山群の名称で、一つの山ではないことを明確にするため「大雪山系」と呼ばれています。計画通りこの大雪山系旭岳に行くことにしました。前日買い物をした店の方から仕入れた情報に寄れば、前日の休日はロープウェイに長蛇の列ができたとのことで始発をめざして車を進めました。
 山麓の無料駐車場は空いており101人乗りのゴンドラは早朝と言うこともあってがら空きでした。わずか5人乗車だけのゆったりとした車内は拍子抜けでしたが、雄大な大雪山系を独り
占めしたようなパノラマの世界が広がっていました。
 
 噴煙を上げる山、残雪、湖どれをとっても見事に調和して自然は偉大な芸術家と言うことを再認識しました。
 大雪山系は大雪山国立公園の南北63km、東西59kmと広大な広さとなり、その面積は神奈川県とほぼ同じだそうでうが、高山植物の宝庫でもあるこの自然には圧倒されます。

大雪山系・層雲峡黒岳「2007.7.17 12:00」
 
北海道の屋根と言われる大雪山は2000m級の峰々が連なる山岳群を総称した呼び名だと言うのを改めて意識したのが今回の旅です。
 旭岳を下り大雪山層雲峡温泉を目指しました。麓には大雪山層雲峡・黒岳ロープウェイがあり層雲峡温泉と黒岳の七合目を結ぶロープウェイがあります。
 四季を通じて大雪山の大自然が手軽に満喫でき、ロープウェイは片道7分、リフトに乗り継いで片道15分で大自然に触れることが出来ます。
 私自身この層雲峡には思い出があります。30数年前大学時代の友人がこの山で亡くなりました。就職も決まり夏の北海道旅行の事故ですが山頂まであとわずかのところで雷雨にであい衰弱死したものです。
 ハイヒールでも登れるのに・・そんな陰口の中、友人を送ったことは寂しい思い出です。あれからずいぶん時間が経ちもう私も還暦です・・・。黙祷の時間でもありました。

銀河の滝と流星の滝「2007.7.17 13:40」
 流星の滝・銀河の滝は、層雲峡を流れる石狩川の支流の沢に流れ込みます。左右の滝は左が銀河の滝で104mの断崖絶壁を一気に落ち、別名雌滝とも呼ばれています。白い糸をひくように流れる姿は美しく、右に流星の滝を見ることが出来ます。赤岳沢から90mの断崖絶壁を轟音を鳴り響かせ一気に落ち、雄滝とも呼ばれています。
 ただ駐車場からは樹木が邪魔になって見難いのですが双瀑台の入口から展望台に登ればわずか10分ほどで、2つの滝を同時に眺めることができます。

道の駅北竜とひまわり畑「2007.7.18 07:20」
 早朝、鐘のなる町秩父別を出て次の行程に出発しました。いよいよこの旅も終わりに近づきました。国道275号線沿いにあるヒ
マワリの町・北竜町の道の駅に立ちよりました。
 このド派手な双流の門に道の駅らしからぬ雰囲気を感じました。そのすぐ裏手にはヒマワリ畑が広がり、駅と散策路でつながっています。
 この駅は、温泉保養センターと物産販売、宿泊研修施設を兼ねており、露天風呂もあって人々の旅の疲れを癒すのに最適な場所です2頭の龍が守る門の中はオランダ風の建物というもので今回アルバムを整理していても完全にメモリーできたシーンのひとつでした。

余市宇宙記念館「2007.7.18 10:30」
 道の駅「スペースアップルよいち」は、宇宙記念館の付属施設のような感じです。
 宇宙記念館は、余市出身の宇宙飛行士・毛利衛氏を記念し、宇宙をテーマにした体験型施設で、宇宙旅泳やシャトルの操縦などの体験型アトラクションが人気です。
 夏休み前かも知れませんがあまり入場者が多くないような感じを受けました。前を自転車で通る中学生も多いのですが、もうとっくに見学したのでしょうか・・
 道の駅を訪れる人たちも奥でつながっている施設ですが、あまり関心をもっていないようです。私の場合、朝と夕方も邪魔したのですが何度のぞき込んでも活気が無く入館しませんでした。入館料が高いという印象もありました・・・。

ニッカウイスキー北海道工場「2007.7.18 13:00」
 ニッカウヰスキーの思い出は大学生時代飲めないくせに友人の下宿先で酒盛りをしていたときの銘柄だったことです。サントリーレッドの翌日の悲惨さより、スーパーニッカの方が頭痛が少なかったような記憶があり、それ以来ニッカ愛好家であったようです。しかし時代は変わり関西であること、友人がサントリーに就職したこと等々・・必然的にニッカとのご縁が薄くなってしいました。甲子園球場の前で巨人の旗を振っては商売にならないのと似ていたのかも知れません・・
 北海道は3回目になります。随分前になりますが家内はこの余市工場に来たようですが私にとって初めてで新鮮でした。
 開放された見学コースは、工場内を自由に歩かせるスタイルで意外な感じでした。日本酒の製造行程ではそうはいかないだろうと感心しながら工場内をゆっくり歩かせていただきました。

国道5号線さくらんぼ街道「2007.7.18 11:20」
 北海道の旅を続けながら車中で味わったのがさくらんぼです。暑い季節でもあり新鮮なまま持ち帰るのは困難であろうと、すべて胃袋に納める魂胆です。
 旅の最終日余市町を出発し国道5号線を走ると果物の直売所が多くありました。
 どうせ持ち帰りなどできないからと通り過ぎていたのですが、その内の一軒に立ち寄りました。山形を旅したとき味わったさくらんぼはその後、我が家の愛用となりましたが北海道のさくらんぼは、あまり意識したことがありませんでした。
 余市町は、明治2年に開基し日本で初めてリンゴを結実させたいわば北海道リンゴの発祥地だそうです。数本のリンゴからスタートした果樹栽培がイチゴ・サクランボそして秋のブドウ・リンゴなどの産地になるにはどれだけの苦労を重ねてきたのか・・・さくらんぼの甘みは大地と人の汗が作り上げた傑作ではないかと感じました。
 思い切って家まで持ち帰ることにしました。一番喜ばれたお土産になったのは言うまでもありません。

札幌「2007.7.19 11:00」
 札幌は2回目です。前回はいつかというと20年を越えた昔のことになります。その時は旅を終える前日、ただ泊まるために来た街でしたから余計に何も分からなかった街です。
 今回2週間足らず家を空けると、どうしてもその間に処理しなければならないことが多くあります。そのうちのひとつがロータリークラブの例会に出席することでした。
 その合間を利用してテレビ塔におのぼりさんをして、定番の時計台を探し当て、札幌農学校の歴史を改めて学習しながら大都市札幌をこの肌で感じました。
 それまでに体験した、北海道の観光地は人が少なく、駅に行っても乗客さえ見かけない光景に随分出くわしました。それがまた新鮮であり、逆に新たな疑問を生むという繰り返しが北海道の日常のようです。常日頃見ている私の波長と幾分異なっていることを教えてくれました。
 私自身、昨日までのTシャツにラフなズボンからスーツとまで行かないもののネクタイスタイルに変身し、ビジネスの町札幌を歩いていることに、きりっと引き締まった気持ちを抱いたのは事実です。たった2週間足らずの北海道から学んだことは大きな収穫でした。

最初で最後の町小樽「2007.7.19 午後から深夜」
 真っ暗の中、新日本海フェリーが小樽港に着いたのが旅の始まり7月9日の夜でした。逃げるように次の町稚内をめざしたので町の様子など記憶にありませんでした。この日、深夜便で帰ることもあり再び小樽に戻ってきました。
 
 札幌は北海道の首都として存在感のある町でしたが、小樽を歩くと観光だけが町を支えているような印象がありました。我が家の子ども達が小さい頃、毎年でかけたのが信州です。信濃の大自然の中にある小さな町が、ガイドブックの力によっていつの間にか原宿のコピーのような観光地にかわり、自然に遠ざかったことがあります。
 今回も短い時間ながら小樽らしさを探しましたが、そう多く発見することが出来ませんでした。
 外国の多くはその町に降り立つと隣町とは全く違った顔を持っています。日本ではどこの駅で下りてもその町を一瞬につかむことや隣の都市との違いなどを感じません。
 私にとって今回の北海道旅行が面白かったのは、開拓の時代からその町を作り上げた人々の営みがきちんと今につながっていると感じる場面に多く出くわしたことです。
 観光客を迎える小さな町が工夫をこらしていることがひしひしと伝わってくることも多くありました。いい時間を過ごさせていただきました。
 かなり前からになりますが、30回以上行った外国が中国です。凄まじい田舎を旅して帰国する時は、必ず北京とか上海の大都市から戻ることになります。その当事はどういうわけか体調を日本に慣らしたいとわざわざ香港に立ち寄って汗とニオイを流し、日本標準にしたいという時代がありました。別に自慢できる話ではあり
ませんが、小樽という町はそういう意味ではそれに似た感じです。
 ただ私にとっての小樽は、今回北海道で抱いた感動と時間にはほど遠いもので、異質の北海道を観た印象があります。これはあくまで、60を迎えた私の思い込みと、真の小樽を歩かなかったせいかもしれません。
 小樽は日本の標準的な観光地を北海道に移植した特区と思えばそれもありだろうと思います。
 来年も北海道への旅が続くと思います。北海道の大地とお会いした方々に感謝の意を込めて・・・!!


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