SRI PADA 巡礼の旅
スリランカ・スリーパーダ登頂記

巡礼を終えてヌワラエリアの町を去る道中、改めて見るSRI PADAの雄姿 2006年1月23日午前撮影

 宿を出てから部屋に戻るまで14時間、一睡もせず深夜2500m級の山に登るなど、日常の生活では考えもつかないことだが、こんな体験をスリランカですることになった。

 恒例となったスリランカの旅も私自身8回を数える。これまで毎年のように6月と9月に訪れたが、昨年は津波の見舞金を届けに2月に訪問した。その時は義捐金を届ける目的だけの比較的短い滞在だったこともあり、噂で聞く素晴らしい季節といわれる冬のスリランカをあまり知らない。
 そこで2006年最初の旅はスリランカにとってインド洋の波静かな好季節1月を選んだ。


 もともとこの旅は趣味としているアマチュア無線をスリランカで運用するためだが、釈迦が3度訪れたというスリランカは仏教遺跡に溢れ、島自体は北海道を一回り小さくした程度だが世界遺産が七つ、そして動植物の宝庫といわれる自然公園が点在している。
 この国をくまなく巡るのは旅の醍醐味であり、スリランカをより知りたいと思うのもこれまた当然の思いである。無線運用だけでは心残りになるからだ。

 
2006年1月16日、関西国際空港を飛び立ったシンガポール航空SQ985便は、チャンギ空港に到着。この空港は5時間の待ち時間など苦にならない素晴らしい施設だ。モルジブへはSQ452便に乗り換え、南国のリゾート地マーレ空港に着いたのはその日の22時(日本時間17日午前2時)を過ぎた頃だった。
 モルジブは多くの島が点在し空港だけが一つの島、首都も一つの島で成り立ち、我々が滞在するフルムーン島も空港から高速ボートで15分、ここでは当たり前の一つの島に一つのホテルというモルジブスタイルのリゾート地となっている。

 フルムーン・モルジブホテル
の4日間は、インド洋の楽園そのものが楽しめ素晴らしい休日となった。
 部屋の前に広がるプライベートビーチもリッチだが、水上艇で空中から島々を遊覧したり、イルカの群れを求めながら壮大な夕日を挑むサンセットクルーズにチャレンジした。
 水平線から昇る太陽・・そのまま水平線に沈む雄大な夕焼け・・どれをとっても申し分ない好奇心溢れる旅となった。

 日常の時を止めるためにこの地を訪れるヨーロッパ人観光客とアジア人の意識は少し異なることがわかる。しかしたった15分で島を一周できる小さなリゾート地など飽きるだろうと言われるが、忙しく走り回る日本人でも、どっこいそうでもないのがモルジブの魅力であり4日間などあっという間の時間でもある。
 
モルジブでの名残はつきないが、1月20日金曜日午後、スリランカ航空UL502便に乗り込み次の滞在国スリランカに向かった。
 1時間半程度のフライトでコロンボ空港に到着した。顔染みの友人達の出迎えを受け、挨拶もそこそこに無線チームと別れ、我々7人のチームはそのまま一路スリランカの古都KANDYに向かった。

 KANDYは何度訪れただろうか。政治の中心地コロンボとは趣を異にするこの都市は、シンハラ王朝がイギリスに滅ぼされるまでの300年間シンハラ文化の華を咲かせた歴史豊かな古都である。

 今回はKANDY中心部からおよそ7kmの高台にある「ラ・キャンディアン」・・今は名前を変え「AMAYA HILL」となった由緒あるホテルに宿をとった。
 このホテルの朝は、雲海の上に立っていることを実感できる。下界は一面の雲の下でまったく見えない。
 標高300mの町から更に山に向かう細い道の終点がこのホテルだが、とても赤道の真下に近い国にいる感じがしない。
 スリランカは一律に語れないほど多種多様であり、数回訪れる程度で簡単に解明できない複雑な国でもある。
 初めてのメンバーはKYANDY観光定番の仏歯寺を見学に行ったが、私は町の市場にでかけ活気ある町を久しぶりに散策した。
 今回KANDYは移動中継地点として訪問したのでゆっくり過ごす時間がとれなかった。たった一泊だけではもったいないと言われたが、翌日21日は紅茶で有名な町ヌワラエリアに向かうことになっている。


 ヌワラエリアは2度目になるが、途中久しぶりにピンナルワの象の孤児院に立ち寄った。初めてここを訪れたのは5年前だろうか、親から離れた子象はそのままではジャングルに戻れないことから個人の寄進で作られた象の収容所だが、今は一大観光地となって多くの外国人観光客で溢れている。

 ただ驚いたのは、この数年で飼育係の品性が格段と落ち、チップの強要など今までみられなかった光景に多く出あった。
 象にミルクをやる飼育係の目は象よりも観光客の懐に注がれ、写真を撮らせるためにチップをはずむ客だけにポーズをとる。
 この国の進歩は極端に遅いが、観光地の悪しき姿に染まるのにはそう時間がかからなかったようだ。

 紅茶の産地で有名なヌワラエリアはスリランカの避暑地で高地でもある。そのため熱帯とはいえ朝晩は半袖では過ごせないくらい冷え込む。赤道に近いこの町のホテルは暖房器具はあるが冷房装置がないことがこれを物語っている。

 さあ今夜はいよいよ今回の目的であるスリー・パーダ登山だ。ヌワラエリアの町に入りまず立ち寄ったのがスーパーマーケットで、登山の為に水や簡単な食料を買い込むことだった。
 買い求めたものは一人あたり水2本、チョコレート一つ、クッキーやスナック菓子などで、この町で最も有名なグランドホテルにチェックインしたのは夜8時近くになっていた。

 出発時刻を決めることにしたが、翌朝再びホテルにもどって朝食をとることにしよう・・の提案で夜9時半出発とした。
 そうなると準備を含めてそう時間がない。慌ただしく遅い夕食をとったがこれから始まる未知への旅のせいか全員が控えめな食事となった。

 登山に挑戦する7人のメンバーの年齢構成は最小年17歳女子TMさん、最年長76歳♂NMさんを筆頭に、69歳♂SKさん、65歳♂Oさん、58歳♂私、54歳♀家内、45歳♀SHさんでざっと平均年齢54歳となったが、17歳が加わらなかったら恐ろしい数値になる。

 3時間の過酷な山登りだそうだから当初は全員参加するとは思っていなかったが、あの山に登ると30年長生きするという事前のふれ込みが効き過ぎたのか、あるいは単なる寺参りと勘違いしたのか集合時間にはみんなやる気十分のそれなりの出で立ちでバスに乗り込んできた。

 このグランドホテルからスリー・パーダの登山口の町まで車でおよそ2時間近くかかるそうだ。
 ホテルを出たのは夜10時前になってしまった。悪路を揺られながら疲れにまかせていつの間にかうたた寝をしていたが、山の灯りが見えるという声で目を覚ました。
 目を凝らすと山の稜線に沿った参道だろうか、灯りが山頂まで続いている。漆黒の闇にゆったりとした曲線を描く誘導灯はその先の苦痛を想像するより、あの聖地に何があるのかと言う好奇心がわき出してくるような神秘な光だった。


 この聖地に登るには二つのルートがあるそうだ。観光客の多くはナラタニアという町から歩き始める。我々もこのルートを選んだ。
 深夜麓の町に入る時点で検問が待ち受けている。これはやはりテロに対する警戒だそうだが我々観光客はその検問を受けずに町に入ることができる。
 空を見上げると満天の空・・輝く星は日本で見るより数倍大きい。外気は結構寒く麓の町でも10度程度だから山頂はかなり寒くなることが予想される。寒さか武者震いか判らないが、ぜか気合いが入っているのは確かだ。時計を見ると午前0時を過ぎている。

 駐車場の周りは深夜にも関わらず土産物屋が並び、売り子達はたき火で暖をを取っているから、これまた異様な感じがする。
 スリランカで手袋が山積みになっている店など初めての光景だった。ここはスリランカの常識を離れた場所であることがわかる。
 さあ、これからバスの中から遠目に見た灯りを頼りに登っていくことになるのだ。

 なぜ夜に登るのかというと答えは簡単である。昼間は暑くて登れないからだ。それと大半の人たちはご来光を拝むことが目的の一つだから当然深夜に登り始める。
 健脚は3時間で山頂に着くから仮眠をとって朝を迎えるわけだ。 この営みが11月の満月から5月の満月まで毎日続く。それ以降は蝶が山に飛んでくるという伝説の通り動物のために開放された山となる。

 過去の旅でこの近くを通過したことがあり、ガイドからスリー・パーダに登る道はここからだと聞いたことがある。今回いざ挑戦となったがとにかく深夜なのでどこを通ったのか、現在位置がどこなのか全く見当がつかない。
 さあ駐車場に着いたよ!と言われ寝ぼけまなこで車を降り、きょろきょろ辺りを見渡したら土産物屋とたき火が見えたのが強烈な第一印象であった。

 そもそも日本の感覚からすると観光地の駐車場から目的地からそう遠い所には作らない。しかしここはすべてそんな常識や思いこみは通用しない。駐車場から山門までイヤと言うほど距離があって、そこから山頂まではどうなるのかと思うほど気が遠くなるような長い階段が続く。

 帰ってこの体験を話すと、例外なく「そんな名所ならロープウェイを作ればいいのに・・・」といとも簡単な話がでる。そんな単純な話で片付くようなものではないが説明が面倒でもある。ただ歩くことを苦痛に感じるようではこの物語は成り立たないということのようだ。
 もし、スリー・パーダが今後も観光客に馴染みの場所にならないとしたら、前回達成した最後(七つ目)の文化遺産シンハラジャの森と一緒で、目的が無い人には決して面白い場所ではないからだと思う。しかもこの巡礼はやはり神聖なもので単純に観光地を語る程度では説明できないことのようだ。

 とにかく経験しないと判らないことばかりだが、駐車場からただひたすら歩いたところが実質スタート地点となる山門に出会う。現地の人はここで沐浴をしたり食事をとったりするそうだ。
 さあここから登り始めるよと言われても、今まで結構歩いてきたからあと少し頑張れば山頂にたどり着くのでは・・と言う錯覚に落ちてしまうのがこの山のマジックでもある。

 暗闇の中、この為に買い込んだLED製のヘッドランプを頼りに歩き始めると、すれ違う人たちの視線は珍しいのかこのヘッドライトに注がれる。中には声をかけてくる人もいるが、微笑だけで返事をする気にならない。
 この灯りのお陰で往きの暗闇はただ足元だけに注意を注げばよかったが、帰りはまぶしすぎて記憶をたどっても思い出せないくらい登ってきた山道とは別世界が広がっていた。
 行きと帰りが全く違う道を歩いている経験は初めてで、新たな道を歩んでいるような感じがして特に帰り道が長く思えた。
 息をはずませ登った真っ暗な道が、帰りは太陽に輝く道になっているのだから頭の整理がつかない。

 お馴染みの旅行ガイドブック「地球の歩き方」スリランカ編から借用すると、聖なる山スリー・パーダ(アダムス・ピーク)について次のように紹介されている。

スリー・パーダはスリラン力随一の聖地。この山の頂きに残された聖なる足跡が、宗派を超えた信仰の対象となっている。人々はよりよき明日を目指してこの山に登る。険しい山道だが、1歩1歩祈りを込めるようにして登っていくのだ。
晴れた日、ラトゥナプラから北東の空を仰ぐと、紺碧の山が3つ連なって見える。そのなかでも三角形に整い、最も尖った山がそのスリー・パーダ(アダムス・ピーク)だ。ラトゥナプラの北東、ヌワラ・エリヤの南西に位置し、標高2238m。11月の満月から5月の満月までは、日が落ちてあたりが闇に包まれると、スリー・パーダは黒い影となって現れ、頂上に冠を載せたように照明の灯が連なって輝く。
この時期、数多くの巡礼者や旅行者がこの山を目指す。そして、頂上の岩にある聖なる足跡の前で祈りを捧げるのだ。
スリランカの仏教徒は、この足跡を仏陀がスリランカを訪れたときに残したものと信じている。また、ヒンドゥー教徒は、この足跡をシヴァ神のものと信じ、イスラム教徒はアダムが地上に降りたときのもの、キリスト教徒は、アダムが楽園を追放され、地上に降りたときにつけたとか、あるいは南インドに初めて来た使徒、セント・トーマスのものなどと考えている。民族にはそれぞれの誇りがあり、それぞれの宗教もある。ときとしてそれは対立となってぶつかり合うことも少なくない。スリラン力とて、小さな多民族国家としてその悩みを抱えている。だが、このスリー・パーダでは、聖地を共有するという、理屈を超えた世界が広がっている。
3月の巡礼シーズンのピークが過ぎる頃には、蝶が群れをなして飛んでいくことから別名サマナラ・カンダSamanalaKande(蝶はシン八ラ語でSamanala)とも呼ばれる。その後、風が強くなり、雲がかかり始め、人間の巡礼が途絶えると、今度は動物達が山を目指すとスリラン力の人々はいう。スリー・パーダは宗派だけではなく、いかなる生命にも境界線を引かない聖なる山であるらしい。

歴史伝説によると、紀元前1世紀頃、ワッタガーミニ・アバヤ王はこのあたりの山の洞窟に身を隠していた。ある日、鹿を追って山を登り、頂きに着いたとたん、その鹿が姿を消してしまった。鹿が消えたあたりをよく見ると、そこに聖なる足跡があったのだという。
その後、この伝説をもとに歴代のシン八ラ王のスリー・パーダ信仰が始まり、聖地として巡礼道などの整備が次々と行われた。本格的に巡礼が盛んになったのは11世紀。後には、仏教徒のみならず、4つの大宗教がそれぞれ開山伝説を語るようになり、共通の聖地とされるようになる。また、13世紀にはあのマルコ・ポー□もこの山へ登り、記録を残している。
仏教徒のもうひとつの伝承では、過去3度スリラン力を訪れた仏陀が、最初に会ったのが山の神サマンで、もとはスリー・パーダの主だった。しかし、そのときサマンが仏教に帰依したため、スリー・パーダが仏教聖地となったのだという。この話はシンハラ人入島以前からスリラン力に住んでいたウェッダニ族の信仰にも関連している。サマンというのはウェッダーの土着的な神だからだ。南部の力タラガマなどと同様、スリー・パーダの開山も、もともとはこのウェッダーの山岳信仰から始まっているようだ。

 聖なる山「スリー・パーダ」の存在は最初の訪問の頃から聞いていた。しかし大して気にとめなかったのはそのような伝説の山は世界各地によくあるからだ。
 前回の訪問によってシンハラジャの森を最後にスリランカにある七つの世界遺産を全部訪れたことが今回のスリー・パーダ登山につながった。
 毎回スリランカの旅程には気を使っている。海外旅行も回を重ねると一般的な観光地から徐々にマニアックになって俗にいう秘境を訪ねたくなることも多い。

 スリランカも例外ではなくシーギリアアヌラーダプラなどの定番観光地は既に何度も行っていることからリピーターを自認する我々としても訪問先には頭を悩ましている。


 観光地としてスリー・パーダを選ぶ日本人は少ない。だが、なぜスリランカの人たちがこの山に登るのかを考えると、何か底知れない魅力があるに違いないと考える。行列のできる店をたとえると失礼だが、行ってみないと判らないのが旅であるから、まずチャレンジしたいと思った。

 スリー・パーダ初挑戦の1月21日深夜、厳密に言えばすでに22日日曜日だ。休日にあたるので平日より巡礼者が多いという話だ。
 我々のガイドを務めるお馴染みのアリさんは、本来同行の義務があるが申し訳なさそうに途中まで付き合うが山頂までは遠慮させて欲しいと事前に言ってきた。代わりにこれもお馴染みのマイクロバスの助手アジス君が同行するという。ただ英語も日本語も通じない彼がガイドというのはちょっと物足りなかったが、道案内が居ないと困る。

 ホテルを出る時バスの運転手の服装を見て驚いた。彼も毎年顔を合わしているお馴染みだが、日常運転中の彼の制服はスリランカではこのところ珍しくなった男性が腰に巻くスカート(何というか思い出せないが・・)と白いシャツのスリランカの古典衣装しか見たことがない。
 その彼が、毛糸の帽子をかぶって手袋それに厚手のブルゾンを着込んで運転席に座っているではないか。付き添って山頂まで同行するはずの助手アジスは、私が3年前にプレゼントしたTシャツを着て昼間と変わらない格好をして乗り込んできた。私の聞き間違いなのか・・山頂まで同行してくれるのは運転手だったのかと考えてしまった。


 車中の心地よい眠りから、山頂に続く誘導のランプが見える・・と教えられてからもその光は右に左に見え隠れしながらバスは延々と走り続けた。
 翌日スリー・パーダを麓から見たとき、どこからでも見える壮大な山を再認識しこの裾野の広さでは当然であると理解できた。
 もし昼間ならあの頂を見ただけで登ることを躊躇したかも知れない。しかし暗闇と山頂まで続く灯りや、何と言っても手が届くような満天の星をみるとこれほど整った舞台はない。苦しさなど考えないし、この先待ち受ける期待と好奇心が勝り不安感など無くなってゆく。

 ナラタニア広場の駐車場をあとにして我々は束の間の巡礼者に変身し歩き始めた。日付は1月22日に変わって時刻は午前0時を少し回った。
 バスを降りたとたん助手のアジスはいつの間にか長袖のジャンパーに着替え笑いながらポーズをとっている。登山ルックの運転手は運転席のハンドルに肘をかけたまま動かないことからやっぱりガイドはアジスだった。本物のガイド、アリさんの姿はとても山頂に登るつもりは無いことがわかる。登山口までご一緒します、というが彼がここで失礼しますと言ったのは登山口のずっと手前だった。

 スリー・パーダの登山口はたくさんの土産物が出ている。休憩所を兼ねている店があるのはやはり体力を消耗するからエネルギー補給のために特に飲み物や甘い菓子を提供する飲食店も必要だからだ。
 必ずしも人通りが多いわけではないが、おそらく深夜営業の元祖はこの露店群にあるのではないかと思うくらい多くの店が営業を続けている。昼間なら興味深く立ち寄りたいと思うが、我々は巡礼者であるからただ黙々と歩かなければならない。


 北緯6度、赤道に近いスリランカで深夜に防寒着を着用して、しかも手袋、帽子の格好で歩くことは奇妙だ。
 何よりたき火で暖を取りながら店番をする光景は日本のテレビで紹介しても格好の素材になるくらい面白い。一体ここはどこなのだろうと錯覚に陥るスリランカの顔の一つである。
 土産物屋に囲まれた坂道を歩くとやがて涅槃像大きな門に出会う。現地の人たちはここで腹ごしらえをして山に挑むらしいが我々は水と少々の食料を持参しているのでそのまま歩き続ける。
 現地で得たニュースから日本の厳しい寒波が伝えられている。モルジブの島で慣れた暑さからまた日本を思い浮かべる寒さのなかで、開いた毛穴が縮んだりまた開いたり実に体調に良くない。

 歩き始めの道はゴロゴロしているが緩やかな山道と言った感じのだらだら坂が続くから苦痛など感じない。やがて大きな涅槃像やヒンズー教の像で作られたスリー・パーダの門を越えたあたりから段々この先の厳しさが予感できるようになった。それまではこの調子で3時間歩けば山頂に着くだろうからマイペースで歩き続ければ良いはずだと頭で想像していた。

 この山門の近くに日本の宗派が建てた日本山妙法寺があるが道はそのあたりで分かれている。どちらのルートを選んでも同じ道に合流すると言うがこんな時遠回りをするわけがない。
 気合いをいれて歩き始めた途端スリランカ人の僧侶に呼びとめられノートを差し出されサインを求められた。見るとそのサイン帳はドネーションリストでサインは圧倒的にヨーロッパ人が多い。ノートの右端にはその日の寄付金額が催促がましく書かれている。

 
 実にセールスの上手い僧侶だが、この先の安全祈願と通行料かもしれないと思い7人分まとめて500ルピーを基金した。
 すると僧侶は領収書代わりだろうか一人づつ腕に錦紗の紐で腕輪を作ってくれた。
 この関所はどうやら外国人専用らしく現地人には御利益がないらしく素通りである。ただ不思議なことはこのおまじないで簡単に山頂に着くような妙な暗示に陥った。

 一番元気なのは最年少17歳の娘と助手のアジスだ。アジスの年齢は聞いたことはないが恐らく40代前後だろうか、76歳や69歳がよたよた登っている間に、ピッチが異なる実に歩きにくい石の階段を二人は恋人のように楽しそうに上がっていく。
 私も心臓破りの階段をかなり深い呼吸とともに一歩一歩踏みしめて上がるが、やはり気になるのが後から来るメンバーのことだ。休憩を兼ねて後続組を待ちながら登山を続けた。

 最初の頃は下山のためすれ違うスリランカ人巡礼者の数が少なかったが、このあたりから下りてくる人の多さに驚いた。その人達が歌いながら下りてくる光景に驚いたが、あとから聞いたら祈りのためと苦しさを紛らわせるお互いが励まし合い歌うのだそうだ。
 一番してはいけないことは頂上まであとどのくらいか?の質問だそうで、これは神の意志に反する行為だそうだ。それを知らない私は何度助手のアジスに山頂まであとどのくらいかと聞いたことか・・・ところがアジスはその都度笑って暗闇の山頂を指さし「テンミニッツ」と答えた。
 
 初めは真に受けてみんなにあと10分ほどだから頑張れ!と励ましたがそのあと40分登っても頂上にはほど遠かった・・だまされたとは思わなかったが、どこがどうなっているのか全く判らない暗闇の道だからここまできたらひたすら登るしかない。
 再びアジスに何がテンミニッツやねん!!ええかげんにせんか!!あとどのくらいや?と聞いたがまたニタッと笑ってテンミニッツと答えた。こいつ・・・!!!
何語で聞いたか記憶がない・・大阪弁でなかったことは覚えている。
 もし、事前にこの質問が神に反するタブーだと聞いておけばこんな愚問をしなかったと思うが、外国人巡礼者である私に気を使って出た言葉がテンミニッツであったのならアジスの気配りに感謝だ。

 登り始めてから4時間が経とうとしている。冗談もほどほどにしてよ・・思わず愚痴の出る最終ルートに差しかかったが、テンミニッツを再び聞きたくないので同じ質問はいつしかでなくなった。
 やがて見上げるような急激な傾斜の階段が見えた、ここが山頂か良く分からない。期待して又裏切られるのはイヤだから黙って登っていくと先に着いた家内から山頂よ!と嬉しそうな声がかかった。

 急な階段はとても狭いがこの山頂にはどんな世界が待っているのだろうか・・期待で胸がふくらんだ。日本は今頃深い眠りについている時間だ。

 見上げる空は星がこんなに大きいものだったのかと思わせるようにこぼれそうに空いっぱい散らばっている。満月ではないが明るい月に手が届くような感じだ。
 登山中いつまで経っても辿り着かない山頂より月のほうがずっと近くに見えた。道中先に月に着いてしまう・・そんな声が聞かれたくらいだ。上がれど登れど山頂が見えない長い長い時間の末、メンバーもきっと騙されたと思って登ってきかも知れないが山頂に着くとみんな満足そうな表情だったのでホットした。手が届く感じの月が護ってくれたようだ。

 日本で朝4時過ぎまで起きていることは気のあった仲間との飲み会くらいだが、信仰のために夜通し歩くことなど日本でも経験がない。その考えられないことをスリランカでやっていることに不思議な思いがあった。邪念を捨てやがて無我の境地に達した頃・・山頂についたのが不思議だが時刻は4時20分であった。登り始めてから4時間半近くかかったようだ。

 ここが念願の目的地神聖な山スリー・パーダだ。冷気はますます厳しさを増してきた。神聖な山頂は石畳で作られた広場と噂の釈迦の足跡という石を祀った一段高い小さな祭壇で成っている。
 素足でなくても靴下のままで良いが靴を脱がなければならない。石の冷たさに思わず背筋がぞくっとした。
 頂上のお釈迦様の足跡にお参りするには石の階段でじっと順番を待たねばならない。石の冷気が段々膝から上って来るのが判るが、階段は人で溢れて簡単に上れない・・順番をじっと待った。
 順番が来ると祭壇で賽銭を捧げると寺男が、まるで屈伸運動の補助員のように強引に参拝者の頭を押しつける。思わずイテテと叫ぶのは神をも恐れぬ無礼なことだが、私はこの洗礼は勘弁して貰った。

 足から冷えが伝わるのは辛いことだ。子どもの頃にこの冷たさを経験した記憶がよみがえった瞬間だが、日本では近年こんな経験はない。修行が足りないことは認めるが、山頂の石畳は余りに冷たく、靴が履ける階段下に移動することにした。メンバーも冷気を避けて火を求めて風の来ない場所に集まっていたが、その場所はゆらゆらする炎はありがたかったが燃料の油の臭いと煙は馴染めなかった。

 助手のアジスが朝日が一番よく見える場所に移動しようと声をかけてきた。時計を見ると5時・・みんなに声をかけ東の斜面にある階段頂上付近最上部に座り込んだ。
 一等席はありがたいが夜明けは何時?と聞いてみた。まさかテンミニッツとは言わないだろうと思ったが、今度は6時半頃だと真面目な答えが返ってきた。
 この真面目な答えをまともに解釈すると、2時間近くもこの吹きさらしの階段に座ることになる。こんなことならもっと重装備の防寒具を用意するのだった・・と真剣に後悔した。
 手袋は必需品だけではなくフードの着いた防寒具がちょうど良い。もっと身を寄せる方が暖かいよ・・と自然に声がかかるくらい寒くひとかたまりになった。冬山で遭難したらこうやって耐えるのかな、と余計なことを考えていた。
 
暑いのも辛いが寒さはずっと辛い。大半の巡礼者は寺院地下の待機所で仮眠をしているが、とても巡礼全員を収用することは出来ない。のぞき込んだら日本の山小屋と同じでタタミ一畳に3人位が寝ているだろうか。
 17歳は死んだようにうずくまっている。76歳は本当に死んだのかと思うくらい動かない。私もフードを下ろして袖を目いっぱい引き出し、我が家のネコよりもずっと上手く丸まっていた。とにかく少しの風も体にいれないことに必死だった。修行とはこんなものなのか・・我慢比べのような時間を異国の地で味わった。なぜこんな苦しみを体験するためにこんなに多くの人がここまで登ってくるのか・・・。


 そんな邪念の謎解きの瞬間が近づいてきた。アジスが指さす方向に赤みが差してきた。何という星なのか異様に大きな輝きが山の稜線に見えてきた。その明るさはあたかも朝日の見え始めかと思うほど明るいのが不思議だった。
 風は一向に収まらないが、カメが甲羅から顔を出すようなしぐさで目だけが東の空を見つめていたが、山から朝日が顔を出す頃には山頂は仮眠していた巡礼者で溢れていた。
 アジスが選んだ一等席は寒風に耐えるだけの価値ある場所であることがようやく理解できた。


 山に登ると言うことは特別な意識を持つことである。日本でも登山ではみんなが声をかけ合い友達になれる。下界からスリー・パーダ山頂を見ると三角形のとんがり帽子のように見え、この山はどこかからでも判る。異質な山の形をしているので容易に識別が可能だ。最初にこの島に上陸したヨーロッパ人も興味を抱いたことが想像できる。
 仏教徒はスリー・パーダと呼び、キリスト教徒はアダムス・ピークと呼びそしてヒンズー教徒は、この足跡をシヴァ神のものと信じ、イスラム教徒はアダムが地上に降りたときのものと信じていることで、この山に限って言えば対立の場所ではない。聖地を共有するという、理屈を超えた世界だ。平和のシンボルでもある!

 我々が5時に座り込んだ場所は頂上の聖地を保護するように作られた階段状の通路だ。ここは座ったままで登る朝日を見ることが出来る。夕日もそうだが太陽の動きは思ったように早い。地球の自転の早さを再認識するのがこの時である。
 この日の朝は太陽が昇る山の上部に横に広がる雲がかかっていた。少し気になったがそれを突き破るように昇り始めた朝日には歓声があがった。
 私の足元の階段はヨーロッパ人観光客グループが陣取っている。ドイツ語を話す比較的若い集団だが、アジアの島にきて聖地と言われるこの山で見る朝日は我々と同じように特別な意味があるのだろうか。
 6時40分頃から始まった太陽が作り出すドラマは大勢が見守る中見事にその幕を閉じた。一部始終を見て7時過ぎになると狭い階段は下山の巡礼者でごった返してきた。
 シーギリアでもそうだが、スリランカの観光地は命の値段が安いためか安全という視点の対策は遅れている。
 正直なところこの聖地も大きな段差のある階段のエッジに手すりはなく危険だ。事実我々メンバー一人も足を踏み外し落ちたが下にいた人に支えられて事なきを得た。
 人がいなければ大けがにつながっただろう。旅先での安全は自分自身で確保しなければならないが、スリランカの観光地は特にその注意が必要である。

 急ぎの下山者が一段落してから我々も麓の駐車場を目指して下り始めた。今度は階段を下りるだけだからスイスイだろうと思ったが、しばらくすると右足の膝に痛みが走り出した。この時、容易に下山できないと頭の中で不安がよぎったが、私より最長老のNさんがもっと心配である。

 
 一足先に降りてきたつもりだったが、途中の休憩所で17歳ギャルと助手のアジスが待ち受けていた。40分で下りてきたよ!という彼女はさほど疲れた様子もない。
 そこで彼女に後から下りてくる長老のサポートを頼んで再び歩き始めた。長老Nさんにはスリランカ常連のSさんがずっと付いてくれているので心強い。

 とにかく先に駐車場に戻って最悪の場合にそなえてガイドのアリさんに救援をお願いしようと黙々と下山した。
 暗闇を登ってきたので登山道の階段がどんな形状だったのかまったく判らなかったが、明るい山道を見下ろすとよくこんなところを登ってきたのかと驚きを覚える。
 その頃は交互に足を出すことができなくなり、一段ごと両足を揃えなければ下山が出来ない状態だった。自慢するほど健脚ではないが、山登りは嫌いではなく神戸の山も結構歩いている方だ。しかしこの膝の痛みは深夜の登山と寒風にさらされた為に冷えから来ていることが判る。
 
 しかし、駐車場までこんなに距離があったのだろうか・・行けども行けども山道は続いた。うんざりしたがやがて、だらだら下り坂の斜面に茶畑が見えるようになった。これで麓に近いことがわかる。ここまで来れば駐車場を目指せば良いだけだ。やがて土産物屋が多くなって歩き始めた地点が近いことが判った。
 橋を渡って見覚えのある警察署の前に来てようやくここが始点であることが判ったが、見覚えのマイクロバスが見つからない。
 あまり無駄に歩きたくないと思いながらも、手前奥の駐車場を見に行ったが車はなかった。喉の渇きを覚え警察署の前のホテル兼レストランに入りコーラを頼んだが、テーブルの汚れや椅子の汚さ、床の不衛生さで余計に疲れが増した。アジアの市場など汚い場所にはかなり慣れているつもりだが、疲れ果てた癒しの時間には不具合の場所だった。

 さあバスを探そう・・一番遠くの駐車場まで足を引きづりやっとバスを見つけた。同時にバス側からも敗残兵のように歩いて行く惨めな私を見つけたのかガイドのアリさんが迎えに来てくれた。時刻は宿を出てから12時間を経過し朝の10時過ぎであった。

 挨拶もそこそこに後から来るメンバーのためにバスを警察署の方に回して欲しい・・私は再び山門まで戻って後の組を迎えたいと伝え再びバスを離れたが正直なところ、ミイラ取りがミイラになるのではないかと感じた。
 
 駐車場から橋を渡ったところにその昔幼稚園だったという広場がある。このシーズン、スリー・パーダの警戒のために外部から応援に駆けつける警察官の待機所になっているそうで、談笑する警官の姿が見られる。この場所でみんなを待ったが立っているのが辛く、そばの石に腰を下ろしたが安定が悪くあまりに座り心地が悪いので再び立ち上がった。そのうち伝令役をかってくれたOさんが下山してきて後続組の様子が聞けた。まだ1時間はかかるとのことだ。

 ガイドのアリさんもそのうちやってきて警察官と一緒に談笑に加わった。それによると彼らは地元配属ではなく応援としてやってきたそうだ。
 何かあればあの山道を上がっていくの?とつまらない質問をしたが、その場合はすぐに出動する・・と自慢そうな返事が返ってきた。
 さらに聖なる山だから誰も警察のご厄介になることなどしないだろうと聞いたら、先日15人を拘束したという。面白いので何をやらかしたのかと聞いてみると、若者グループが薬物を使って意識朦朧となっていると通報があり山まで出動したという。お行儀の悪い連中がいることはいずこも同じである。

 更に質問が続く・・あの階段では転落する巡礼も居るだろうと聞いたらそれもあるが、レスキューは警察の仕事ではないという答えが返ってきた。事件であの山に駆け上がるのは相当体力が必要だ。
 山頂には毎朝のお勤めのために僧侶が多くいる。常駐しているのではなく毎日登ってきて巡礼が下山すると下りてくる日勤だそうだ。

 そう言えば足の痛みでカメのような歩みをしていた私を3人の僧侶が軽やかに追い抜いていった。これが勤務を終えて麓に帰る僧侶だった。健脚なら3時間程度の登山だ恐らく往復6時間・・いや熟練者なら5時間程度かもしれないが毎日の通勤としては厳しい修行だろう。
 這々の体で駐車場に着きマイクロバスを探していたとき、僧侶で一杯のワゴン車を見つけたが先ほどの勤めを終えた見覚えの僧侶が乗っていた。

 どのくらい待っただろうか・・かれこれ1時間を経過したとき、最長老のNさんとサポートチームの姿が見えた。見ると木ぎれの杖を持ってまるで水戸のご老公の凱旋のようだ。笑うわけに行かなかったが無事にここまで帰ればもう大丈夫だ。

 サポート役のSさんに聞くとかなりの疲労でフラフラして階段で前に転落することが一番気がかりだったようだ。しかし実際は後ろに転倒しそうで両脇を支えながらの下山になった。
 本人に聞いたら日常あまり弱音を吐かない人だが「これはきつかった・・」という感想だった。そりゃそうだ、17歳がキツイ!と悲鳴をあげたのだから当然だといえる。

 全員がマイクロバスに戻ったのは11時45分遅い昼食を求めてヌワラエリアのグランドホテルに戻ることにした。
 ホテルを出てから14時間・・。本来宿泊するはずの由緒あるグランドホテルは単なるスーツケースの預かり場所になってしまった。
 あの苦しい登山を終えたメンバーは意外とさわやかで、機会があればまた登ってみたいという感想だった。この山の秘められたパワーであることがわかる。
 ホテルの昼食は午後2時になったが、折角のヌワラエリアの町であり2時間の休憩後痛い足を引きずりながら再びヌワラエリアの町に買い物に行った。さすが長老は部屋で休んだが、その他のメンバーは結構しぶとい観光客であったようだ。
 
 単に思いつきで計画したスリー・パーダ巡礼ではなかったが、正直な思いはやはり行ってよかった、お参りできて良かったと思っている。
 数年前に経験した日本での四国八十八カ所巡礼や、西国三十三カ所観音経巡りはそれなりに苦労する寺院もあったが、徒歩以外に多くのお参りへの選択肢がある。
 しかしこのスリパーダはただ自分の足しか頼るものがない。そこには障害者への配慮や、お年寄りへの気配りなど微塵も見られない場所だ。
 その善悪を語るものではないが、自然というものや、あるがままの信仰の姿がそこにあり、この山には紛れもなく自分を見つめ直す力が限りなく込められているようだ。
 同じ仏教徒として巡礼を繰り返す現地の人たちと、無言の思いを共有している実感は今回の旅の特筆できる収穫だったと思える。
 もう一度挑戦したいか・・?この質問にはもちろん!と答えるだろう。      (2006.2長谷川記)