きっときっとスリランカ

「四度目の正直、本当のスリランカを見つけた!」

スリランカ最南端に立つ!
スリランカのクルマ
夕日を見ながら・・ふと!
9月19日 9月19日 日本まで眠らずに・・
お別れ会をコロンボで!
短かかった旅が終わる・・

スリランカ最南端に立つ!

昼食を終えてスリランカの最南端、デウンダラ岬に向かう。ガイドブックの案内通りバスが入れない岬だ。ガイドのARIさんは歩いていかないと行けないという。私はかまわないがシーギリアのことを思い出す。どうしても全員で行きたい、年長者もいるし車椅子もいる!

そこでスリランカ名物3輪タクシー、バジャージを集めることにした。バスのそばには3台程度客待ちをしていたが、はたしてガイドを入れて33人分10数台が一度に集まるのか。
まず一人のドライバーと交渉をする。料金と仲間を呼べるかの質問から始まり一台あたり100ルピーで話がまとまる。
詰め込めば三人は乗れる。わずか150
cc足らずのエンジンに運転手をいれて四人が乗ることを想像すれば恐ろしく効率がよいが車の疲労度は相当だろう。
バジャージは2サイクルの公害エンジンである。東南アジアではすでに問題となってやがてこの乗り物はスリランカから姿を消すだろうが次の庶民の足はどう変わるのだろう。

とにかくメンバーを次々とバジャージに乗せてARIさんと最後尾につく。10数台のバジャージが狭い町の中を通るのは壮観だ。
近所の子ども達も飛び出して我々をながめている。急ぐわけではないがサービス精神旺盛な運転手は追い越しをかけて客を喜ばしている。このドライバー達は動けば動くほど収入が良いのでスリランカの中で一番のサービス業であるようだ。
公務員も見習えばよい。バジャージでのドライブはメンバー全員に強烈な楽しい思い出を与えたと思う。

やがて目的地に着いて驚いた。何もない岩だらけの岬と聞いてきたがフェンスに囲まれた施設内に白い巨大な灯台そびえている。手入れのいきとどいた芝生と椰子の木々、そしてその合間に広がる雄大なインド洋・・わあ、すごいと歓声が聞こえる。

恐らく我々くらいしかこんなところに足を運ばないだろう。その根拠はもし観光客が来るなら3つ千円の物売りが必ずいるはずだ。おそらくここは今後スリランカの観光名所になるに違いない。
インド洋を越える船舶にとってはかけがいのない灯台であり海の守り神であるこの地は強烈な印象を与えた。


ここに入るには狭いフェンスを越えなくてはならないので、柵を越えることに躊躇していた池田さんをこの雄大な場所に来てもらうことにした。バジャージの運転手さんが協力して担いで通してくれた。なんだやっぱり彼らの方が格段サービス業を意識している。
うん・・スリランカは素晴らしいぞ!スリランカはこのままでいいぞ!


スリランカの観光案内に必ずでているのが一本の棒に座って釣りをする光景である。岬を目指してバスが走っていたとき突然バスが止まった。あれを見て!あの釣り風景・・。念願の光景が遠くに見える。全員がバスを降りてその砂浜に急いだ。
へえーやっぱりこんな釣りを今でもしているんだ・・本当なんだと感心していると砂浜付近にカラフルな服装の人たちが居た。私にとっては見慣れた光景であり一目でどこかのテレビクルーであることが分かる。みんなが近づいたら(私は習慣として近づかないが・・)東京のF局の若者を対象にした海外取材番組の収録だとのことだった。
私がもしこのディレクターであればすぐに立ち退いてもらいたいと思う。日本人はテレビ好きだがまさかこんな場所にブラウン管でお馴染みの車が居るなど考えていなかっただろうがもっと迷惑だったのがテレビ側だろう。


我がメンバーのなかには声の大きい人もいる。もしバックに日本語の歓声など入れば番組は台無しだ。テレビスタッフもこちらに来るな!声をだすな!と相当気を遣っている。

テレビで見慣れたワンボックスカーを見つけると早速近寄って写真を撮り始めたが、中をみるな!写真を撮るな!と大騒ぎのひとときになった。
テレビ側の願いも虚しく証拠写真が多くできてしまったがここでは紹介出来ない。テレビとはすごいものでひょっとしたらスリランカではあの悠長な釣りで漁師がいまだに生計を立てていると思わせるだろう。
しかし今はすっかり観光化したこの光景の素晴らしいショットが撮れたのは日本のテレビが仕掛けをしたおかげでもある。気に入らないのはこの場所が観光化して、テレビスタッフから法外な撮影料を取りながら我々からもビデオ撮影料を集金にくることだ。ここは相当毒された観光地である。

アジアでこの悪い癖をつけたのは取材という名目で法外な金をばらまいて撮影権を確保していった日本のテレビ屋さんに大きな責任がある。どことは言えないが有名なある海外紹介番組では大金をばらまいて軍隊まで動員したことは有名な話だ。こんなことを言うとテレビファンの夢を壊すだろうか。

ホテルに戻って自由時間になった。私は町に出ようと考えていたがこっそり行くのは気がひける。希望者を募ったら結構居る。バジャージで行こうかとも思ったが、頼んで町の近くまでバスを出してもらうことにした。その約束時間になりみんなが集まっているのに今度はバスの運転手がこない。

スリランカのクルマ

スリランカの車の9割は日本製だ。特に乗用車は時折ドイツ製のメルセデスやワーゲンを見かけるがこれらは例外である。
自動車の輸入に関しては細かい決まりがある。その中でバスに目を向けると乗り合いバスはインド製のTATAが圧倒的に多い。この会社は以前メルセデスと合弁してできた会社だが今は独自の道を歩んでいる。

その中で旅行社が所有するバスは日本製が多くアンドリュース旅行社の大型バスも日産ディーゼルだ。
ボディは西武系のお馴染みのストライプが描かれた明らかにそれと分かるバスだ。今回ゴールのレストランの2階から駐車中のバスの屋根を見たらSEIBU1852と書かれた文字を見つけた。ボディの社名は消したが屋根全部を塗り直すとなると経費も相当だったのだろう。


この夏に我々に同行してくれたドライバーはTATAの運転手を24年間勤め観光バスにスカウトされたそうだ。エアコンもなく加速もしないインド製のバスを自由に操ることができる技術ならパワフルな日本製のバスの運転は真の実力を発揮できるらしい。当然この車のドライバーになるのが彼らの念願でもあるらしい。

このところ日本のバスはハイデッカー車や装備にしのぎをけずっている。その背景に新型車両でないと満足しない客が多いことがある。そのお陰でまだまだ走れるバスがスリランカに渡り間接的に我々が恩恵を受けている。
そもそも右ハンドルの車は世界の非常識である。日本の車はすべて最初からどちらにハンドルをつけて走れるよう設計しているが、一度作った車のハンドルは容易に変更できない。だから日本の中古バスの輸出先は限られてくる。特にバスの扉を右から左には改造できない。いかに日本の中古バスが優秀といえどもイギリスが買うわけがない。右ハンドルがそのまま使えるスリランカは正に最適の輸出国なのである。


私はドイツ車を四台乗り継いだが右ハンドルの車は選ばなかった。ドイツ人の考え方は右ハンドル車など邪道で嫌なら乗らなければいいと思っていたと思う。
右ハンドルを選ぶと必然的にエンジン内部のパーツに制限を受けることが多かった。ワイパーなどハンドルを左右に入れ替えてもそのままだから雨の日に死角が多くなる。安全性にも問題があるしウインカーもハンドルが右になってもそのままで方向指示器をだしたつもりでもワイパーが動くわけだ。

日本車が優秀なのは技術だけではなく最初からどこでも売れるよう作られている。東京ハイパワーのリニアと同じ言うとちょっとレベルが合わない話かも知れないが、このサービス精神が世界の常識と信じるのは性急かもしれない。

初めてスリランカに来て旅行者が驚くのは戦闘機のような走り方をする車だ。観光客のみんなが旅行傷害保険を思い浮かべるほど恐怖感を感じるそうだ。これは中国でも全く同じであったが、旅人も日ごとに順応して、カーチェイスを楽しむように苦情を言わなくなる。
あれで事故を起こさないのが不思議と言うが実際事故は多いのだ。損害保険屋さんの業界が結構成長しているのをみても判るが要するに徐々にスリランカ人の命の値段が上昇していることになる。

スリランカの交通事情は独特のものがあるが世界中のすべては命の値段に比例して文化が進む傾向がある。あの恐ろしい運転で事故が少ないと言うのはドライバーのレベルが同じなのと車のパワーとスピードがほぼ揃っているからである。

日本でもバイクに乗れるドライバーと乗ったことがないドライバーとは歴然とした違いがある。バイクと事故を起こしたドライバーが必ず言うことはバイクがあんなに速く来るとは思わなかったである。4輪車しかしか乗らない人の言い分である。
もしスリランカでドライバーの腕を信用して最新式のハイパワーのバスをあてがえば安全かといえばそうではない。間違いなく大きな事故につながるだろう。その時相手側の車はバスがあんなに速いと思わなかったとなり、巻き添え食う車が出ることになる。
だからとは言わないがスリランカの車の輸入は結果的に粒揃いの中古車の選りすぐりで安全が保たれている交通社会のようだ。

なじみになった旅行社の運転手が言ったことは、TATAにも乗ったメルセデスも乗ったボルボにも乗った、だけど日産ディーゼルがbPだとの言葉が印象に残る。
日本で必ずしも人気が高いはずのない日産ディーゼルがスリランカで人気なのはディーラーのサービスが一番だからと聞いた。三菱も日野も人気が無くスリランカではバスは日産が世界一なのである。

眠い目をしながら運転手がバスに戻ってきた。折角の休息時間なのに申し訳ない、やっぱりバジャージにしたらよかったと内心思った。
ゴールの町まで数分。ゴール銀座がどこかは知らないがバスを停めるスペースがない。終戦後の闇市(写真でしかしらないが・・)から徐々に発展した昭和20年代の後半位の感じだろうか町には活気がある。
買い物より物珍しさが先にあるようだが人気だったのはミネラル豊富なインド洋の塩だ。塩の味など使って分かるものではない。やはり直接口に放りこんで確かめるしかない。これで美味ければ良い塩なのである。1sわずか50ルピーの塩だが土産に持って帰るとなると相当苦労しなければならない。
郵便局が怠けて宅配を進化させた功績と同じで、専売公社がいつの間にか電気分解で塩化ナトリュームを合成した塩を流通させたおかげでインド洋まで出向いて塩を求めるようになった。日本に美味しい塩が安く流通しておればこんなことは誰もしないだろう。

最近怪しげな岩塩という外国の塩を腰を抜かすようなべらぼうな金額で売る業者がいるが、水とか塩というものは効能書き次第で人の心理を巧みに操るようだ。

夕日を見ながら・・ふと!

考えてみればきょうがこの旅の最後の夜になるわけだ。図表にすればのこぎり歯のような旅だった気がする。明日は眠らずに空港に行き日本に帰る日だ。
思い起こせば深夜のコロンボ空港に着いて疲労困ぱいのままヒルトンコロンボホテルに、そして世界8不思議のシーギリアビレッジのコテージ、その後の旅先で受けた最大の屈辱トパーズホテルでの経験、そしてがっかりしながらたどり着いたライトハウスホテルのすばらしさ・・上がったり下がったりの旅であったがそれなりの感慨がある。

お気に入りのライトハウスホテルで3人の日本人若者に出会った。女二人男一人であるが旅行者に見えない。聞いてみると海外青年協力隊の隊員で、野球とコンピュータと日本語を指導しているとのことだった。彼らが言うにはこんなすばらしいホテルには絶対泊まれないので時々清水の舞台・・の気持ちで食事にくるとの話であった。
コロンボ在住の野球監督君は美味しい食事をして今夜はゴールの簡易ホテルで泊まると話してくれた。大阪出身の彼とは翌日ムール要塞でばったり再会したが、これからコロンボに帰りますと笑顔で答えてくれた。いつ会えるか分からない日本の若者に頼もしさを感じた。私は旅人としてスリランカに何ができるだろう。

この日のホテルのディナーは我々の最後の夜に合わせたわけではないがコース料理になった。メインの肉か魚か選べる。連日楽しいながらバイキングスタイルの食事に飽いてきた頃でリッチな感じがした。楽しい食事になりそうなので今夜は奮発しようと飲み物会計の宮本さんに残金を聞いてみた。もうありません!とつれない返事がかえってきた。
私のテーブルは8人で酒豪も多い。それなら最後の晩餐に美味しいワインが飲みたくなった。スリランカはワインの産地ではないからすべて輸入品で値段も高い。まあお祝いみたいな夜だからフランスワインでも抜こう。
ワイングラスが届き利き酒をしていたら他のテーブルから異様な視線を感じた。これはいかん各テーブルにワインを差し入れることにした。
ワインリストを見ると値段は極端に違わないが我がテーブルより美味いワインを出すのは失礼でもある。かといってまずいものでもいけない。
見たこともない南アフリカ産の赤ワインを選んだ。結構いける感じだったが我がテーブルのフランスものが美味かったことは言うまでもない。

食事のあとに有志が無線室集まった。ホテルの従業員も興味深げに集まってきた。アマチュア無線って何をするの?どうしてこんなことができるの?宇宙とも交信できるの?・・話題はつきない。
モールスによる電信交信は特に興味深げで、スリランカの軍隊と同じことができるというと納得したようだ。そうか軍と同じか・・その程度の理解であったかも知れないが今後このホテルでアマチュア無線を運用する者にとっては大いに役だつはずである。


このライトハウスホテルは多くのホテルを持つグループ会社だ。ホテルに着いた早々私宛にメッセージが届いていた。明らかに私たちがここに来ていることを知っている人からのメッセージであることは分かるが名前の記憶がない。また連絡すると書かれていたのでそのままになっていたが、この本人がこのホテルの役員でRSSL(スリランカのアマチュア無線連盟)のメンバー4S7RFであることが分かった。
今オーストラリにいるから次回会いたいという内容だった。アマチュア無線はすばらしい趣味で初対面の仲間と国を問わず仲良くなれる。
7月に初めて出会ったにもかかわらず今回再会を喜び合う仲間ができた。中国流に言えばラオポンヨー(老朋友)であり古い友人のように話せるし、つき合える。さあ、あすは深夜のフライトになる。ゆっくりと過ごそう。


9月19日金曜日 日本まで眠らずに・・

出発は昼食を済ませてからにしようと決めた。
5時過ぎに起き出し薄明かりのインド洋をながめながら外を歩いたあと無線室に入った。すでに海老原さんはヘッドホンをつけてがんばっていた。写真を撮って次の部屋に、池田さんはソファにそのままの姿で寝ている。この部屋での無線運用をしていたのは中浴さんだった。
コンデションを聞くと最悪とのことであったが、もし良ければもっとここに居たいと言うだろう。あきらめるタイミングとしてはちょうど良い。私が迷惑な侵入者だったのかみんな起き出してきた。12時までにすべての荷物をださなければならない。


その後お気に入りの海岸を歩くことにした。大串さん中浴さん谷川さんと一緒になる。彼らは前日砂浜にコールサインの標識を作ったとのことで、行ってみるとひと晩でかなり浸食されていたが、インド洋の砂でつかのまのモニュメントを作ったことがわかる。
ホテルの周りをゆっくりと巡り、なごり惜しいライトハウスホテルを満喫したいと言う思いで出発前にプールに行った。
昨日このプールにトドが2匹泳いでいるので思わず目をこらしたら我々の女性メンバーお二人であった。誰かとは決して言えない内緒の話である。

プールは贅沢にも私一人しか居ない。プールはそのまま海につながっている。海辺には警備員がいて海には入るなと注意を呼びかける。もちろん海では泳がなかったが紛れもなくインド洋に足をつけたわけだ。
帰国後長年つきあっている友人達のMLに「インド洋で泳ぎました」と言うタイトルで写真を貼付したら、ウミヘビに噛まれて足を切断した友人の話が書かれていてそんな危険なことはするなと言う忠告のメールがあった。うちの家内など、ねえ泳いでらっしゃいよ!と止めはしないけど持つべきものはやはり友人だろうか・・・。

20数回行った中国のことだが我々が飛ぶ前の飛行機が上海で墜落したことがある。電話も今のように簡単につながらない時代で日本でも相当心配されたようだ。
全員死亡のニュースに日本人の数が我々の人数と異なっていたのでこの飛行機に乗っていないことが分かったようだ。
私など別に日本に連絡しなかったが同行した愛妻家を自認するある雑誌の編集長が心配しないでいいよ!のつもりで東京の自宅に電話をしたらしい。
そのとき奥さんから「あら無事だったのね!パパ飛行機事故は2倍よ!!」と言われたそうで部屋に戻ってきてから東京に帰るのやめようかな・・とぼやいていたことをい出す。

気に入らない奴にあんな奴畳の上で死ねるか、と悪口を言うが最近は畳の上で死なない方がずっと得だからこの言葉も死語になったかも知れない。
事故なら確実に2倍は得する・・こんなことを言いながら愛情を確認する夫婦もあるようだから額面通りには受け取らない方が良い。


私の部屋は特別室でまだ時間があると思っていたら世話焼きのボーイが来て荷物の整理を手伝い始めた。びしょぬれの海パンをつまみ上げてどこにしまうのか?と聞く。
ベッドの周りにある衣類をスーツケースに放り込む。家内が笑いながらこれってサービスなの?と聞くものだから、ライトハウスクラスになるとこれが最高のサービスらしい・・と訳のわからない説明をしたが、実際は3つしかない特別室に次の客がきたから早く出て行けということだった。
12時チェックアウトは困るようだが、そう急に言われてもこちらも困る。これほど整理をしないでスーツケースに荷物を詰め込んだ旅は初めての経験だった。


荷物の準備が遅くなった一つにご婦人方のサリーでの記念撮影がある。サリーに着替えると昨日のプールのトド?も見違えるように美しくなる。
日本人にサリーは意外と似合うことを発見した。スリランカのサリーはコロンボとキャンディとでは明らかに違う。この着付けで身分が分かるそうであるが女性の美への探求心は限りがない。

田中さんのママはサリーを着るためにまたスリランカに行きたいとすっかりサリーファンになった。
そのとき偶然に通りがかった息子田中さんとのツーショットはこの旅行の最高の写真になったことだろう。


お別れ会をコロンボで!

バスはコロンボを目指して爆走する。目的地はゴールフェイスホテルのレストランでRSSL会長顧問、秘書と会うことになっている。顧問格の4S7EAアーネストさんは3年前から我々のなじみだ。
会長の4S7VKビクター
さんは初めての出合いであるが今後の友好関係について協議しなければならない重要な人である。秘書の4S7KEは若いアマチュア無線家で将来のRSSLを背負っていくホープのようだ。


私たちが彼らと懇談を続ける間メンバーは前の公園で思い思いに過ごして貰うことにした。約束は6時半だが、6時に4S7TZトレボアさんが現れた。奥さんとの約束があるので今夜は失礼したいと挨拶にきたものだ。
ジュースは飲んでいるか?と我々が送ったウイスキーについて聞いたところ嬉しそうにイエスの答えが返ってきた。


その後約束の時間に3人が現れた。ビクター会長は温厚な紳士で中学高校の教師だそうだ。その他に世界の放送局のモニターしているのが自慢だ。顧問のアーネストさんはスリランカで最もアクティブなアマチュア無線家であり親日家である。秘書のKEさんは若くて誠実な人柄の好青年だ。
今回スリランカ訪問前のやりとりで実はビクター会長から厳しい親書を受け取った。それには今まで我々がスリランカに来たことをすべて新聞など知っていた。もっと早い機会に友好を重ねる機会をもちたかったが連絡が無く失望していた。これからはもっと親密に良好な関係を築きたい。会えるのを楽しみにしている・・という内容であった。
私はお会いした機会に率直に最初の挨拶が遅れたお詫びと友好の未来のために相互で協力していくことをお願いして堅い約束を交わした。そしてメンバーが待つレストランに向かった。

ゴールフェイスホテルのレストランはシースプレイという名だ。つまりインド洋のしぶきというレストランだが海沿いの席に座ると細かい飛沫で体中が塩辛くなるほどである。
昼間は潮の存在を感じないが夜になってライトアップされると巻きあがる潮がはっきり見える面白いレストランだ。
RSSLのメンバーを迎えるにはいささか粗末な料理で申し訳なかったが、食べ物よりこの時間が持てたことに喜びを感じる大変有意義な時間をともに過ごすことできた。
ただ残念なことはテレコムの幹部との面談の機会をせっかく訪ねてきた客人をホテルがそんな者は居ないと追い返してしまったことだ。これだけは申し訳なく残念な出来事だった。
ホテルのマネージャーも謝りに来たがこれもこちらが説明を求めて初めて言ったことで、スリランカのホテルの対応はここでも例外はなく契約しているのは旅行社で、我々ではないと言う明確な意識で動いていることが良く理解できた。
これがスリランカの実態であり社会主義国の宿命のようだ。
彼らがこれに気づきスリランカのホテルが変わるのはずっと先になるだろうと感じた。

短かかった旅が終わる・・

名残り惜しいが彼たちとお別れの時間となった。我々の命でもある大事な無線機をRSSLに預けることにし空港に向かった。コロンボから空港までは40q足らず。出発は20日の午前1時45分だから正に真夜中の出発になる。

2001年初めてスリランカに来たときは正に有事の国という感じであった。武装した兵士と要所に機銃を備えたトーチカがありカメラを向けても危ないような国であった。
飛行機に乗る際はすべての荷物を検査されとても立ち寄れない雰囲気があった。楽しいスリランカの思い出が空港に来ただけで一瞬にして現実に引き戻されると言うのがその頃のスリランカだった。
それが昨年は気が抜けるくらい穏やかで、何もなく兵士も居ない、警備も手薄という光景を見て驚いたものだ。
しかし和平が進みつつあると言ってもLTTEの活動は活発であり成り行きいかんによってはいつ内戦が再発するかわからない。
いまの平和がつかの間の夢ではなく長く続いてくれることを祈らざるを得ない。その秘訣は自分達に非があれば素直に謝ることだし、言い訳をしないことだ。教えてやりたい気持ちだが、まあそんな単純なことではないことも判る。しかし単純なことができずに複雑なことができるわけがないという摂理もある。


ガイドのARIさんに別れを告げてTG624便はバンコクを目指して飛びたった。バンコクで乗り換える大阪便の最終目的地はロスである。アメリカへの乗り継ぎ便は検査が厳しいことで有名である。
あまり待つことなくバンコク空港で大阪便に乗り換えた。最終地はロスアンゼルスだ。ここまで来ればこの旅の90%が終わったことになる。
多くの仲間に恵まれ同じ趣味を持つ者が集まる旅は多くの障害をはねのけて何とか成し遂げられようとしている。さらに今までの旅とは違った喜びを噛みしめている。
単なるアマチュア無線の遊びではあるが自分たちの力で少しずつ完成度をあげていく手作りの旅がようやく今年新たなスタートを切ったことになる。
色々なことがあったがスリランカ探訪の旅はいまのところ卒業できそうにもない。

嫌いになったスリランカを今年十分に味わったので来年は好きになれるスリランカをみんなと一緒に発見したいと思っている。

関空に着いてろくな挨拶もできなかったが、32名のすばらしい仲間に心からお礼を伝えたいと思う。
なお、私が撮った写真以外に、メンバーから提供頂いた写真を一部使用させていただいた。紙面をお借りしあわせて感謝の意を伝えたい。

                                                                                                       2003.10長谷川記

 
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