須磨寺の思い出

成人式といえば毎年1月15日という固定概念があったが3連休の2003年1月13日きょうがその日であることを晴れ着の女性を見て気がついた。
いつもどおり事務所に向かい残務処理をしたあと、ふと歩いてみたい衝動にかられ出かけることにした。
休日でもあるので人ごみを避け舞子公園から海岸沿いにアジュール舞子、マリンピア神戸、垂水厚生年金会館から塩屋まで歩きそこから山陽電車で須磨寺にむかう。
山陽塩屋駅は震災後復興した駅で比較的新しい。
普通電車を待つ間、先頭のベンチに座り駅前のコンビニのお茶を飲んだ。さすが舞子からここまで歩いただけあって渇きを補充するには格好の休息となった。

電車はがらすきで、須磨寺の一つ手前の須磨で特急待ちをする。最近は阪神電鉄と相互乗り入れで姫路、梅田間の直通特急が頻繁に運転されている。
しかし、複々線を持つJR新快速と比較すると時間、料金とも赤ちゃんと競争くらい差があって永遠に埋めることが出来ない私鉄の課題を感じる。
ましてや普通電車はそれ以上にゆっくりした乗り物でしかも駅間が短いローカル電車である。
運転手は下りて次の特急を見送り、その特急が出てから相当時間を置いて普通電車が発車するシステムでノンビリしている。
その点JRは単線区間であっても電車待ちの時間が短くは比べ物にならない。これは客が少ないせいか事情はわからないが、ゆったり時間のあるきょうのような日には最高の乗り物であるに違いない。

須磨寺は転勤族の父と一緒に5回も小学校を代わった私にとって祖母との一番思い出の場所だ。但馬に行った1年半を除いては物心ついたころから手を引かれて歩いたものだ。
その頃、祖母は戦前から持っていた少しばかりの借家の家賃集金をかねて長田まで行くこととこの須磨寺にお参りするのが毎月の課題で淡路や播州に転勤になっても、お大師様の日とされている21日には必ず須磨寺に参ることが習慣となっていた。決まったコースを巡り必ず門前の屋台の鳩飴を買ってくれた道を歩いてみた。

その頃の山陽電車は正に路面電車に毛の生えたくらいのレベルで、駅は小さく線路もかろうじて電車のスペースを確保したようなものだった。
当然改札も上下線共通で、駅構内の踏切を渡らねば向かいのホームにいけないところが多くこの須磨寺駅も例外ではなかった。このつくりは今も全く同じだ。
幼い頃の思い出はその後大人になって振り返ると大きく増幅されるもので実際訪ねてみるとこんなに狭い路地だったのかと驚くことが多い。

祖母は「しん」と言って、確か明治30年くらいの生まれだったと思う。若くして40歳少しで夫(祖父)を亡くし女手一人で女ばかり4人の子どもを育てた人である。その長女が私の母であり、父は長谷川家に婿養子に来た人だ。
私の兄弟は姉3人と私で、女3人の最後の男子であったので祖母はことのほか私をかわいがって姉たちの嫉妬をかったようだ。
その祖母との時間を共有した思い出の場所がこの須磨寺で、ここを訪れると祖母と昔歩いた道をなぞっているようで少しばかり安心感があり何かお返しが出来るのではなかとそんな気になる。
当然色んな思い出が過ぎり祖母が生きていたら沢山の「ごめんなさい」があるし、何よりも気の済むまでお返しが出来るのに・・と反省ばかりである。
こんな思い出を抱きながらのお参りだけれど半世紀の時間はそんなに近いものでないことがわかる。
92歳で亡くなるまで、車で須磨寺の前を何度も通ったが駐車場がなく立ち寄らなかったことを悔やんでいる。きっとお参りがしたかったのだろうと思うと申し訳ない気持ちになる。
須磨寺の山門前に橋があってその下の池は亀で埋まっていたような記憶がある。今は立派な橋が架かっていて幼い頃の思い出とは大きくかけ離れるが、下の池に目を移すと昔の面影が残っている。

足早に人より早く歩く勝気な祖母に引っ張られるようにこの道を歩いたに違いない。
今回、この記録を残そうと思ったのは鮮烈な思い出の場所に立ったからだ。
祖母と歩いたコースは毎回、はんで押したように決まったものだった。鳩飴を買ってもらい亀の池を覗き込んで山門をくぐり後は祖母のお決まりルートだ。
私はその後をただついていくだけだが、いつもお坊さんに木札に何か書いてもらいそれをお地蔵さんの水槽に浮かべ水を浴びせる仕草は今でも頭に浮かんでくる。
この地蔵さんを見てこれが祖母が生後まもなく亡くした唯一の男の子の供養であったことが最近わかった。
私をこよなく可愛がったのもその思い出を重ね合わせていたのではないかと思うことがある。
これは理屈ではないし、口にすることでもない祖母の心の心を表していたのではないと思う。
そんなことなど何も感じないで気まま、我がままな自分を省みなかったそんな青春時代が悔しい。
阪神大震災は神戸の町を大きく変えた。当然ながらこの須磨寺にもその後新しい施設が増えた、五鈷水と名づけられた湧き水の場や震災の記念碑などが目につく。
駅からの距離はちっとも変わらないのに変わったのは商店街の街並みと昔を知る人の減少だろうか。

今回ふと思いついたのは、その祖母のお決まりのコース上に私にとって鮮烈な思い出の場所があることだ。それは本殿左の比較的小さなお社の前によだれかけというか前掛けをした男の子二人が抱えているブロンズの線香立てのことだ。
この前に立った時、突然また多くの祖母との思い出が蘇ってきた。
見覚えのある顔・・恐らく当時は私より大きかったに違いないこの少年の顔が実に新鮮に思い出される。何度も私の記憶と見比べてみた。

祖母とその昔したように頭をさすってみた。そのお社の左が水子の為の地蔵さんだが、今風に言うと水子地蔵は大流行のようだが、祖母にとっては大事な跡継ぎの長男には言い知れない思い出があったのかもしれない。
生前この私にとっては伯父となる「昇」については、仏壇の過去帳でしか知ることことが出来ないが、あんな名前を付けたから早く天国に昇ってしまった・・という事を聞いたことがある。
この伯父が生きていたら私の存在はなかったかもしれないが、いまこの伯父は姫路の我が先祖の墓地の霊位に刻んでいる。
しかし、小像の頭をなでながらこのブロンズに思い出はあるもののあまりにも綺麗なので50年前私が触れたものとは別のものではないかと言う思いがあり次回訪ねたとき確かめてみようと思っている。

一昨年の師走、25日四国八十八ヶ所の巡礼を終え高野山を訪ね一応の結願を済ませた。これも母や祖母の足跡をなぞって見たいという思いから続けられたものだが、このような思いを抱くようになったきっかけが存在する。
これについては別に譲るが、人生の転機が日ごろ気にも留めなかった父母や祖父母そして先祖に思いをめぐらし単なる郷愁ではない自分そのもののを見つめる機会になることに驚いている。
やっぱり祖母が毎日祈りをささげていた日常の上書きを私自身の行動として引き継ぐことの大切さを改めて感じている。

もし、手を引かれて祖母と歩いた道がなければこのような思いを抱くこともなかった訳で、何もお返しができなまま別れた祖母をできる限り思い出すことくらいしか何もできない今のはがゆさを伝えることは難しい気がする。