団塊の世代と団欒

 団塊の世代


 団塊の世代という言葉は、堺屋太一さんの著書で紹介されすっかり定着した感があります。日本語の語感としてあまり美しく感じないので好きにはなれなかったのですが、多岐にわたるすべての背景をうまく説明できる見事な言葉だと感心しています。
 
 団塊の世代とは昭和22年から24年生まれの3年間を指し、その前の昭和18年から21年生まれをプレ団塊そして昭和25年から28年生まれをポスト団塊と呼んでいます。
ただプレとかポストという呼び方は団塊の世代が話題になってからあとに、無理やり付けられた名称のようです。
 正に団塊の世代の私自身を振り返ってみると、小学校は二部学級という苦肉の策の時代に入学式を迎え、子ども心になぜ友達が帰る時間に自分は学校に行くのだろうと考えていたことを思いだします。
 
 大人になって知ったことは、まだ戦後復興の道程のなかでベビーブーム世代の我々を収容する校舎もなく、当然教室も不足し、やむなく午前と午後に授業を分けて教室を使うことになった事実です。
 中学校の下品な教師から「おまえらは死んでも墓場もないぞ・・」と・・人数が多いことを揶揄されながら、励まされたのか馬鹿にされたのか未だに理解できない言葉が耳に残っています。現実に公立高校でも60人も教室に詰め込まれ、後ろに立つスペースもない状態でした。
 
 小学校を卒業すればその後に新しい校舎の建築が始まり、中学をでたらまた同じように施設が充実する現実を観て、いつも私の世代が実験台となって社会が新しくなるような印象でした。
 昭和22年生まれが団塊の世代と定義されるなど考えもしませんでしたが、振り返って観ると苦しい思い出などはさほどなく、それなりに面白く楽しい時間を過ごさせてもらったと思っています。
 
 時代にはそれぞれ節目があり何かが大きく変わる年があるものです。 昭和という時代の高度成長の中を歩きながら思春期の感性のなか、安保騒動や大学紛争を目にし実際に紛争の現場に身を置いたことも度々あります。
 ベトナム戦争の終結や共産主義国家の崩壊も目の当たりにしました。ある意味特殊ながら面白い経験をした世代かも知れません。

 この世代がスクロールされ社会からリタイアしましたが、団塊の世代はどっこい・・そんなシナリオ通りに進まないしぶとさがあります。死んでも墓場もないぞ・・と言う言葉を励みにしたのか、この人数の多さと多様な人材がこれから作る時代と時間はまだまだ素晴らしいものではないかと確信します。
 そこから生まれるすべてのものは遊び心を含め、同世代の共感を招き次の世代へ橋渡しできるヒントが生まれるのではないかと思います。この思いはまだまだ進行形で衰えていないはずです。

 子どもの頃は貧しさが国民的標準だった時代でしたが、どうしてあんなに楽しい時間だったのでしょうか。振り返ってみるとこの思いは単にモノの豊かさではなかったことに気がつきます。単なる懐かしさだけでもない大事なものがきっとあったのだと思います。

 今回年金で暮らす家を思い立ったとき、ふとこのようなことを考えていました。あの頃が今とどう違うのかを含めてあれこれ思いをめぐらせましたが、今との違いはその頃の日本にあった家庭と家の在り方だったのではないかと思います。
 そんな状況を言い当てているのが「団欒」という言葉ではないかと感じます。この言葉が死後のように語られなくなった今、すこしばかり疲弊した心と社会が思い浮びます。

 「団欒」とはお月様が丸いことを意味しているようですが、一家団欒は家族が集まり丸く輪のようになって座りむつまじく暮らせる状況です。
 これが今の社会に欠落していることを思うと、家つくりの核はきっと団欒という概念を中心に考えることが大事ではないかと遅まきながら気づいたのです。
 ある時期テレビが家族を結びつけ、ある時代はテレビが家族を疎んじたような気もしますが、忘れかけている記憶の中であの時代の家族の団欒のひと時を今再現できれば楽しいのではないかと思い直しています。
 
 この歳になって小さな家つくりを通してまだまだ学ばせてもらう機会があることを正直喜んでいます。

 自分について

 私は神戸生まれです。転勤族の父とともに各地を転々としましたが現在はふるさと神戸に住んでいます。
 生まれた町から一歩も出ずそのまま暮らしている人がどのくらいの割合なのか興味がありますが、東京に居ると生まれた町を離れ生活している人がかなり多いと気づきます。
 「ふるさと」には両親は既になく、親戚だけが残っているという友人も多くいます。
 
 2005年秋から、ご縁があり水戸にある茨城放送で足掛け7年ラジオのパーソナリティをつとめました。それまでも東京へは月に一度程度行く機会があり、さほど遠方という印象はありませんでした。
 水戸通いが始まり月の内10日ほど家を空けるようになると移動費や宿泊費は相当額になります。そんなおりみかねた税理士が水戸に家を借りた方がずっと割安だ!と言い出し素直にアドバイスに従いました。早速水戸駅に近いワンルームを荷物置き場兼として借り受けました。
 その時このあたりの不動産価格の安さに驚きながら、都市部で暮らすことと地方で暮らす場合の大きな差を身をもって経験しました。当たり前すぎる話ですが、意識をしなければさほど気にとめなかったことかもしれません。
 
 東京から水戸へ行くには常磐線、上野駅を利用します。今の上野駅はほとんど高架ですが地上にあるのが東北に直結していたホームで、なぜか郷愁を覚えます。
 私は東北出身でもなく、なぜそんな思いになるのか判りませんが、東京に多くの人が出てきた時代の証人が一度は足を踏み入れた場所であるという事実に敬虔な思が過ぎります。
 
 猛暑の夏、茨城の地を離れる決意をしたとき、神戸、東京、水戸の住まいを比較しながらもう一度自分の住処を考えなおしてみたいとふと思ったのがこの「年金で暮らす家」の扉を開くきっかけだったのです。