出会いは お顔ペロペロ 高校一年生の体育の時間、私の手前で跳び箱が急に高くなりました。自分の背より高くなりましたからスピードをつけて、アタックしましたが迷いが現れて「飛べるかなあ」けれどもスピードは、グングーン、ドッカーン白昼夢です。顔面、胸、膝いたるところに強い衝撃です。私はペラペラと崩れました。強烈な打撃で、眼の網膜がはがれる網膜剥離をおこして失明することになりました。 恵子さんは中学生の時、眼圧のあがる緑内障で失明です。ふたりが出会ったのは大阪にある日本ライトハウスでした。当時この施設は、「盲人の可能性を追及する」をスローガンにかかげて、生活訓練では白杖歩行、職業訓練では男子のコンピュータープログラマー、女子の電話交換をおこなっていました。 私は最初で最後の試みと言われたパーヒューマー(調香師)の勉強をしていました。3年ほど香水のことばかりしていましたが、オイルショックで就職先の新規採用ゼロで、この試みはあえなく失敗しました。けれども生活訓練を受けていた恵子さんと結婚できましたからいい思い出です。 日本ライトハウスの屋上の片方に、調香師の教室があり、様々な香りがプンプンしていました。もう片方にオーストラリアから来た盲導犬の繁殖犬ガイと、パピィーたちがいました。教室のドアの外でなにやらクンクン、どれどれ私がひょっこり顔を出したら大変、盲導犬の卵たちが群がってペロペロ、踏みちゃんこ、これが盲導犬との最初の出会いでした。 その後、私は大阪市立盲学校で、はりきゅうの資格を取り、神戸市北区鈴蘭台で鍼灸院を開きました。今では長男公一郎高校三年生、次男陽次郎中学三年生が盲導犬の代わりとなりましたが、いつまでも手元に置くことは出来ません。一頭でも多くの盲導犬を仲間に貸与して、視覚障害者のみなさんを応援したいと兵庫県盲導犬協会の会員になった私が、自分自身のために盲導犬貸与のお願いをすることはまことに心苦しいことです。それゆえ、盲導犬貸与の運動を押し進める会員としての立場と、盲導犬使用者としての立場に立ってもっともっと頑張る決意です。