特別ゲスト寄稿・スリランカ夢紀行

 阪本光さんは、少女のような人です。小、中学校時代・・クラスメイトの中に一人は居たような、ひょうきんで明るい性格の持ち主が、そっくり大人になったような雰囲気を持っています。
 昔のことは知るよしもありませんが、実際は思いやり豊かな繊細な感情の持ち主で、あらゆる場面で気配りを絶えず欠かさない思いやりのあるキャリアウーマンです。
 日常の仕事をご一緒する機会はありませんが、過去3回も「インド洋が流した涙」といわれるスリランカを旅すれば人柄や考えていることがすべて出てしまうことから容易に想像できます。そしてここ数年同じ趣味のなかでご一緒すると、阪本さんに助けられる機会が多いのです。
 最近になって、以前スリランカに行った旅行記を見せていただく機会があり、おもしろいので私の記述とへ併行して掲載させて貰うことをお願いしました。
 家族のために書いたレポートだから・・との本人の弁ですが、私の目と異なる視点での記述はまた格別の味があります。
 私たちの旅は、特殊なものですが、それだけに単にツアーで島巡りをするだけではない面白さに溢れています。さあ、阪本さんの目から見たスリランカにご一緒しませんか・・・。               【スリランカの旅・・世話人、長谷川記】

スリランカ夢紀行
                   

JM3INF(4S7YJG)阪 本  光
「2001年スリランカの旅」編

目 次
第1章 プロローグ-2001年スリランカの旅
第2章 6月7日−出発の日
第3章 6月8日−免許申請
第4章 6月9日−無線運用と世界遺産(アヌラーダプラ)
第5章 6月10日−無線運用と世界遺産(シーギリヤとポロンナルワ)
第6章 6月11日−仏教都市キャンディ
第7章 6月12日−象の孤児院と晩餐会
第8章 6月13日−アーサー・C・クラーク先生
第9章 6月14日−日本
最終章 美しい島スリランカ

「2002年スリランカ再び・・・」編
☆ 番 外 編 − 2002年 スリランカふたたび・・・



第1章 プロローグ-2001年スリランカの旅

 私が初めて飛行機に乗ったのは、その年の夏が来れば39歳になろうかという今から2年前、1999年の事で、その時一緒に搭乗したメンバーから「え〜ッ!39にもなって飛行機に乗った事無いの!?」と言われてしまいました。その後に乗った回数も片手に余るくらいで国内線ばかりです。
 その私が今回6月7日〜14日(6泊8日、もう1泊は帰りの飛行機内)の海外旅行を初体験する事になったのは、JARL関西地方本部長の長谷川さん(JA3HXJ)が3年前から温めていた計画が3回目にしてやっと実現しそうだと言う事で、たまたま声を掛けて頂いたのがきっかけでした。

 初海外旅行先がスリランカと知った家族・友人・上司・同僚からは、「えっ!?何でそんなとこ行くん?」「普通初めての海外旅行やったらハワイとか香港とかもっとノーマルなとこに行けへんか?」とか「スリランカってどこ?」「そこって危ないんとちゃうん?」といろいろ言われました。
 初めての海外旅行という事もあって準備は、いちからでパスポートの申請やら買い物やら、特に細々した物を買い揃えるのに時間が掛かり結構大変でした。
 買うか借りるか悩んだあげくに旅行鞄は、会社の上司が貸してくれる事になりましたが6日間も会社を休むとあって有休を提出する時には、さすがに気をつかいました・・・

 出発直前の6月2日の土曜日、一緒に旅行するメンバーとの顔合わせも兼ねて旅行説明会が行われました。説明によれば---場所は、インドの東側にある北海道よりひとまわり小さい島で昔は「セイロン」と呼ばれ紅茶のセイロン・ティーの原産地。
 またインド洋の宝石とも言われ、その名の通りいろんな種類の宝石(ダイヤモンド以外)が採れる事でも知られている。自然豊かな森林、仏教美術や仏教寺院、王朝時代の遺跡などの世界遺産が7ヶ所もあり、人口の80%近くが仏教徒で日本との交流も古くからある---との事でした。
 しかし、第二次世界大戦で敗戦国となった日本の独立回復と国際復帰が早急に出来るようにサンフランシスコで行なわれた対日講和会議で唯一助け舟を出してくれた恩義のある国である事は、あまり知られていない事実です。
 旅行参加者は、団長の長谷川さんと奥さん、宮本さん、安孫子さん、海老原さん小永井さんご夫婦、武市さんご夫婦、出崎さんご夫婦、中浴さん、田中さん、池田さん、私の総勢15名で説明会の途中には、宮本さんの奥さんの乱入もありました。そんなこんなでスリランカ料理の辛さに慣れるべくカレーを口に運びながらも不安と期待にメンバー15人の胸は、高まる一方でした。

【写真:未知の旅行に盛り上がるメンバー

 その帰りに長谷川さんから現地へのお土産を頼まれ「なるべく日本らしい物を選んできてや」という注文もありこの品選びも買い物が苦手な私には、一苦労でした。
 翌日、偶然百貨店で開催されていた日本伝統展を見つけ羽子板のミニチュア5個と和紙で作った着物姿の人形2体を選び荷物と一緒にスーツケースに詰め込みました。

旅行説明会の時に手渡されたスリランカ旅行のおおまかな行程は、こんな予定でした。
6月 7日 − 大阪空港→成田空港→スリランカ(コロンボ)
6月 8日 − コロンボ→無線免許申請→ギリタレ
6月 9日 − アヌラーダプラ
6月10日 − シーギリヤとポロンナルア
6月11日 − ギリタレ→仏教都市キャンディの仏歯寺
6月12日 − キャンディ→コロンボの夜
6月13日 − アーサー・C・クラーク先生訪問→帰国

 安孫子さんから借用した『地球の歩き方−スリランカ編』に目を通して“今回、世界遺産って何ヶ所みれるんやろ?”“泊まるホテルは、どんなんやろ?”“当日の朝、ちゃんと起きられるかなぁ”“忘れもん、無いやろなぁ・・・”とワクワク、ドキドキ、ハラハラしながら気がつけば旅行前日の夜になっていました。


第2章 6月7日−出発の日

 まだ薄暗い早朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めました。“外国へ行く”という緊張と“旅行に行ける!”という期待とであまり眠れず、眠い目をこすりながら蒲団から出たのは5時でした。
 伊丹空港に7時集合で公共交通機関を利用すると自宅を5時半には出発しないと間に合わないので“ちょっと贅沢かな?”と思いながらも前日から6時に予約しておいたタクシーに乗り込み空港へ向かいました。
 まだ空いている道路を快調に走り空港に着いたのは6時半過ぎ“まだ誰も来てないだろうなぁ”と思いつつ回りを見渡せば前方で手を振る人が・・・よく見ると一番遠いはずの海老原さんでした。
 京都市内に住む海老原さんも公共交通機関を使い大阪空港に7時に来るのが難しいと格安運賃で有名なMKタクシーを予約し2千円で来たのだとか。尼崎在住の私でさえ4千円以上掛かったと言うのに・・・しかも高速を使ったので6時過ぎには着いていたのだそうです。恐るべしMKタクシー!

 そうこうしている内にメンバーも集まって来ましたが7時を過ぎてもマイカーで向かっているはずの宮本さんと出崎さんご夫婦が来ない!「どうしたんだろう?」と携帯に電話しても通じない、ご自宅に電話を入れたら奥さんが「6時半頃に出ましたけど・・・携帯は持って行ってないんですよ」との事で連絡もつかない。
 「なんぼ近いゆうても6時半じゃあ遅いわな〜」とヤキモキしながら待っていると8時前、宮本さんが息を切らして飛び込んで来ました。なんと高速が事故渋滞で動かず本人達が一番あせったのは言うまでもなく、車の中で「新幹線で成田に行くには・・・」と真剣に飛行機に乗り遅れた時の対策を練ったそうです。
 本当に間に合って良かった!なんとか無事に全員が集合して荷物の検査も終わり搭乗口へ移動して行くと私たちが乗るANAの飛行機が見えてきました。オ〜ッ!!ピカチューが画いてある!なんか幸先がいいような気がしたのは、私だけだったのでしょうか?

 しかし着陸してからも「どこまで行くの?」と言うくらい滑走路を走り続けること十数分、発着ゲートの壁に『78』と書かれた空港の片隅にやっと到着しました。「73(セブンティ・スリー=無線用語でさようならの意)やったら良かったのにな」などと言いながら飛行機から降りるとバスとモノレールで国際カウンターのある棟へ移動。“なんか判れへんけど成田ってすごい!”と思いながら重い荷物を引きずって広い空港内を移動し国際カウンターに到着しました。

【写真:ピカチューに守られ成田空港へ到着】
珍しさもあってキョロキョロしているところへ長谷川さんから集合がかかり「え〜、スリランカ行きの出発時間は、13:20です。
 集合時間までは、各自自由時間とします」との事。“エ〜ッ!?3時間以上も待つの?”と初めは戸惑いましたが軽食をとったりしている内に早々と集合時間になってしまいました。急いで集合場所に戻りスリランカン航空のチェックカウンターで出国証を書き終えると荷物の検査が始まりました。
 私の荷物には、スリランカでの無線運用のための電源が入っていました。荷物を眺めていた女性検査官がおもむろに「これは、何ですか?」と聞くので“来たな!”と思いながら持ち上げている箱を見ると、それは・・・「スリランカ政府観光局主催で開かれるレセプションには正装で」という事だったので奮発して買った洋服の箱でした。

【写真:荷物検査−私が手に持っているのがドレスの箱】
 「ああ、それはドレスです」という私の言葉に検査官が「ドレス・・・ですか?」と不思議そうに聞き直すので「ええドレスです」と答えると「スリランカにドレスを持ち込まれる方は、初めてです・・・結婚式でもなさるんですか?」この言葉に周りで面白可笑しく見ていたメンバーからは、「ほんなら、はよ相手探さな!」「現地調達か?」とドッと笑いが起こりました。結局、一番心配していた電源には、触れられる事もなく荷物検査は終了しました。

 出国のチェックを終え、カウンターを入ったところで「もうここは日本とちゃうで」「ほら!あこがれの免税店やよ♪」の言葉に周りを見渡すと華やかなお店がズラリ。お酒・たばこ・香水・化粧品etc.お酒が安いのは判る!でも化粧品・アクセサリー・カバン類まで本当に安いのかどうかよく判らないし聞いた値段は、“安い!”と手放しで喜べるような値段ではありませんでした・・・
【写真:スリランカン航空機】 
やっとの事でスリランカン航空の飛行機に乗り込みいよいよ出発!日本人もチラホラと座っているようでした。しかし空席の多い事、ひとり一列って感じです。また機内は、喫煙OK(但し一番後席のみ)とくれば喜んだのが武市さんと田中さんでした。でも今時、禁煙じゃない乗り物って珍しいですよねェ。シートベルト着用のサインが点燈し、これから長〜い空の旅が始まります。
 
 スリランカまでのフライト時間は、直行便で8時間半から9時間ほど、日本との時差は3時間あります。飛行が安定したらすぐ食事(昼食)“さっき空港でおソバを食べたばかりなのに・・・”と思いながら配られたメニューを眺め客室乗務員が来るまで悩んだあげく魚ならと「フィッシュ、プリーズ」とオーダーしました。
 味付けは、甘辛くて濃く、魚の切り身も大きいのが2切れも入っていて、とても食べきれる量ではありませんでした。でも水分ならとスリーコインと言うスリランカのビールを飲んでみました。軽くて飲みやすいビールでこれからの旅行中にビールと言えばこのスリーコインかライオンビールを飲む事になるのです。
 
 フライトも順調に進み、後1時間もすれば到着と言う時に今度は夕食の時間になってしまいました。飛行機内で動く時と言えばトイレに行くぐらい、よってお腹もすかないので定期的に来るこの食事時間は、帰りの機内を含め少し苦痛でした。
 飛行機のモニターにチラチラと明かりが見えてきました。“船?それとも・・・”と思うほど疎らで町の灯りだと分かるのに時間が掛かり、空港に近付いても日本の空港とは比べものにならないほど明かりが少なく暗いイメージを受けました。
 「どこが飛行場やろ?」「大丈夫かいな、どこに滑走路あるか、わかるんかな?」と窓を覗き込んでワイワイ言っている内に無事着陸し飛行機を出ました。タラップを降りるとそこは地面「ワーイ♪直接飛行場の地面に降りるのって初めて!」と一人喜ぶ私を残してメンバーは、サッサとバスに乗り込んで行ってしまいました。
 寂しい気持ちで私もバスに乗り込むと日本人・外国人が大勢乗っていて“なんや旅行者が少ないって結構来てるやん”と思いながら到着ロビーに入りました。でもそこに入って来たのは、私たち16名とスリランカ人と思われる数人の人達だけ・・・「あれっ?!今までおった人たちは?」と聞くと「乗り継ぎでモルジブに行く観光客やて」との事、またもや寂しい気持ちになってしまいました。

【写真:長谷川さんの免許証到着!】

 到着ロビーで指示を待っていると一枚の紙が届きました。それは長谷川さんのスリランカでのアマチュア無線免許証でした。
 コールは「4S7YHG」残りのメンバーは、明日の申請となっているため、この旅行中に発給されるかどうかと言うあやふやなものでした。「とにかくこれで運用はできる」「Yが付いてるからクラブ局で運用できるんとちゃうん」とか・・・まあ冗談が言えている間は大丈夫と入国カウンターを出ると、まず目に留まったのが昔懐かしい炊飯器・冷蔵庫・ポット等の家庭電気製品。20年ほど前に日本で使っていたような製品が新品でショーケースに並んでいました。
【写真:コロンボ空港−到着ロビ
 飛行機から荷物も着き出口で荷物検査が始まりました。スリランカでは、近年タミル人によるテロ事件が多発しており日本の外務省から発表されている渡航危険度も高く、特に爆発物による自爆テロなどが多くなったために厳戒態勢がひかれています。
 とは言うものの個人の荷物は、開けられる事も無く通過しロビーへ出られたのに長谷川さん達なかなか出てこない。 “まさか・・・?”のイヤな予感的中で無線設備一式を運んでいた田中さんが引っかかったとか、何でもアンテナを入れた2mくらいの箱が不審だったらしく止められてしまったらしいのです。「しょうがないなぁ〜」と待つこと1時間、やっと出てきた3人と無線設備一式、3人共「やっぱり引っかかったよ・・・」と疲れた様子でした。
 先程受け取ったばかりの政府発行による長谷川さんの運用許可証が手元に有った事も幸し、なんとか1時間で荷物共々スリランカ入り出来たのでした。

【写真:旅行中、大繁盛した両替屋さん

 他の人達は、と言うと1時間の待ち時間の間にちゃっかりと日本円からスリランカルピーへの両替を済ませていました。私も2万円を両替しましたが、スリランカルピーで14,630ルピーとなり手渡された札束で、お金持ち気分を味わえました。実際に月給が6千円〜9千円、エリートでも2万円前後という現地の人にしたら本当にお金持ちなのです。お札の種類は、1000・500・200・100・50・20・10で硬貨は、5・2・1、その他にセント硬貨などが有るそうです。

 田中さんは、高額なお札の1000ルピーは、殆んど使い道が無いと聞いていたらしく、全てを100・50・20・10に両替したため膨大な札束となり更に金持ち感覚を味わったようでした。その後、バスの中で両替商を開業し「QHQ〜、頼むわ1000ルピーを100ルピーに換えてぇなぁ」「チップ用の50ルピーが無くなったからQHQに換えてもらお〜っと」となかなか繁盛していました。
 全員スリランカ入りを果たしたのが9時前、日本時間で言えば夜中の12時になろうかという時間、ガイドさんに案内され観光バスに向かいました。途中自動小銃を肩からさげた兵士が大勢警備をしていて初めて見る光景
に“本当に外国に来たんだなぁ〜”と言う実感が沸々と沸いてきました。

 旅行カバンを運んで何とかチップを稼ごうと近づいて来る人々を避けながらしばらく歩くこと2〜3分、私たちがこの旅行でお世話になるバスが見えてきました。“あれ?どこかで見たような(西武バスのレオマークがないだけ)バスだなぁ”と思いながら乗ろうとドアを見ると何の違和感もなく【自動扉】と漢字で書いてあり運転席に【泥はね注意】【一旦停止】とか、座席には【窓側・通路側】と書いてあるのには笑えました。

 実は、あまりにも違和感が無かったのでその日には気が付かなかったのですが・・・バスのステップをあがり、ガイドさんから首に花輪をかけてもらって後方の座席に座りました。クーラーの効いたバスは快適です。全員が座席につきバスが動き始めたところでガイドさんの自己紹介がありました。この旅で1週間お世話になるガイドで日本語ベラベラのアリさんと、バスのドライバー1名・アシスタントが2名でした。後で聞いたところアシスタントの内、青年1名は、池田さん(車椅子)の補助のために同行したようでした。気持ちがハイになっているメンバーを乗せ深夜の暗い道をバスは、走りだしました。

 「スリランカの首都は?」と聞かれると殆んどの人が「コロンボ」と答えますが、本当は『スリー・ジャヤワルダナプラ・コーッテ』と舌を噛みそうな長い名前です。長谷川さんいわく「現実的に首都といえば言えば、ほぼコロンボだけどな」とか。
 旧国会議事堂付近が首都という名目になっているそうで、もともとコロンボが首都でしたが、イギリスから独立した際にその時の大統領ジャヤワルデネ氏権下に国会を移した事で、この『世界で一番長い名前の首都』となったらしいのです。またジャヤワルデネ氏は、敗戦国となった日本の独立回復と国際復帰を1951年9月にサンフランシスコで行なわれた講和会議の際に進言してくれた人物で、来年の2002年には、日本との国交50周年を向かえます。

【写真左:象の置物】
       
 コロンボの街中を通り“こんなビルも有るのか”と思うような高層ビルの立ち並ぶオフィス街を抜け第1日目の宿泊先『TAJ SAMUDRA HOTEL』に到着しました。
 これがまた立派なホテルで正面は、インド洋というシーサイド・ホテル、入口に石で造られた象の置物があり異国情緒を感じさせます。また目に止まったのは、ホテルの玄関に掲げられていた『日本からのアマチュア無線家を歓迎する』という旨を書い旗でした。た旗でした。ひとしきりその旗や象の置物をバックに記念撮影をした後、ロビーに入るとウエルカムドリンクが手渡され、歌声(スキヤキソング)の流れるラウンジに入りました。

 チェックインに行ったアリさんを待っていると突然ボーカルの女性が「ハッピー・バースディ・トゥー・ユー」を歌い始めケーキが運ばれてきました。何事かと見守っていると、そのケーキが小永井さんの目の前に置かれるではありませんか!今日は、小永井さんの誕生日だったのです。驚きと感激とで初めは、引きつっていた小永井さんも目の前のケーキを切り分ける時には奥さん共々嬉しそうでした。 しかしこの旅行で小永井さんは、シオ爺ならぬ「コナ爺」と呼ばれる羽目になってしまいました。【写真:コナ爺の誕生日】


 チェックインを済ませたアリさんがルームキーを持って戻ってきました。今回の旅のホテルは、すべてツインで押さえてあり2人1部屋が原則でした。ご夫婦は、何の問題もなく1部屋、宮本さんと海老原さんが1部屋、中浴さんと田中さんが1部屋、安孫子さんと池田さんが1部屋。必然的に女性1人で参加した私がツインを1人で利用できるという恵まれた環境となりました。部屋は広く、ベッドもセミダブルが2つ並んでいて良い部屋だということが判ります。時計は現地時間に合わせたので午前1時を回ったところです。明日も早いし、日本時間にしたら朝の4時、シャワーもそこそこにベッドにもぐり込みました。


第3章 6月8日−免許申請

 朝、鳥の声で目が覚めました。時間は6時、“ここは・・・?そうそうスリランカに来てるんや”と寝ぼけた頭を覚ますべくシャワールームへ。
 バスタオルを巻いたまま窓から外を見ると靄に浮かぶコロンボの街が朝日に照らされていました。私の居る部屋の窓から見下ろす風景は、町並で所々に突き出した寺院の屋根に異国情緒をしみじみ感じながら朝食までの時間を部屋でボ〜ッと過ごしました。(長谷川さんの部屋は、インド洋側のシーサイド・ビューで景色もすばらしかった!)朝食は、バイキング(ビュッフェとも言うのかな?)型式でパン、ご飯(カレー用)、サラダ、ウインナー、卵、果物、もちろんスリランカカレー等が並び珍しさも手伝って、あれもこれもとお腹一杯になるまで食べてしまいました。特にこのホテルのパンは、美味しかったです。【写真:朝日に輝くインド洋】


 旅行目的のひとつが『現地でのアマチュア無線運用』で今日は、そのための免許を申請しにテレコミュニケーションに行く日です。
 集合場所のホテルロビーからメンバーが集まるまでに、と写真を撮りに外へ出たものの赤道直下の熱気とインド洋の湿気がすごくカメラのレンズが曇ってしまい写真を撮れなくなり早々にクーラーの効いたロビーに引き返しました。またインド洋の砂浜と道路の間には、侵入者を防ぐためなのか、延々とフェンスが張り巡らされており広い海岸には、人っ子一人見受けられませんでした。のんびりとした風景の中にも緊張があり、間近でインド洋の波打ち際を見る事は出来ませんでした。
 出発予定時間をとっくに過ぎ、コロンボ市内にあるテレコミュニケーションに向かうため荷物共々、昨日のバスに大慌てで乗り込みました。落ち着いてくると、なぜか昨日二人いたアシスタントが青年一人になっている事に気が付きました。もう一人は、空港で多量にある私達の荷物をバスに積込むために同行していたようです。

【写真左:コロンボの渋滞】 【写真右:土管【ヒューム管】

 ホテルを出たところで大渋滞に引っかかってしまいバスは、ノロノロ運転を強いられてしまいました。不幸中の幸いでゆっくり走ればそれだけ町中が観察できる、そう思った時に目に飛び込んできたのが見慣れた土管(下水道管)です。なんと鉄筋コンクリート管のB形管が転がっているでは有りませんか!思わずシャッターを切っていると「なにを撮ってんの?」「土管なんか写してんの?仕事熱心やなぁ」と呆れたような声が聞こえてきました。しかし、“こんな布設の仕方で大丈夫なんやろか・・・?”と心配になるぐらいええかげんな工事でスリランカの下水道普及は、まだまだ先の事になりそうです。

【写真:ボロボロの車】

 それにしても渋滞のため道路に溢れかえっている車がユニーク!左側通行と言う事もあって右ハンドルの日本車がたくさん走っています。殆んどと言っても良いくらいでトヨタ・日産・ホンダ・ダイハツ・スズキ・イスズなど何でもあります。
 スリランカでは、中古車と新車で税率が、ぜんぜん違うそうで税金の高い新車は、殆んど目につきません。何とも懐かしい車(かなりの年代物)やら、もう生産されなくなった車種、ボロボロでサビサビの「まだ走るんやろか?」と思うような車などや日本で使われていたそのままの車がたくさん走っています。
 たとえば、○○幼稚園《入園募集中!》と書いたマイクロバスとか、××病院と書いた救急車、□□建設と書いたダンプ、△△引越センターと書いたトラックやら「あっ、あれも!」「これも!」と言うぐらい走っているので車を見ているかぎりでは、「いったい、ここはどこ?」と錯覚してしまうほどでした。

 
キョロキョロと街中を観察しているうちに白い4階建てのテレコミュニケーションの建物に到着し、長谷川さんと今回免許を申請する9名は、厳しい警戒態勢の中を3階の部屋に通されました。申請を受けるもう一人の池田さんは「車椅子で渋滞している道路を横断するのは困難」と言う事でバスで留守番となりました。 そこでバスで待つ池田さんとの伝令役として白羽の矢(?)が当たったのが私でした。厳戒態勢の建物を出て渋滞している道を“今だ!”とばかり車と車の間を擦り抜けて横断するのですがチョット運動神経に自信がある私は、少しの隙間を見つけては走って渡っていました。
【写真:スリランカテレコム】

 書類に池田さんのサインをもらいに行ったときの事、アリさんか近寄って来て「ヒカルさん、おねがいがあります」と真剣な眼差しで見つめるので「何ですか?」と聞くと「おねがいだからシンカンセンのようにドウロをわたらないで・・・」と言うのです。バスに残っていたメンバーによると「この道路をよく一人で渡れるわ・・・」「あ〜こわ!よーやるわ」とハラハラしながら見ていたのだそうです。
 余談ですが、免許申請中、待機しているバスの中では、美空ひばりさんの曲が流れていました。聞くところによるとアリさんは、日本に行った時に聞いた演歌が好きになり、特にひばりさんの歌がお気に入りで時間が有ればカセットを聞いているという事で、まさかスリランカで演歌を聞くとは思いもしませんでした・・・

 書類の不足もありアシスタントの青年が、コロンボまで三輪自動車のタクシー(バジャジー)を使い書類を取りに行かなければならないというアクシデントもありましたが待つ事1時間全員に運用許可がおり「これで無線が出来る!」と歓声があがりました。旅行前からの事前交渉もいろいろ大変だったようですが、その甲斐あって早期発給に至ったようです。入国後1日(数時間)で、しかも一度に10名もの免許証を発行したのは、スリランカ始まって以来の事だったそうです。

【写真:申請書類にサイン】

 また発給される呼び出し符号のラストレター『G』は、ゲスト(Guest)の意味で本来イニシャルにGをつけたものが発行(4S7YHGの長谷川良彦さんを例に取ると、Y−Yosihiko.H−Hasegawa.G−Guest)されるのだそうですが当日受付という事もあって希望のコールを頂ける事になり、日本のコールがINFの私は、INGも考えましたが周りの意見もありYL(無線用語で女性を指す)Gで申請してみました。
確認とチェックのため別室で一人一人面接を受け、書類にサインをし終わりましたが、大量にある10人分の申請書類チェックと発給処理に時間が掛かると言う事で、先に昼食を取りに行く事になりました。

【写真:錦城の看板】
 少し渋滞もおさまった道路を横断してバスに戻り、いざ昼食へ!しかしこの後、始まるカーチェイスには、皆あっけにとられました・・・走り出したバスは、クラクションを鳴らしながら渋滞の車の中を猛スピードで駆け抜け始めました。対向2車線の道(もちろん人も歩いているし自転車も走っている)でゆっくり走っている車をバスがスレスレに追い抜くとその横をもっと速い車が追い抜いて行く・・・窓越しに下を見ると車とバスの隙間を人が歩いていたりするのです。バスの中は「ひぇ〜」「え〜ッ!?行くかぁ?」「うゎ、コワ・・・」と声にならない悲鳴に包まれました。  手に汗を握り到着したレストランは『KINJOU』と言う中華料理店でした。“スリランカに来て中華料理とは・・・”と思いましたが味は、まずまずで申請受理のお祝い気分もありビール瓶の数もみるみる増えていきました。

【写真:中華料理で昼食】

 お腹も一杯になったところでテレコミュニケーションにまたもやカーチェイスをしながら戻り、今度は長谷川さんと世話役んの2人だけで事務所に向かいました。
 数分後戻ってきた長谷川さんの手には、10名分の免許証が握られていて晴れて11人全員の運用許可書が揃ったのです。
 ところで私の手元に来た免許証の呼出符号は『4S7YJG』でした。希望したYLGは、すでに発給済みでYJGになってしまったのです。しかし「YJGでもよかったやん!」「そらぁ〜声出す時は、(Young)ヤング!(Japan)ジャパン!(Girl)ガール!って叫ばなあかんで!声だけやったら、年わからんもんなァ〜!」と皆には、結構ウケ(?)ていました。トホホホホ・・・ 
 
 今回発給されたメンバーの呼出符号は、長谷川さんがYHG、宮本さんがDBG、安孫子さんがGXG、このサンドイッチコールを聞いて上手を取ったのが海老原さんでGGGのトリプルコール、武市さんがIJG、田中さんがQHG、中浴さんがUJG、コナ爺がCHG、奥さんがVEG、池田さんがDUG、私がYJGで今後1〜2年以内に再申請をすれば大抵同じコールが頂けるそうです。旅行出発前に申請手続きを終え規定通りのコールを発行された長谷川さんは「君らは、運が良いよ・・・好きなコールは貰えるし・・・」と少し羨ましそうでした。

 受け取ったばかりの免許証を握り締めて運用予定地でもあるギリタレへ向け田舎道をカーチェイスしながらの移動が始まりました。
 さっきまで前の方に座っていた田中さんが「も〜前に居ったら怖〜てあかん・・・足踏ん張りすぎて筋肉痛になりそうや」と、後部座席に移ってきました。
 道すがら露店の果物屋さんが所々に出ており、珍しさも手伝ってバスを止めて、どんな果物が並んでいるのか見に行きました。長谷川さんが買った真っ赤で毛の生えたスリランカのライチ、美味しかったなぁ〜

【写真:真っ赤なライチ】

 ギリタレへ行くのは、結構長時間の移動になり、すごく大きなガジュマルの木が近くにある湖のほとりのレストラン(?)に休憩で立ち寄ったりしながらバスは、順調に走り続けていました。
 日が落ちて辺りが薄暗くなったころ、疲れとバスの揺れも手伝ってウトウトしていたら急にバスがスピードを落とし停車したのでフッと我に帰りました。“どうしたんだろう”と外に目をやると暗闇の中、野生の象(今後は野良象と言う)が木の陰にいました。“お〜っ!でかい!!こんなノラゾウが家の近くをウロウロしているのか”と思うとチョット怖いような、楽しいような不思議な気持ちになりました。

【写真右:化けた長谷川さん

 とっぷり日も暮れてギリタレのホテル『DEER PARAK HOTEL』へ到着、サリーを着た女性と太鼓の音に迎えられ一人一人油皿の芯に火を灯し(歓迎の儀式らしい)ロビーらしき所へ案内されました。そこは、吹き抜けになっておりフロントの後ろが事務所で、その一部分以外に壁が無く数本の柱が天井を支えています。
 取り敢えず説明を待つ事にして籐の椅子に腰掛けました。荷物を部屋に置いてから夕食を取る事になり先にアリさんが、一枚の木の葉と一緒にルームキーを配り始めました。(その葉っぱをおでこに貼り付けて化けた長谷川さんを激写!何に化けたかは、ご想像にお任せします)

 ロビーから出て辺りを見渡せば広い敷地を持つホテルの部屋は、すべてコテージで一戸建となっていました。案内された部屋の中に入ると奥にリクライニングチェア−と机、裏へ出られるドアがもう1つあり、ベッドの前にもテレビを置いた広い机と椅子があって20畳ぐらいありそうな感じです。お風呂は・・・と覗き込んでまたビックリ!ここも10畳ぐらい、洗面所の奥にトイレ、バスルーム、それとは別にシャワールームが有ってそこには本物の木が植えてあるし、なんと贅沢な!
 
 スリランカでの無線運用期間は、このホテルに宿泊する3日間の内9日・10日の2日間で、わざわざこの無線運用のために連泊を希望したのです。
 食事前に無線基地となる部屋を決める事になり数人で歩き回ったところ、アンテナを立てられる条件と部屋の住人の条件が一致したのが2階建ての1階2部屋で109号室と110号室。無線運用部屋も決まった事だしと食事に向かいプール脇にあるレストランに集まりました。

【写真:暗闇のアンテナ設営】
 食事の後、109号室に行ってみると仕切られていた壁が一部取り外され110号室とつながっていて行き来ができるようになり、こりゃまた好都合です。真っ暗の中、外に出てアンテナの設置を始めたものの、あまりの暗さに断念して、明日早朝に設置すると言う事になり各自自分の部屋に戻りました。
 このホテルのご厚意で宿泊する部屋以外に無線専用として1部屋別に用意してありました。このために109号室に運用責任者に任命された池田さんが1人、つながっている110号室に宮本さんと海老原さん、そのコテージの2階は、小永井さんご夫婦と出崎さんご夫婦と言う事になっていました。無線専用になるはずだった部屋に中浴さんと田中さん、プール横のコテージに安孫子さん、ず〜っと離れたところに長谷川さんご夫婦、私は103号室で隣が武市さんご夫婦という組み合わせで8日から11日までの3泊をこのリゾートホテルで過ごすのです。とにかくホテル内の道を早く把握しなくては・・・方向音痴には、辛いホテルです。


第4章 6月9日−無線運用と世界遺産(アヌラーダプラ)

【写真:アンテナ設営中】
 翌朝6時、109号室に行ってみるとやけに静かで呼び鈴を押すと結局無線したさで昨晩のうちに50MHzのアンテナをあげて深夜まで交信をしたらしく眠そうな池田さんが顔を出しました。メンバーが集まらないので待つ事数分、ぽつぽつと集まり始めたところで、ようやくアンテナの組立が始まりました。しかし流石に無線の達人が揃っているので『朝飯前』の名のごとく着々と作業は、進んでいきました。ワイワイとアンテナを組み立てていると隣の敷地から何やらこちらを窺っている人達がいました。
 
 日本でも移動運用に行くと一般人から「あの人達は、いったい何をやってるんだろう?」と言う目でよく見られるので、その程度だろうと思っていたのですが、なんと隣の敷地は、政府の軍用地で我々の行動を不信に思い警戒し監視されていたのでした。もうひとつ警戒している者が木の上にいました。家族連れのお猿さんです。スリランカには、顔の黒い猿と顔の赤い猿の2種類が生息していて、このホテル近辺は、顔の赤い猿が分布しているようでした。
  
【写真:脳震盪の小鳥】
 なんとか無線設備の設置も一段落し安孫子さんと朝食に向かいました。プールサイドを横切りレストランの方に目をやると、川蝉のようなブルーというか青緑というかきれいな鳥が地面にうずくまっていました。近づいても動こうとしないので“どうしたんだろう・・・病気かな?”と心配になり、レストランに連れて行く事にしました。

 レストランに入るとチーフのような男性が「どうしましたか?」(と言ったと思う)と近寄ってきたので手のひらの鳥を見せたところ「この鳥は、朝日の光線のためガラスが見えずに激突して脳震盪をおこしていますが、しばらくすると元気になると思います」(安孫子さん通訳)と奥からダンボールの箱を持ってきてその鳥をそっと入れてくれました。
【写真右:リス】
 テーブルに着いて朝食を食べていると元気になった鳥が外に飛び出していくのが見えました。“あ〜よかった♪”と思ったところに先程の男性がパンを持って手招きをするので行ってみるとパンをもらいにリスが数匹近寄って来ました。パンをちぎってさし出すとスルスルっと降りてきて両手で受け取り木の枝まで持って帰り食べている姿がとてもかわいらしかったです。
 朝食も終わり観光チームはフロントに集合、無線チームの田中さん・中浴さん・池田さんは別行動です。これからの2日間は無線チームと観光チームに分かれての行程になります。
 
 今日の観光は、アヌラーダプラの寺院や遺跡見学で、まず訪れた仏教寺院にある1世紀頃にインドの王の妹が隠し持って来たというお釈迦さま由来のスリー・マハー菩提樹を見に行きます。駐車場から菩提樹のある寺院に行く途中でお供えの蓮の花を買い、アリさんからスリランカでのしきたりに従い寺院に入る際には裸足、短パンにミニスカート(誰が着るねん!?)はダメ、仏像の前では帽子をとる、仏像にお尻を向けて撮影しない等々の説明を聞きいざ寺院内へ!

【写真:お釈迦様伝来の菩提樹】

 大きな門をくぐり、運動会の国旗のように飾られた色とりどりの旗の下を歩いて行くとひとつの建物の前で「ここでクツをぬいでください。ソックスはOKです」とアリさんから指示がありました。
 裸足で歩く事など殆んど無くなって足の裏が軟弱になったのか素足で歩く地面の熱いこと!「アツツツツッ!」と騒いでいるのは、我々日本人だけでした。枝葉の広がった菩提樹は、およそ樹齢2000年と言われ大切に白い壁で覆われ、その壁に張られた紐に奉納されたらしい沢山の布がつけられ信仰の厚さが感じられます。
 しかし悲しい事に、長年に渡り人々がお参りで捧げた水が菩提樹の根を腐らせかけており枯れそうになっているとか。 すでにインドの菩提樹は、枯れてしまったらしく唯一残っているお釈迦さま由来の貴重な菩提樹という事でお祭りの時以外、一般人・観光客の立入が禁止になっていました。
【写真:献花】
 
 その菩提樹の横に建つ寺院に数体の仏像があり、先ほど買った花を一人一輪ずつ供え、これからの旅の安全や家内安全などを祈ったのでした。仏教寺院とはいえ、同じ仏教民族の日本と建物も仏像も違い“同じ宗教でも国が変わればこんなに違うんや・・・”と実感しました。そのころになってやっと足の裏に伝わる砂の熱さにも慣れてきました。

【写真:ワンウェリ・サーヤ大塔】 
寺院跡の隣接する広場を抜けて訪れたルワンウェリ・サーヤ大塔は、目もくらむほど真っ白で巨大なダーガバ(仏塔)です。
 まだ仏像などを祭る風習が無かった頃に信仰の象徴であったダーガバの丸い部分は、現世を現しており、そこから突き出した塔の部分が天界を現しているそうです。その建物を囲む壁には、立体的な象のレリーフが何十頭も整然と飾られていてダーガバを守っている、といった感じでです。青い空に真っ白なダーガバが、すごく印象的で心が洗われるような感じがしました。

 【写真:ムーンストーン】
 次に向かったクイーンズ・パビリオンの建物跡にムーンストーンと呼ばれる柵で覆われた美しい半円型の石がありました。アリさんに「このなかにえがかれているドウブツは、なにかわかりますか?」と聞かれて覗き込むと円心状に区切られた層の外側に象・馬・ライオン・牛、その内側にアヒルのような鳥が描かれていました。

【写真:アバヤギリ大塔】

 アリさんの説明によれば、いちばん外側には、炎が描かれ人間界に渦巻く欲望を表しており、その内側の象が誕生・馬が老い・ライオンが病・牛が死を意味し生命力とか輪廻を意味します。花の輪は、やさしさや愛する心、アヒルのような鳥は、ソンと言われ純潔を表し人が生きていく意味を説いています。一番内側には、蓮の花が描かれ天国を意味しており人は、死ぬとそこに辿り着くという事を一つの石に表している、と言う事でした。その石が持つ深い意味を思いながら、しばらくその石を眺めていました。
 その後も一つの山のように緑の草木が茂ったアバヤギリ大塔(崩れかけた半分に足場が組まれて修復中)やさしいお顔のサマーディ仏像などを見学しました。

 また海のように広大な人造湖に寄った際に、勧められてジプシーの少女に占ってもらいました。もう終わっているもののPoya-Dayと言われる満月の大きなお祭りがあったので、たまたまこの付近に代々占いを受け継ぐジプシーが滞在していたそうです。【写真:占い中】

 アリさんに通訳をしてもらった占いの内容とは「大器晩成型、仕事は、できる方でその事を人に妬まれる事もあるが、それなりに成功する」らしい。笑えたのは「結婚は一度、子供は二人」ほんまかいな?!しかも「長生きします」というので「何歳まで?」と聞いてみると「70歳」との答え“あんまり長生きとは、言えへんなぁ”と思いましたがよく考えてみると長寿国日本のように医療が発達していないので“こっちで70歳というと長寿なんだろうなぁ”と思い直しました。
 
 バスの中で占いの結果をネタに騒いでいると果物を売っている露店が見えてきました。「寄ってみよう」とバスを道端に停め店先に行ってみると色とりどりの果物が並べられていました。
 その店には、父親と小学生の高学年くらいと幼稚園くらいの男の子と母親に抱かれた幼児の5人一家族が居ました。果物を買ったり写真を撮ったりしていると一番年上の男の子が「スクールペン」「スクールペン」と言っているので“なにをゆぅてんねやろ?”とよくよく聞いてみると、スクールペンとはボールペンの事らしく安孫子さんが持っていたボールペンを差し出すと満面の笑顔で喜んでいました。

【写真:果物屋さんの家族】
 どこに行っても子供たちは、ボールペンを欲しがるし、すごく喜ぶので「今度来る時は、ボールペンよーけ持って来なあかんなァ」と宮本さんが言った言葉に全員頷きました。そこで、パッションフルーツやジャック・フルーツなどを買い込みホテルへの帰路につきました。
 観光チームが出掛けている間、無線チームが何をしていたのか?というと取りあえず朝食を済ませ部屋に戻り設置を完了させ運用していたらしいのですが、電波の状態も良くなくQSO(交信)があまり出来なかったようです。
 夕方になって無線運用部屋に観光から戻ったメンバーが長谷川さん・宮本さん・安孫子さん・海老原さん・コナ爺と一人、二人と集まりはじめました。その頃になって今まで聞こえなかった電波が、やっと聞こえ始め「これから!」という時に遊んできたメンバーにおいしいところを持って行かれてしまったり、夕食で中断したり、と思いのほか交信数が伸びない無線班でした。しかし「今晩と明日が、あるさ!」と余裕しゃくしゃくです。
【写真:カレー料理講習】
 バスを降りた後、長谷川さんから「夕食の前にカレーの作り方料理教室をするから集まってください」と連絡があったので指定場所に行くと卓球台の置いてある半地下の部屋で3人のシェフがレンガで作ったコンロと材料を用意していました。
 段取りも終わり、さっき長谷川さんが買ったジャック・フルーツを具に講習が始まりました。真剣な表情でシェフの手元を覗き込んでいるように見えたのか「光ちゃん、直接教えてもらいぃな」と長谷川さんに言われ土鍋の前に立たされ、おたまを渡されました。
 「花嫁修業やで」「ちゃんと覚えて日本に帰ったら食べさしてや」と期待されているようですが、シェフの指示とおり土鍋の中に横に置いてある材料を入れていただけで、実のところ何をいつ入れて、何で味付けしているのか全く判らなかった・・・というのが本音です。

 ジャック・フルーツ入りカレーも出来上がり夕食をとるべくレストランに入ると全員が集まるか集まらないかという時にまたもやケーキが運ばれてきました。
 今日は、長谷川さんの誕生日、流石に団長だけあって楽団つき、スリランカに来て2個目のケーキです。長谷川さんいわく「1回目は、不意打ちで嬉しいけど2度目からは、予測つくだけに嬉しさ半減やなぁ〜」その気持ちも判らなくはないけど「チョット贅沢とちゃう!?」などと騒ぎながらケーキにビール、さっき作った(作ってもらった)カレーに舌鼓を打ちながら賑やかに夕食がはじまりました。【写真:長谷川さんの誕生日会】


 夕食後、部屋に戻り「今日も一日が終わったな〜」とシャワーを浴びようと立ち上がったら、いきなり停電になってしまいました。“なに!?もしかして無線の運用のせい?”と不安になりながらも動けずに居ると隣の部屋で武市さんの奥さんも困った様子、しばらくしてやっと電気がついたので急いで無線部屋に行ってみました。
 「さっき停電したけど・・・」と部屋に入ると「ここのせいとちゃうで」と言うので“運用も続けているし、まっいいか”と安心して部屋に戻りました。やはり電力の供給がまだまだ不安定で高級ホテルの停電も度々あるようでした。またシャワーの温度もまちまちで水だったり熱かったり、これが翌日の大事件になるとは、誰も思いませんでした・・・


第5章 6月10日−無線運用と世界遺産(シーギリヤとポロンナルワ)

 蚊に悩まされた夜が明けました。周りが木や草に覆われており、蛙(オタマジャクシも)がいる人工のほとんど水が溜まっているだけの小川なので仕方ないといえば仕方ないけど、蚊といえば病気を媒体するのでできれば刺されたくない・・・なんとかしなくては!
 今日の観光は、シーギリヤとポロンナルワ、シーギリヤ・ロックを登るのには、結構時間が掛かるというので朝食が終わり次第に観光組は、出発する事になっているので早めに朝食をしようとレストランに向かいました。

 
朝食も終わり、部屋に帰るまもなくフロントに集合し早速出発です。この頃になるとカーチェイスにも慣れてきて、必要以上に鳴らされるクラクションも「よう、これでケンカになれへんな」「クラクションの鳴らし方で意思表示してるみたいやで」「ホンマやな、クラクションの鳴らし方が微妙に違うなぁ」と話題のひとつになってきました。
 また道すがら露天の果物屋さんが有れば立ち寄るのが、なんとなく習慣になってきたようです。今日見つけた果物屋さんには、ハリネズミが飼われていて恐る恐る触ってみましたが、身体から生えている毛(針)は、針金のように硬くて剛毛です。皆が触ってもおとなしく目を細めてジッとしているだけ、毛を逆立てようと箒で驚かしても一瞬逆立つだけで、すぐ元に戻ってしまいます。飼い主の話では「年をとっているから」という事でした。珍しい動物が間近で見れて、しかも触れることも出来るなんて動物好きの私としては、嬉しい限りです!【写真:ハリネズミ】

 しばらく走ると木々の間からエアーズ・ロックのような山が見えてきました。山といっても全体が岩でできており、バスの車内から見たところでは、まわりが切り立った崖のようにしか見えません。「あそこに登るんかいな・・・」「登れるの?」とチョット不安げな声が聞こえましたが確かにそんな感じです。この森林の中に突如あらわれる岩山の高さは、約195m。骨肉の争いの末、父を殺害して王座についたカーシャパが、弟の復習を恐れて築いた孤立した山城です。【写真:シーギリヤ・ロック】

 その山城は、日本のお城を守る堀を思わせるような水路でかこまれ、その岩山の前面には、真っすぐのびた小道に沿って美しい庭園が造られていました。その庭園に沐浴場があり、なんとそれは上下水道設備の一部なのだそうです。

【写真:下水道設備】
 またその設備の中に七不思議を超える八不思議とされる噴水があります。この噴水は、円形の石盤に数個の孔があいているだけの物ですが乾燥の季節になると岩山の付近にある貯水湖から水を引く仕組みになっていて、円形の石板の下を水が通るときにその孔から水が噴出し噴水の役目をするという事で、なんとこれらの設備は、4世紀頃に造られたのだそうです。すばらしい遺産ですが、骨肉の争いが元で造られたという目的とのギャップがすごい!

 庭園を歩いていると数人のスリランカ人が「ニモツもちましょうか?」「だいじょうぶですか?」と近寄ってきました。どうもヘルパーもどきでチップが目当てのようです。海老原さんやコナ爺や女性陣に仕切りと声をかけて来るので「おれらを老人扱いしてるな?!」と海老原さんやコナ爺は、憤慨していましたがそれほどシーギリヤ・ロックに登るのが厳しいという事なのでしょうか?ちょっと不安が胸をよぎりました。

【写真:巨大な岩の門】

 庭園を通り過ぎ、シーギリヤ・ロックが近づいてくるに従い、そこらかしこに巨大な岩が地面から突き出しています。その岩を削って作った階段をのぼっていくと洞窟が見えてきました。この洞窟は寺院跡でその中には、仏陀の胸像が描かれており、せり出した洞窟入口の天井は、雨が伝って入らないように軒のように削ってあり生活の知恵が感じられました。
 更に進むと大きな岩が寄り添いその隙間が門のようになっており階段がその隙間を通り抜けるように作られていました。その階段の前でアリさんが「ヒカルさん、このかいだんをバックでのぼるといいことがあります」と言うので後ろ向きであがってみました。まわりのスリランカ人が笑って見ていたので、もしかしたらアリさんにかつがれたかな?
【写真:螺旋階段】
 岩山に沿って続く急な階段をのぼって鏡の回廊といわれるレンガ色の壁と岩の間の廊下を過ぎると切り立った岩山に螺旋階段が見えてきました。よくマンションとかホテルに避難用として取り付けられているような鉄筋と鉄板で作られた階段で、それよりもずっと簡素な階段です。「あれをのぼるみたい・・・」目をこらすとその階段は、のぼり下りも一緒で人がいっぱいで渋滞しています。“うゎ〜こりゃあすごい!上まで辿りつけるんかいな?”と思いながら人ごみの中に突入しました。

 上に行く人、下りる人がやっとすれ違えるほどの狭い階段をのぼっているとやけに子供が多い事に気がつきました。“遠足とか修学旅行とかかな?”と思っているとすれ違いざまに「アイ・ボー・ワン」と声を掛けられました。正式な発音は、判りませんがスリランカ語で『こんにちは、さようなら、おはよう、こんばんは』とすべての挨拶を意味します。それからは、現地の人とすれ違えば「アイ・ボー・ワン」外国の旅行者とすれ違えば「ハロー」と声を掛けながら歩くようにしました。
 渋滞の階段で挨拶を交わしながら進んで行くと岩をくり貫いた洞窟のようなところに到着しました。

【写真:シーギリヤ・レディーと「ハイ、ポーズ」】

 暗さに目が慣れてくると壁に描かれた数体のフレスコ画が目に飛び込んできました。すばらしい色彩で書かれたその美女達は、『シーギリヤ・レディー』と呼ばれ、かつて500人ほど描かれていたそうですが現在では、18人しか残っていないそうです。描かれているシーギリヤ・レディーの顔の色が異なるものが有ったので「何で顔の色が違うんやろ?」と言うと「フクをきてカオのイロがあおいのがメシツカイで、ハダカのヒトがカミサマとか、えらいヒトです」とアリさんが説明してくれました。あまりのすばらしさにアリさんに「写真撮ってもいいですか?」と尋ねると「どうぞ」と返事が返ってきました。“世界遺産なのに・・・日本なら絶対撮影禁止やなぁ”と思いながらもシャッターを押してしまいました。(後で見た旅行の本には、ストロボ撮影禁止になっていました)

【写真:鏡の回廊から見た庭園
 その石室を出て超満員の螺旋階段を下り鏡の回廊に戻ってきました。ここからの眺めもすばらしく先ほど歩いてきた庭園がジャングルの中にある箱庭のようです。この回廊の壁は、全盛時代には磨かれ鏡のように光り輝いていた事から『鏡の回廊』と呼ばれているとか。
 またロープで守られた通路側の壁には、仏典などや古代の落書きが書かれているらしいのですが、流れた年月の長さと観光客の落書きなどで薄れて目を凝らしても大変見え難くなっていました。この古代の落書きは、「何年何月、訪れたら修理が行なわれていた」とか「XXX王が新しい建造物を作ろうとしているらしい」「(鏡の回廊の)壁に映った美女(壁画)に声を掛けたが返事をしてくれなかった、寂しい・・・」などと訪れた時のシーギリヤの様子が書かれており、古代書物に書かれた記述と落書きの内容を照らし合わせて当時の様子が判明したらしく「落書きも書き方で役に立つこともあるんやなぁ」と変に関心してしまいました。しかし何所に行っても目につく自分の名前や芸術を気取った最近の落書きには、憤りを感じます。それとも五百年くらい経ったら何か役に立つ事もあるのでしょうか?
 更に階段をのぼっていくと少しひらけた場所に出ました。ここからが宮殿の入口でライオンの入口と呼ばれ、ライオンを模った入口を通る様子が喉に入って行くように見えることからシーギリヤ(シンハラ語で、ライオン−Sinha、喉−Giriyaと言う)という名前の由来になっていると考えられているそうです。現在は、ライオンの両手首だけ残っており、そこだけ見ているとエジプトのスフィンクスを彷彿させます。【写真:ライオンの入口】


 ここで少し休憩する事になり辺りを散策しているとジュース売り場の横に大きな金網の小屋をみつけました。「あれは、なに?」と聞いたところ、この岩山に住み着いている蜂が襲ってきたときに逃げ込む避難場所だという事で「物騒な話しやなぁ」と思わずまわりに蜂がいないか確かめてしまいました。
 時間もあまり無いという事なので休憩もそこそこにライオンの口の中に入って行くと、そこにも人が溢れていました。狭い階段をのぼっていくと岩肌に張り付いた鉄の棒でできた手すりと鉄板で組まれた、まるで工事現場の足場のような通路にさしかかりました。「うゎー、なんじゃこれ!?」「こんなに人がいっぱい乗ったら落ちるんとちゃうん!?」と叫んでしまうほど高所のわりには、簡素な通路に愕然としてしまいました。“高所恐怖症の人は、来れないだろうな・・・”と思いながら、のぼり続けて、やっと頂上に到着しました。

【写真:シーギリヤ・ロック頂上の城壁跡
そこは、赤土の広場で宮殿跡といっても所々に土台の一部が残っているだけのものでしたが、360度見渡せる景色は、絶景のひとことに尽きます。あまりに高所にある事と完全に孤立しているので「こんなところに何年も住まれへんなぁ」とポツリと誰かが言うと「でも、アンテナ立てたら、よ〜飛ぶでぇ」「無線設備を運び上げるの大変やろな・・・」「HFやったらいいけど430とか144やったら受信してくれる人が、おれへんやん!」と真面目なのか不真面目なのか・・・

【写真:七不思議の貯水池

 のぼってきた方と反対側の階段を降りて行くと貯水池があり、アリさんが「このミズにテをいれてみてください」というので手を入れてみると結構冷たいので「雨水のわりには冷たいね」と言うと「このミズは、アマミズではなくてワキミズです」と少しニャッとしながら答えました。“・・・!こんな高いところになんで湧き水があんの??”まさにこれは、七不思議!(気圧の差と毛細管現象を利用してるとか・・・)

 その時、ふと横を見ると安孫子さんの顔色が悪い、「どうかしましたか?」と聞くと「ちょっと体調が悪くて・・・」との事なので、慌ててアリさんに伝えると「そうしたら、さきにバスにもどりましょう。でもかえるみちが、きたみちとちがいますが、だいじょうぶですか?」と聞かれたので「なんとかなると思います」と答えてしまいました。
 安孫子さんとアリさんの姿が見えなくなり、不安になった私は、メンバーに「そろそろ戻りましょうか?」と声を掛けたのですが、「オー見てみ、こんなに大きなトカゲがおるで!」と40cmは、あろうかというトカゲを写したり、思い思いの行動をしていて思いのほか前に進みません。何を隠そう方向音痴の私は“そのうちアリさん達に追いつけるやろ”と簡単に考えていましたが歩いても歩いても二人の姿は、見えてきませんでした・・・不安な気持ちで先に進んでいくうち見た事のある道に出てきました。
 “よかった〜これで帰れる”と思ったら大間違いで、帰りは、朝止まった駐車場と別の降り口へ私たちが辿り着く予定だったのでバスは、既にそちらの駐車場へ移動していました。やっぱり曲がるところを間違っていて、見た事のある道へ出ては、いけなかったのです。下手に動くといけないと朝バスを降りたところで待つこと小一時間、やっとバスが迎えにきてくれました。
 あまりに皆が帰ってこないので「これは、ぜったいおりるところをまちがってる」と見にきてくれたのでした。私の軽はずみな行動でメンバーに迷惑をかけてしまい心から反省しています・・・ごめんなさい。
 なんとか無事に全員が揃い、昼から観光をやめて無線チームに入るというメンバーもいるので昼食を兼ねて一度ホテルに戻る事になりました。

【写真:無線室】
 ホテルに戻ると無線チームは、まだ部屋にいました。机の上にビールの空瓶がズラ〜ッと並んでおり、やはり午前中の電波状態が悪く暇を持て余しビールを飲んだり、部屋からレストランまでの間をブラブラしていたらしいのです。「お昼ごはんですよ」と呼びに行くと「あまりお腹は、空いてないけどなぁ・・・」と言いながらもレストランに集まってきました。この頃になると数人がお腹の調子をくずしていて、このときも池田さんが「お昼ご飯抜いとく」という状態でした。

 食事をしながらの雑談内容の一部は、こんな内容でした。
長谷川さん「無線の方は、どおや?」
中浴さん 「あかんな〜ノイズばっかりですわ・・・昼からは、よーなると思うけど」
安孫子さん「できひんかったんか?そりゃ〜暇やったやろなぁ」
田中さん 「暇やから、レストランの方でブラブラしてたら1.4mぐらいのオオトカゲとトドがプールサイドで昼寝をしてましたわ」
みんな  「トド?」
田中さん 「ビキニ着たトドですわ、白人の女性が日光浴してて・・・」
長谷川さん「また、なんでそんなとこウロウロしてたんや?」
中浴さん 「QHQが、なんか飲むもんないかって言うから探しに・・・」
コナ爺  「それで、あんなによぉけビール瓶が並んでるんやな?」
田中さん 「そーですねん、サインHasegawaと書いたら部屋まで持ってきてくれるし」
長谷川さん「なに!?人の名前をかってに書いとんかいな・・・」
みんな  「アハハ・・・よ〜やるわ!」
この《Hasegawaサイン事件》で掛かったビール代は、かなり高くついたそうです。【写真:プールサイド】

 昼食も終わり無線チームの田中さん・中浴さん・池田さんと観光チームから無線チームに転向した安孫子さんの4名を残し次の観光地ポロンナルアに向かいました。

【写真:貝葉の仏典を持つ石像】 
まず到着したところは、巨大貯水湖パラークラマ・サムドゥラの近くに位置するポロンナルア遺跡の中にある石立像です。アリ塚が隣接する公園の道を行くとその石像は、両手に貝葉と言うヤシの葉に書かれた仏典を持ち広場の片隅にポツンと立っていました。
 今だ誰の像か判明していないそうですが、ポロンナルアに君臨した王の中で一番繁栄した王、パラークラマバーフ1世の肖像と言う説や哲学者のプラスティ、またインドの宗教家という説もあるそうです。その石像から100m程行くとポトゥグル・ヴィハーラと呼ばれる図書館跡があります。図書館跡

 ここでは仏教教典が貯蔵され仏典など文献の朗唱が行なわれたという事で半ば崩れかけた遺跡内でも音響はすばらしく“その昔仏典を読み上げる声も神々しく響いていたんだろうなぁ”と想像できました。

【写真:宮殿跡】
 次にそこからバスで数分移動したところにあるパラークラマバーフ1世の宮殿跡に到着しました。そこには、重厚なレンガ色の壁のような柱のような建物跡がありました。かつては、7階建てであったらしいのですが現在は、3階までの厚い壁と柱が残っているだけです。なんとその当時には、部屋数が50もあったそうです。その宮殿の隣には、閣議場跡・集会場跡などもあり政治もしっかり行なわれていたらしく繁栄ぶりが窺えました。
【写真:サトゥマハル・プラサーダ

 その宮殿跡から少し歩くとクォードラングルというポロンナルア遺跡群の中心になる遺跡が見えてきました。シンハラ王朝時代には、ここに仏歯寺があったのでポロンナルアの仏教中心地となったそうです。またクォードラングルとは、四辺形の意味でその名の通り四角く壁に囲まれた中に遺跡が点在していました。
まず目に入ったのが、バベルの塔を思い起こさせるような下から土台を積み上げて作ったような7階建ての塔サトゥマハル・プラサーダ、その奥にトゥーパラーマと呼ばれるりっぱな仏堂あります。

【写真:トゥーパラーマ】
 そこに入るべく、しきたりに従い裸足になると昨日にも増して地面の熱いこと!「アッツゥ〜!」と騒ぎながら入口に入ると、そこは重厚な壁に守られ床もヒンヤリとしており明かりも蝋燭の灯りだけです。その堂内に仏像が数体置かれており、係員が蝋燭の灯りでその仏像を照らすと石の中の結晶がキラキラしているのが見てとれました。
【写真:ワタダーゲ】


 仏堂から出ると右前方に円形の壁に4箇所の入口があり、その入口から見えるように4体の仏像が配置されたワタダーゲと呼ばれる僧院跡がありました。入口の一つから入ろうとすると階段の上がり口にムーンストーンとその両側に日本の道祖神みたいなガードストーンが入口を守るように配置されていました。ムーンストーンをよく見れば牛(死)が描かれていませんでした。その当時は、ここで足を洗い清めてからワタダーゲの中に入ったそうです。
 また階段の両脇に置かれたガードストーンは、入口から悪霊・災いが入って来ないようにという意味があり、まるで踊っているような姿が刻まれています。

【写真左:割れている仏像】   【写真中:ガードストーン】  【写真右:ガルポタ】


 すばらしい遺跡を見ながらムーンストーンの上に足を運ぶと「火傷する〜!」と叫びたくなるほど熱い!炎天下で熱せられた石は、まるで焼けた鉄板の上を歩いている感じです。あまりの熱さに涙が出るくらいで、つまさきでピョンピョン飛び跳ねて足の裏がなるべく床に着かないようにしながら歩いている姿を見てアリさんが「ヒワタリのレンシュウですね」と笑っていました。
 
必死の思いでワタダーゲの中に入り入口の仏像にお参りをして日陰を探しながら、なんとか一通り見てまわりました。石の仏像など、よくよく見てみるとお顔が削れていたり頭部が無かったり手足が折れたりして痛々しい姿になっていました。バーミアン遺跡破壊の記憶も新しかったので「これは、人為的に壊されたのですか?」と聞くと、これらの建物が建った当時は、木や葦の屋根があったが長い年月の間に朽ちてしまい直射日光で熱せられた石が自然に割れて壊れてしまった、という事で、この地面の熱さを実感しているだけに納得できました。その他に蓮を模った柱や仏像・石像などが点在していました。

また高さ70cm、奥行き1.5m、長さ9mぐらいで重さ数十トンもありそうな石版の表面にぎっしりと文字が刻まれている遺跡がありました。ガルポタと呼ばれる石は、昔のメモみたいなものと聞いたときには“メモゆうても丸めて捨てる訳にいかへんし変な事書かれへんな”とふと思ってしまいました。火渡りの練習も充分したところで次の目的地ガル・ヴィハーラにバスで向かいました。

ガル・ヴィハーラの駐車場に到着するとバスの回りにお土産を売る人々が集まってきました。これまでもお土産を売りに来ることは度々あったのですが、ここは少し違いました・・・バスを降りると近寄ってきて「これセンエン、やすいよ」「ワタシがほったゾウのオキモノ、これオヤ、これコドモ、これマゴ、みんなかわいいね」と手に手に品物を握り締め押し寄せて来るのです。歩き始めた私達についてきて「このネックレス、センエン」と言ので「ノー」と断ると「3コ、センエン」それでも断ると「5コ、センエン」と値段は、下がらないものの品物の数が増えていくのには参りました。なかには「わたしビンボウ、これかってください」と言ってくる人もおり、小永井さんの奥さんが「あなた貧乏、私も貧乏」と答えているのには、思わず笑ってしまいました。

【写真:石仏像】  
 かわるがわる現れるお土産屋さんをかわしながら進むと前方に巨大な石像が見えてきました。座禅している石像、その右側に涅槃像、その傍らに立像と三体が切り立った岩壁に刻み込まれていました。座像は、約5mで他の二体とは、少し離れたところに彫られています。なだらかな曲線で彫られた涅槃像は、長さが14m程あり、穏やかなお顔を間近に見る事ができます。少しずらされた左足は、仏陀が亡くなられた事を意味し、その足の裏には、太陽のシンボル模様が書かれていてスリランカの仏像には、この模様がよく使われています。
 その傍らに悲しげな表情で立っている7mの石像は、仏陀の死を悲しむ一番弟子のアーナンダであるという説と世の中の乱れを悲しむ仏陀であるという説があるそうです。

【写真:涅槃像と立像】

 
すばらしい石像に挟まれて警備員と鉄格子に守られた祠のようなところがありました。そこは例のごとく裸足・脱帽で入らなくてはならず、素足で地面より一段高く作られた広場にあがり岩壁につくられた祠の鉄格子の中を覗くと、そこにも数体の仏像が彫られていました。
そのとき後ろで騒ぐ声がしたので振り向くと世話役がが帽子を脱ぐように警備員から注意をされていました。「日本での生活が長いから、殆んど日本人の感覚になってるなぁ・・・」と長谷川さんの呟く声が聞こえました。日本に住み始めて18年になるとか“それでは、仕方ないかも・・・”と警備員に頭を下げながら帽子をとっている世話人を眺めていました。
【写真:祠の仏像】 
今日は、無線運用予定の最終日なので早めに切り上げようとバスに戻るために歩いていると、また先程のお土産屋軍団が近寄ってきました。“わぁ〜また来たわ!”と思っていると、その中の一人がネックレスの束を差し
出し「これ10コ、センエン!」と言いました。「えっ!?はじめ1個千円やったのに観光してるうちに10個千円になってるで!」「え〜かげんやなぁ」「もう少し歩いたら15コになるかも」と言ってみたものの結局買わないでバスに乗り込みました。
 
バスが動き出すと話題は、お土産屋の事で持ちきりです。コナ爺が「さっき最終で11個千円になってたなぁ!」というと、突然武市さんの奥さんが「ホンマ?私10個で買ってもうたわ・・・」と言いながら振り返ったその手には、ネックレスが10個握られていました。「まあ10個も11個も変わらへんし、それにこんなようけ、いらんから誰かいる?」と言うお言葉に田中さんが「ハ〜イ、娘のお土産に3個もらいます」と名乗り出ていました。その後、長谷川さんの奥さんも1つ受け取っていましたが長谷川さんの奥さんいわく「今度売りにきたら“もう買ったよ”ってこれを見せれば煩わしくないでしょ♪」との事で「アッ、そうか!流石、ごもっとも!」と感心してしまいました。

【写真:黒檀の高価な仏像】

 時間も有るからと寄ったところは、彫り物工場でした。工場といっても数人が椅子に座ってお面や象、仏像などを彫っていて建て屋の殆んどは、それらを売るお店でした。黒檀を使った仏像や象の置物やアジヤ系の色とりどりのお面を見ながら「こんなん家に飾ってあったら夜中怖いやん・・・」「お〜っ、これ誰かに似てるで!」と店内を回りましたが値段も結構高かったので見るだけに終わってしまいました。
 ホテルに帰りついたら、4時過ぎでした。無線運用最終日とあって皆やる気満々で無線運用部屋に集まってきました。ナレンドラさんやアリさんも来て興味深げに運用しているのを見ていました。

 急に安孫子さんが「阪本さんも運用せな!」と言って席を開けてくれましたが、この時間帯は、ヨーロッパしか開けていません。外国と一度も交信した事の無い私が「え〜っ、英語しゃべられへんもん・・・」と尻込みしていると「せっかく4Sの許可証をもろたのに運用せな!」と田中さん、「それは、そうやけど・・・」と煮え切らない私に中浴さんから「ラバー・スタンプでええねんで」とログが渡されました。“その、ラバー・スタンプが、わかれへんちゅうのに・・・”結局押し切られ海老原さんにサポートしてもらいマイクを握りました。
「CQ、CQ、ハローCQ、this is 4S7YJG フォー・シアラー・セブン・ヤンキー・ジュリエット・ゴルフ コーリング・アンド・スタンディング・バイ」と呼びかけると雑音のむこうに何か聞こえてきましたが、あまり無線慣れしていない私の耳には、はっきり聞き取れません。後ろで「イタリアやなぁ」と声がしましたが相手のコールサインを取るのがやっとで「ユァ・シグナル・ファイブ・ナイン、ファイブ・エンド・ナイン、サンキュー」まで送り、途中海老原さんに代わってもらいました。

【写真:冷や汗もんの海外初運用】

 側で聞いていた安孫子さんや田中さん、中浴さんから「なんで、ヤング・ジャパン・ガールって言えへんかってん?」とクレームがあったものの、なにはともあれ、これが私の外国との記念すべき初交信となりました。 
その後JE5???の日本の5エリヤも声を掛けてくれましたが、四苦八苦している間に電波が弱くなってしまい、とうとう最後までコールを取りきれませんでした・・・本当に申し訳なかったと思います。後で聞いたところでは、DX(遠方)専門の池田さんには、聴き取れていたそうです。アリさんも無線に興味を持ったのか「どうしたらメンキョがもらえるのか?」とメンバーに聞いていました。

 コンディションも落ちてきたので、取敢えず夕食をしようとレストランへ向かいました。無線チームは、早々に食事を終えて「今日は、徹夜で無線をするぞ!」と張り切っていました。私は、取り敢えず部屋に帰り“まずはシャワーでも・・・”とさっき久々の無線運用でかいた冷汗を洗い流してから無線部屋へ行くと部屋には、2〜3人しか居ませんでした。無線主任の池田さんが見えなかったので「DUEは?」と聞くと「今シャワー浴びてるわ」中浴さんがバスルームを指差しました。

 無線もせずにベッドに座って雑談をしていると「ちょっと見てくれへん?」と池田さんがバスルームから出てきました。「どこ見んの?」と近寄ると「どうも足を火傷したみたい・・・」と言うので見てみると足の横や裏が火傷して水疱ができていました。「すごい水ぶくれができてるで!どうしたん!?」と聞くと「どうもシャワーが熱湯になってたみたい・・・おかしいなと思ったら、もう遅かった」という事でした。池田さんは、大学時代にバイク事故に遭い骨髄損傷と言う重症をおったために下半身の感覚が全く無いのです。
 「取敢えず冷やそう」と中浴さんがタオルを水で濡らして持って来てくれましたが氷がない!「この水ぶくれ潰したらあかんかなぁ?」と池田さんが言うので「傷口からばい菌が入ったら感染症になるで、その方が怖いから潰さん方がいいと思うけど・・・」と騒いでいると小永井さんの奥さんが入ってきました。やっぱり水疱を潰さない方がいいという事になり小永井さんの奥さんが池田さんの足を冷やしている間に日本から持ってきた救急セットを部屋に取りに戻り、その時点で長谷川さんにも連絡しました。
 ホテルのフロントにも行ってみましたが、この状態では治療もできないので軟膏をぬってひたすら冷やして、後日火傷の状態を見てキャンディ市内の病院に行く事にしました。救急セットは、火傷の水ぶくれ状態で使える薬品もなく、かろうじて軟膏と包帯だけが役にたちました・・・

【写真:安孫子さんスリランカ初SSTV交信】

 この騒ぎの中でも無線の交信は、最終日という事もあって夜を徹して行なわれ、今回運用許可証を受け取ったメンバー全員が交信しました。この無線運用期間中には、『UJR、MA1DO事件』『JRY、おちょくり事件』『ツー・ツー・ト・トって何やったっけ事件』など色々ありましたが、交信数もまずまずで4Sからの海外運用という目的は果たせたのですが、私の交信数はと言うと情けない話ですが結局1局しかできませんでした。

※MA1DO事件 --- まいど(MAIDO)をもじった言葉で日本の友人から「MA1DO」でモールスが届き中浴さんが外国のコールサインと勘違いした事件
※JRYおちょくり事件 --- JRY(屋田さん)からの呼びかけを「エッ?ARY?」「ああ!JRIですね」「えっ、違う?JIYですか?」とワザと取れない振りをした事件
※ツー・ツー・ト・トって何やったっけ事件 --- モールス信号のZが何回聞いてもわからなかったという事件


第6章 6月11日−仏教都市キャンディ

 ギリタレに別れを告げる朝が来てしまいました・・・朝食前に無線設備の撤収です。今回スリランカに残していくICOMのIC−746と電源、アンテナのR−8Jバーティカル、安孫子さんのポールなど無線設備一式を個人のものと混ざらないように梱包しながら片付けを進めていました。「今度は、手ぶらで来てもこの設備を使って運用できる」と言う事ですが、誰かが「つぎに来た時まであるかな・・・」と呟きました。【写真:ディア・パーク ホテル】

 
なんとか撤収も終わり自分の電源を旅行カバンに詰め込み帰り支度を整えてから『DEER PARK HOTEL』での最後の朝食に向かいました。
レストランに入ると顔なじみになったスタッフが「オハヨーゴザイマス」と片言の日本語で挨拶をしてくれるようになり、リスもいつものようにパンをもらいに扉のところに集まってきました。3日間も滞在していざ立ち去るとなるとそれなりに寂しさを感じます。

【写真:観光地菩提樹の寺前で記念撮影】
 食事が終わり荷物を引っ張ってフロントに行くと海老原さんや出崎さんがサリーを着たフロントの女性と記念撮影をしていました。
あれよあれよと言う間に皆集まってきて、我先にとその女性を撮影していましたが出発の時間も迫っており全員で記念撮影をすることになり、最後に出来上がった写真を送る約束をしてバスに乗り込みました。
名残惜しさのせいか何となく静けさが漂うバスは、今日の観光予定地『スパイスガーデン』に到着しました。バスを降りて木造の建物の横にある細い道に入ると、そこはちょっとしたジャングルのようになっており、いろんな種類の木々が茂っていてそれぞれの枝に名前が書き込まれた黄色い看板が掛かっていました。

【写真:カカオを持って説明する案内人】

 カカオ、胡椒、バニラビーンズやいろんな種類のハーブ、中にはコカの葉まであり「へぇ〜、コショウってこんな風になってんねや」「ほんま!この豆バニラの匂いがするわ」と始めてみる植物を見て回りました。その時、田中さんが、こっそりとコカの葉を1枚取っていました。
奥に進むと机の上にいろんなスパイスが置かれ、その机の前に椅子が並んだ教室のようなところに着きました。案内役の男性が、流暢な日本語で「イスにすわってください」と言ったので近くの椅子に腰掛けると1枚の紙と
ハーブティーが配られてきました。お茶を飲みながらその紙に目を通すと『薬用ハーブ製品とその使用方法』と
いう表題で番号別に製品の名前と効能が日本語で書いてあります。その紙に基づいて面白おかしく商品説明がされました。
なかでも気になったのが、7番の効能がスリムになる、9番の滋養強壮剤でロマンティックな気分になる、11番の育毛効果があると言うものでした。出崎さんが「やせるヤツ買ったから結果報告せなあかんなぁ」と笑っていました。その後、出口付近にあるショップでカレー粉や胡椒などのスパイスやハーブティーやオイルなどのお土産を買い込みました。

【写真:ジャック・フルーツ】
昼食は、レストランの3階で、道すがら長谷川さんが買った40cmぐらいのジャック・フルーツがデザートにでました。しっとりした実は、結構美味で好評でした。カレーに入れた物は、熟していなかったので野菜のように使いましたが、イメージが全然違う感じでした。

食事も終わる頃、急に振り出したスコールのような雨のため停電してしまいました。むき出しの電線、見るからに危なそうな変圧器など・・・「雨が降ると停電が多い」と言うのは、それらのせいもあるようです。

【写真左:シンハラ文字の新聞】
 レストランの2階で雨宿りしているとき、現地の新聞に『池田付属小学校襲撃事件』の記事を見つけました。この事件は、先日安孫子さんのパソコンのメールに書き込まれており事件がおきた事は知っていましたが、小学校の名前があやふやで池田在住の田中さんは、子供さんの事もあってすごく焦っていました。事件の起こった小学校が池田付属という報道で「うちの子は付属とちゃうねん・・・」と少しホッとしたようでした。雨も小降りになり一路バスは、キャンディに向かって走り始めました。

【写真右:キャンディの町並】

 世界遺産指定都市キャンディは、古くからの仏教都市で高地にあります。山道をドンドン登って行くと木々の間から町並が見えてきたので見晴らしのいいところにバスを止める事になりました。長時間バスに揺られていたので気分転換に外に出ると、ここでもお土産を手に人々が集まってきたので深呼吸もそこそこにバスに逃げ込みました。
 賑やかなキャンディの街中を通り、駅の近くに着くと急にバスが止まりました。アシスタントの青年が、ここでバスを降りるらしいのです。この頃になると池田さんのバスの上げ下ろしは、安孫子さんか田中さん、その補助を運転手さんも手伝ってくれるようになっていました。色々お世話になった青年に皆で「元気でね」「ありがとう!」とバスの窓から手を振りながら別れを惜しみました。

【写真左:キャンディのホテル】  【写真中:劇場の客席側】  【写真右:火渡りの儀式】


 しばらく行くと今日宿泊する『MAHAVELI・REACH・HOTEL』に到着しましたが、荷物だけ置いてこれからキャンディアン・ダンスを見に行きます。バスを降りて少し歩きレストラン横の入口を入って行くと、そこは劇場のようで舞台があり木製のベンチがズラ〜ッと並んでいます。「ここら辺に座ろうか」と舞台左手から中央にかけて2・3列目に席を陣取りました。安孫子さんが舞台側からこちらをデジカメで写していると私の前に座っていたヨーロッパ人が「私がシャッターを押しましょう」(もちろん英語)と言ってくれたので安孫子さんがデジカメを渡すと「オオ!ベリー・スモール!」と言いながら受け取りシャッターを押してくれました。
 安孫子さんとコナ爺の横にもヨーロッパ人の女性が座っており英語で話しているのを見たナレンドラさんが「光さんも見習ってコミュニケーションとらないと!」と言ったので、そちらの方を覗き込みましたが既におしゃべりは、終わっていました。そのとき照明が暗くなり『キャンディアン・ダンス』が始まりました。

 まず太鼓と笛との歓迎の踊りから始まり、ブージャの踊り、パンゼル・ナトゥマと言う豹の踊り、コブラの踊り、仮面の踊り、マユラ(孔雀)の踊り、ラバン(太鼓)の踊り、ヴェ(皿回し)の踊り、ギニ・シシーラと言う火踊りに続き最後は、火渡りの儀式と見応えのあるショーでした。アリさんがしきりに言っていた「ヒワタリのレンシュウ」とは、この事だったんですね!
また、入ったときから気になっていたのですが何か会場内をすごいスピードで飛び回っているモノが居るのです。“こうもり?でも飛ぶ速さが違うし・・・”と目を凝らすと、どうもツバメのようで中には、フン攻撃にあった人もいたようです。今夜のヒーロー!火渡りのおじさんにチップを渡してその会場を出ました。
そこからキャンディでのメインエベントでもある仏歯寺に向かいました。
【写真:仏歯寺入口の鉄門扉】

 大きな池の辺にあるお釈迦様の歯を奉った寺院で3年前テロの標的になり、700キロの爆弾を積んだトラックに襲撃され大きな被害を被った聖地です。そのために警備は、生半可なものでなく鉄棒の塀が何重にも作られ、兵士と警官によって守られています。
参拝のためには、鉄の門を警官に見守られながら入り、次の入口で兵士により荷物検査とボディ・チェックが行なわれてから、やっと参拝のお許しがでるのです。
門は、普通一般の参拝者は、横の狭い通用門のようなところから入るのですが車椅子の池田さんが、その通用門を通れないため特別に大きい門を開けてもらい刑務所に入る囚人のようにゾロゾロと入りました。

【写真:ボディ・チェック

 荷物検査とボディ・チェックの部屋は別々で、それぞれ男性用入口と女性用入口があり男性用の中には男性の兵士、女性用には女性の兵士がいました。荷物検査のとき、カバンの中にあった飴を「キャンディー♪」と言って渡しました。場所のキャンディと飴のキャンディーをかけたのですが判ったのか判らなかったのか・・・それでも嬉しそうに受け取りました。後で聞いた話しですが、この行為が賄賂にとられる恐れがあるので気を付けないといけないそうです。

【写真:本殿へのトンネル】
 小永井さんの奥さんからも「これ何やってコンパクトを指差すから、おしろいをつける真似してビューティフル、ビューティフルって言うたら結構うけたわ!」という話しが聞こえてきました。皆さん、ボディ・チェックもそれなりに楽しんでいたようです。ボディ・チェックも終わり寺院の入口で靴を脱いで裸足になると、ようやく寺院の中に入れます。白い外壁の門を入ると監視の兵士と花売りがいてお供えの花を売っていました。アリさんが、人数分の花を持ってきてくれましたが売っているといっても花の定価はなく渡す金額は「あくまで気持ち」なのだそうです。日本のお寺などでも『お布施』と言えば「おいくらぐらいで・・・」と聞くと「お気持ちで」と答えられますが、この“気持ち”程、高いものはないですよね。
【写真:本殿入口】

 ガード・ストーンが守る入口を入るとトンネルのようになっており壁は色とりどりのタイルで飾られています。そのトンネルを抜けると“こんなにうるさくてお釈迦さん怒れへんねやろか!?”と思うぐらい大きな音で太鼓が打ち鳴らされていました。2mは、あろうかという象牙が飾られた塔の扉が、お釈迦様の歯を収めた塔の入口のようです。この中は、一般の参拝が許されておらず、この寺院の檀家でもあり由緒あるケピティポラ家であるナレンドラさんのお陰で我々が参拝できるようになったそうです。

太鼓の音に背中を押されるように中にはいると、真っ赤な絨毯が敷きつめられた小さな部屋でガラス張りのケースの中に沢山の宝物が並べられていました。その部屋の隅に狭い階段があり、それをあがるように指示されました。その階段を見て池田さんが「ここで待ってます」と言い出しましたが「こんなチャンス滅多にないんだから一緒に行こう」と言うことで安孫子さんと田中さんが交代で池田さんを運びました。
【写真:ライトアップされた外壁】  
 階段をのぼると4本の象牙がアーチ型に並べられビロードの分厚いカーテンがかかっています。そのカーテンの隙間から奥に入るとガラス張りのケースの中に黄金に輝く器が納められていました。その中になにが入っているのかは全く見えませんが“これが『仏歯』なんだ!”と言う雰囲気が漂っており何かを祈った訳ではないのに気がついたら両手を合わせていました。そのカーテンの裏の別世界から現実に戻ってきました。案内されるままに出たところは、木造の2階にある一般の参拝者が仏歯にお参りをするところで池田さんの車椅子もそこまで運ばれていました。池田さんは「すごかった!」と言っていたけど「DUE運んどったから、よく見れんかったわ
・・・」と安孫子さんと田中さんは、じっくり見学する余裕が無かったようでちょっと残念そうでした。

【写真:仏歯の入った黄金の器】

 花一杯の祭壇の前を通り1階に下りると金色に輝く仏像が並ぶ大広間に出ました。見上げると柱飾りの象の頭も金色で、その下にお釈迦様の一生とこの地に仏歯が来た由来の絵がかけてありました。
一通り見て周って、よくよく考えてみると外国人の私達が信者を差し置いて『あの場所』に入るという事は、すごいことなんだ!と気がつきました。本当にすごい体験をさせて頂きました。また日本のお寺から寄贈された釣
鐘も見学し、興奮も冷めないうちに 出入り口で靴を履いてバスに向かいました。振り返るとライトアップされた白い壁にかこまれた仏歯寺が暗闇に浮かび上がっていました。

 仏歯寺の前は、公園になっていますが時間が遅かったせいか道には入れないようにロープがしてありました。ここには、これまでスリランカに貢献した英雄の記念碑などが建っています。こっそり入ったつもりでも写真を撮ったりしてワイワイ騒いでいると警備員のような人が近づいてきたのでいそいそと逃げるように公園を後にしました。

 ホテルに戻り遅めの夕食をしにレストランに行きました。レストランにもヨーロッパからの観光客が多く見うけられます。食事をしているとポンチョにつばの広い帽子をかぶったスリランカには似つかわしくない楽団が近寄ってきました。長谷川さんがチップを渡すと演奏しはじめましたが、お世辞にも上手と言えるものではなく「コレ、イカガデスカ?」と差し出したテープに全員が首を横に振っていました。食事も終わり、そろそろ旅の疲れも出てきたようで皆さんおとなしく部屋に戻っていきました。【写真:決して上手とは言えない楽団…】




第7章 6月12日−象の孤児院と晩餐会

 今までもそうだったのですがスリランカでは、ホテルの部屋を出る際に枕の下にチップを置いておきます。私は、海外旅行が初めてなので『チップ』という感覚が全く判らず一番不安に感じていました。どんな時に渡すのか?どんなタイミングで渡すのか?いくら渡せばいいのか?本当に困りました。聞くと「30ルピーか50ルピーぐらい」という話しだったので今回も枕の下に50ルピーを置いて部屋を出ました。

【写真左:15cm程のサソリ】 
【写真右:この木何の木】

 まずバスが着いたのは、植物園でした。色とりどりの花が咲き乱れ想像以上に整備され手入れも行き届いています。広い園内を見て回っていると15cmぐらいの蠍がいたりカメレオンがいたり、ヤシの木に登って見せてくれる人がいたり、トゲのある竹や根っこが屏風のようにせり上がっている木、見たことも無い植物など、また球場よりひとまわり大きい公園の中央に『この木なんの木』と同じ種類の大木があり芝生の上をその大木に向って歩きながら「この〜木何の木気になる木〜♪」と思わず口ずさんでいたのは、私だけではなかったはずです。
また樹齢50年のヤシの並木と樹齢100年のヤシの並木があり100年の方が寿命なのでそろそろ植え替えるという事でした。スリランカでは、道端にでも平然と大木があります。ただ暖かいから木の育ちがいい、という
事だけではないようにこの植物園を見学して感じました。

 植物園を出て女性陣お待ち兼ねの宝石店に立ち寄ります。そのお店で宝石の採掘をビデオで見た後、店内へ・・・【写真:宝石店内】

 奥様方は、あれやこれやと物色し購入した人もいらっしゃいました。田中さんも「来年も来させてもらえるように」と奥さんのお土産にブルーサファイアを¥16,000円で購入していていました。おっと金額は、奥さんにヒ・ミ・ツだそうです。高価な宝石で目の保養も出来たところでホテルに向けて出発です。
 次に訪れたのは、紅茶工場です。スリランカと言えば、元『セイロン』、セイロンと言えばセイロン・ティーと言われる(?)くらいです。スリランカの高地では、紅茶の栽培が盛んでたくさんの紅茶農園と紅茶工場が点在しています。今回の旅行では、キャンディの町が一番高地になりますが、紅茶畑を見ることはできませんでした。訪れた加工工場で一通り紅茶ができるまでの工程を見学し、最後に2階にある販売所に行くと、紅茶を飲ませてくれるコーナーが設置されておりヨーロッパからの観光者が数人休憩していました。

 紅茶工場のガイドさんの説明によると、紅茶の種類は、摘み取られた葉っぱによって違い、ストレートで日本
人好みの紅茶は、B.O.Pと言う種類で、色・味ともに濃いのがB.O.P.Fでミルクティーに適しているそう
です。O.Pと聞くと“日本に有るんかいな?”と思いますが、オレンジ・ペコと言うと「ああ!」と思い当たるでしょう。また新芽で造られた、高級なゴールドチップやシルバーチップなどもあり、これらは殆んど王宮用や輸出用でスリランカの一般市民の口には、あまり入らないという事でした。 【写真:積んだお茶の葉を乾燥】


 販売所に行くと、そこはもう私達のメンバーで一杯でした。「これいくら?」「何グラム入ってんの?」と飛び交うのは関西弁ばっかりです。250kg入りのB.O.Pが、120ルピーで10個買うと1200ルピーです。「こりゃ〜10個千円のしょーもないネックレスよりええで!」と全員が、買うわ買うわ!あれよあれよという間に販売所の棚は、空っぽになってしまいました・・・
両手に紅茶の箱がいっぱい入った袋を持ち「買占めたなぁ」「あの店、今日は、もう閉店やね」と言いながら工場を後にしましたが、この事で諸外国が日本からの観光客を集めたいと言う理由がよくわかりました。実際に15人の日本人が買い物に来ただけで棚一杯の商品が売切れてしまうのですから・・・私達が去った紅茶工場の販売所は、まるでイナゴの大群に襲われた田んぼのような感じだったと思います。

【写真:放し飼いの象の群】

 次に昼食も兼ねて訪れたのは、象の孤児院です。バスを降りると動物園に行ったときと同じ独特の匂いが漂ってきて赤土の道を行くと木々の間から鎖につながれた何頭かの象が見えてきました。「つながれてるんや」と言うと「あれは、キのあらいゾウで、キバもリッパだからヒトをおそわないようにつないであります」と説明されました。
 しばらく行くと建物が二棟あり、一つは一頭の象が忙しなく皆の餌の準備をしており、もう一は子供の象が飼育されていました。それだけでも凄いのに、その先にある広場には、檻も無ければつながれてもいない象がたくさん歩いています。「オーいっぱいおるな〜!」「この風景は、日本で絶対見られへんで!」本当に目と鼻の先を悠然と象が通り過ぎて行くのです。あまりの象の数に圧倒されていましたが落ち着いてくると片足の無い象とか怪我をしている象とかが居ることに気がつきました。ここにいるのは、密猟などで怪我を負わされたり、孤児になった象達で、また地雷を踏んでしまったために片足を無くし身体のバランスがとれなくなり背骨まで変形したものなど人間の愚かさによる犠牲者の象達です。
 穏やかにも悲しげにもとれる象の目を見ていると密猟者も悪いけど、それを黙認して買い取る商社があり、それを購入する我々消費者にも重大な責任があるんだ、と訴えているように思えました。

【写真:レストランの入口】

 複雑な気分で象の孤児院を後にし、ゾウの糞や水溜りのある閑散としたお土産屋さんが並ぶ通りを歩いていくと「ニホンジンデスカ?」と店員に声を掛けられました。バブル期には、日本からの観光客も多く来ていたようで羽振りの良い日本人は、お土産屋さんのお得意様だったようです。“へぇ〜、どこに行っても日本語を話せる人がおるんや”と思いながらレストランに到着しました。
 そのレストランの出入り口は、象の形になっていてその牙と前足の間を通って中に入っていくといった感じです。レストランから見下ろす川は、孤児院で保護されている象の水浴び場になっていました。
 お昼過ぎに係員に連れられた象の群れがやってきて気持ちよさそうに水につかり思い思いに遊び始めました。その姿を眺めながらアリさんの「あれは、ゾウのハーレムでおおきいのがオスです」という説明を聞いて「うらやまし〜」とか「あの象、孤立してんなぁ」とか「あ〜っ!あそこの象、脱走しようとしてる!」などと観察をしながらランチタイムを楽しみました。

【写真:水浴びをする象の群】
 自由奔放に動き回る象の姿なんて滅多にお目にかかれるものでは無いので、すごく印象に残りました。昼食も終わりコロンボに向けて出発です。
 今日宿泊するのは、コロンボの『TAJ SAMUDRA HOTEL』で初日も宿泊したインド洋シーサイドにあるホテルです。空港からコロンボ市街の移動時は、深夜という事もあって暗く人通りもまばらで街の様子もよくわかりませんでしたが今日は、日のあるうちに市内を通ります。森林地帯を抜けお店の並ぶ町並に入ってきました。車や人の数が増え活気が漂い、建物も道端にあった平屋の住宅からビルに変わっています。交差点は、イギリス式でロータリーになっており信号機は、数える程しかないという話しでした。一般市民で賑わい、ビジネスマンや学生達の行き交うオフィス街をバスは、通り過ぎていきます。
 今晩は、スリランカ政府観光局主催の歓迎レセプションが行なわれるため、ホテルに着いたら1時間の休憩後にフロントに集合する事になっています。
 ホテルに到着後、バスから降りてすぐに旅行鞄のチェックをしているボーイさんにルームナンバーを言い、洋服と化粧道具一式が入っている鞄を部屋に届けてくれるのをヤキモキして待っていました。
 やっと鞄が届き、洋服をハンガーに吊るしシャワーを浴びる事にしました。普段お化粧や髪のセットなど全くしないので、ドレスアップの所要時間も曖昧で余裕をもっておかないと遅刻してしまったら大変です。浴室から出ると、まずこのために買ったドレスに着替えてお化粧を初めました。【写真:ドレスアップ完了!】


 次いで友人から借りた毛束を使って髪の毛をセットしながら“女ってコワ〜”と自分の事ながらツイ思ってしまいました。仕上げにイヤリングとネックレスをつけて完成ですが、鏡に写る自分の姿に思わず吹き出してしまいました。
 フロントに行くと、まだ誰も来ていなかったのでソファーに腰掛けて待つ事にしました。その内、アリさんや武市さんご夫婦がフロントに来られましたが気がつかずに私の前を通り過ぎて行くのには、“ヤッタ!”というかさびしいような複雑な気持ちになりました。

【写真:安孫子さんと「1+1=に〜】
 全員ドレスアップして、バスに乗ってレセプション会場となっている『GALADARI HOTEL』へ向かいます。バスの中で「光ちゃんもやればできるやん!」とか「そんな格好なんて始めて見たから誰かわからんかったわ」「人間って変われば変わるもんやなぁ」と言われました。めったと見られるものではない私のドレス姿は『馬子にも衣装』の意味そのままだと言われましたが、メンバーを驚かせる(笑わせる)事ができて自分なりに満足です。しかし段取りの変更等で正装でなくてもよくなったらしく、一部のメンバーには、知らされていたものの聞かされていなかった私は、「こんな格好したのに・・・」と少し困ってしまいました。
【写真:レセプション会場へ−握手】

 コロンボ市内の『GALADARI HOTEL』に到着しました。フロントに入ると政府観光局、サリーを着た女性、テレコム、アリさんが所属する旅行会社のANDREWS TRAVELSのメンバーが出迎えてくださり一人一人握手をしてから『VIP ROOM』と書かれた部屋に案内されました。
 その部屋に入ると長谷川さんご夫婦と宮本さんの座っているテーブルに通されましが、ここは主賓席です。“え〜っ!立場からゆうたら安孫子さんが座らなあかんのとちゃうん?”と思いましたが、交替する間もなくレセプションが始まってしまいました。

【写真:レセプション長谷川さんの挨拶】
 政府観光局の挨拶と歓迎の言葉から始まり、長谷川さんの挨拶が続いていきますが、通訳を挟むので結構時間が掛かってしまいました。
お土産の交換の後にやっと乾杯が行なわれ待ちに待った会食が始まりました。しかし着慣れない服のせいか食が進まず乾杯のビール一杯と最初に取りに行ったサラダ・カレー・果物を盛った一皿が私の夕食になってしまいました。

 会食も終わり参加者全員で記念撮影を行ない記念すべきレセプションは、お開きになりました。レセプション終了後、通訳をしていた観光局の女性や女性職員のメンバーと名刺の交換や写真を撮ったりして交流を深めました。ホテルの自分の部屋に帰るとすぐに服を着替えて化粧を落とし『いつもの私』に戻りました。【写真:記念撮影】

やっぱり、これが一番落ち着きます。長谷川さんの部屋で二次会をするというので行ってみると、長谷川さんご夫婦と宮本さん、安孫子さん、海老原さん、田中さん、中浴さん、池田さんが集まっていました。
コップとビールが足りないので各部屋からありったけのビールとマイコップを持ち寄って飲みなおしました。レセプションの成功もあり、話も弾み時間が経つのも忘れるほどでしたが、飲むビールも無くなってしまったので
各自部屋に戻っていきました。ここでもビール代は、高くつきました・・・ 


第8章 6月13日−アーサー・C・クラーク先生

スリランカ旅行最終日の朝が来ました。今日のスケジュールも駆け足です。この旅のもう1つの目的は、アーサー.C.クラーク先生にお会いする事です。
『2001年宇宙の旅』の著者、またITの先駆者としても有名な方で、この旅行で実現できるかどうか難しいと言われていた計画のひとつでした。
 
クラーク先生は、幼少の頃アマチュア無線にも興味をもたれたそうで免許は取得されなかったものの設備を揃え受信だけしていると言う事です。
 仕事の関係でスリランカに来て以来、こちらの方に永住されているそうですが、クラーク先生がスリランカに
住んでいる事を知っている人は、少ないと思います。
 昨日に引き続き正装という事ですが、あのドレスしか持ってきていないので困っていたら長谷川さんの奥さん
が「これ着る?」とセパレートの洋服を貸してくださったので本当に助かりました。

【写真:シンハラ文字の表札】
コロンボ市街に住んでいると言うクラーク先生を訪問するためにバスに乗り込みました。長谷川さんの「これからアーサー.C.クラーク先生を訪問しますが、もちろん皆さんご存知ですよね?」と言う質問に「ああ、北海道で銅像になっているBoys be ambitiousと言った人ですよね」と誰かが言うと、それを聞いた長谷川さんが「何ゆうてんねん!情けない・・・」と嘆いていました。
私も『2001年宇宙の旅』と聞いてやっと判ったくらいなので人の事は、とやかく言えません。
【写真:英語の表札】

 長谷川さん、安孫子さんを始め数名のメンバーは、「それは凄い!会えるだけでもスリランカに行く価値がある!」とチャンスがあればサインをもらおうと家から先生の著書を持参していました。
羨ましがるメンバーのために途中、本屋さんに立ち寄り15冊も先生の本を買い込みましたが、その本にサインをしてくれる確証は、今のところ全くありません。

【写真:真っ赤なベンツ「車番は無線家好みの59-95」】
 閑静な住宅街に先生のオフィス兼自宅がありました。門には、英語で書かれた表札とスリランカ語で書かれた表札と2種類あります。立派な家で無線用のアンテナもあがっており中に入ると真っ赤なベンツが停まっていました。
通されたのは、2階のオフィスの受付でパソコンや電話機の置かれた机、車椅子などが整然と置かれていました。
 そこで待っていると、その奥にある書斎のような部屋に入るよう指示されました。沢山の本が並んだ本棚、パソコンや無線機の置かれた大きなデスク、来客用に置かれた数脚の椅子、“クラーク先生の仕事場かな?”と観察していると車椅子に乗りアロハシャツを着た老人が現れました。その方が、アーサー.C.クラーク先生で体
調がすぐれない中、私達15名全員の訪問を受入れてくださったのです。
 日本からの訪問に新聞記者も来ていたので部屋の中に総勢20名ほどがひしめいていました。先生の登場で待機していたメンバーにより一斉にシャッターが押されフラッシュが光りました。思わず先生の口から「日本人が15人いると、まるでカメラが30台あるようだ・・・」という言葉が漏れました。しかしメンバー全員、興奮していてシャッターの音は、鳴り止みませんでした・・・これは反省事項です。

【写真:アーサー・C・クラーク先生と愛犬】

 先生の挨拶、長谷川さんの感謝の言葉に続きプレゼントをお渡ししました。その時、先生の愛犬が連れて来られると、それまであまり笑われなかった先生が優しそうに微笑まれたのが印象的でした。
 一人一人と握手を交わし、本を持参したメンバーは、その際にサインを頂く事ができましたがペンを持つ手も辛そうで時折さすりながらの作業となり「これ以上のサインは無理なので残りは、後日届けます」とスタッフから言われてしまいました。
 バスに戻り、待機している半ばあきらめていたサインのされた15冊の本が届きました。私も1冊頂き大変感激しました。ここでも一度に15名もの観光客を受入れるのは、滅多にないと言う事で幸運にも当初の計画通り進んだのです。
感激も覚めないうちにとアーサー・C財団が管理するスリランカ最先端技術を研究する施設へと向かいました。そこには、科学や技術などに関する書籍やデータ、書類などが保管されている部屋や無線室、パソコンルームや天体望遠鏡(日本製)のある部屋などがありスタッフも大勢働いているようでした。

【写真:最新技術?】
その一部屋の中に運動不足解消もしくはダイエットのために使うルームサイクル(タイヤ部分を取り外したボロボロの自転車)のようなモノが置いてありました。聞くところによると、度々おこる停電によりパソコン等の電源が落ちてデータが消失してしまう事を防ぐためにバッテリーを積んだ自転車で通勤し自転車を漕ぐことによって蓄電されたバッテリーを緊急用として使用する、という設備を研究しているらしいのです。「これって最先端なんや・・・」「でも設備投資は、あんまり掛かれへんで」とスリランカらしい一面を見たような気がしました。
次に立ち寄ったのは、お土産屋さんです。紅茶・Tシャツ・小物など何でも揃っているお店で会社の同僚や親戚のお土産は、ここで買い揃えました。
また、コロンボ市内の観光で街を歩きたいと言う意見が出たのでバスを降りて 10分ぐらい歩いたところにあるショッピングモールまで行き、そこで20分の自由時間を利用しウインドショッピングをしました。そのショッピングモールの中でサリー専門店を見つけ宮本さん(奥さんのお土産)が水色、小永井さんの奥さんが濃いピンク、出崎さんの奥さんが真っ赤なサリーを購入していました。

【写真:日本料理店「さくら」にて】

 時間の経つのは早いもので日も暮れてスリランカ旅行最後の夕食を日本料理店『さくら』でとる予定です。ここでは、池田さんと旅行前に無線でつながった4S7EU、アーネストさんと一緒に食事をする約束になっていました。
畳の部屋に入ると久々に座布団に正座をして座っていると、テーブルの上にお刺身が運ばれてきました。お皿の中身を眺め「これ、なんちゅう魚やろ?」「パッと見は、鯛みたいやけど・・・」と少し不気味です。ご飯パサパサのお寿司やお味噌汁も出ましたが、どれも日本料理もどきでお世辞にも美味しいと言えるものではありませんでした。

【写真:アーネストさん(4S7EA)】
 お土産に持ってきた電鍵をアーネストさんに渡して話も盛り上がっているところにケーキが運ばれてきました。今日は、宮本さんの誕生日で定例になった誕生日ケーキです。これで3個目のケーキになりますが、スリランカのケーキって、これでもか!というほど甘いのです。まずスポンジ自体が砂糖でジャリジャリするぐらい甘いのに更に甘〜いバタークリームで飾りつけられていてチョット言葉で現せない味です。
 長谷川さんの奥さんによると「まあ、こんなものよ。アメリカのケーキもこんな感じやったわ」とのこと“日本では、売れんやろなぁ・・・”と思いながらも気がつけば、お皿は空になっていました。
 夕食も終わり飛行機の時間もあるのでアーネストさんに別れを告げ日本料理店『さくら』を後にしました。空港に着くと先ず検問です。バスの下を鏡のついた道具で丹念に調べられ検問を通過し空港内に入りました。出発ロビー前でバスを降りお世話になった運転手さんにお礼とお別れを言いロビーに向かいます。コロンボのお土産屋さんに行く前「これから空港に行くと空港利用費1000ルピーと荷物を運ぶ人のチップが50ルピー程残しておいてください」と説明があったのでポケットの中には1050ルピーが入っています。

バスから荷物を降ろした途端、数人のサポーターが飛んできて確認するまもなくカートにカバンを積んで運んでいくので、その後ろをバタバタとついて行きました。
 カウンターに入る前にX線での荷物検査、その後またカートで出発ロビーに移動します。“カバンぐらい自分で運べるのに・・・”と思いながらサポーターについて行きました。
帰りは世話人は同行せず大丈夫なんやろか?”と不安を感じながらゲートを入るとカバンを開けての荷物検査がありました。開けただけで中身の確認もなく通過となり「こんなんでええの?」と思うぐらい簡単に事が進みました。空港利用費1000ルピーを支払い、出国ゲートでパスポートや出国証のチェックを受け無事に全員が飛行機に乗り込みました。

【写真:コロンボ空港出国ロビー】

 機内に入ると車椅子は、貨物用入口のリフトを利用して機内に入るので別行動だった池田さんと付き添いの長谷川さん・田中さんがビジネスシートに座っています?!「なんで、ここに座ってんの?」「ゆったりしてて、ええなぁ〜」「うらやまし〜」と皆で言うと「付き添い、付き添い」「今まで、重たいDUEを持ち上げてたんやから、これぐらいええやんかぁ」。「それもそうや」と思いましたが、安孫子さんは「それなら俺にも権利あるで!」と言いながらも渋々、後方のエコノミーシートに向いました。
 機体が動き始めこれから9時間を掛けて日本に帰るのですが、飛行が安定したところで、また恐怖の機内食の時間になってしまいました。無理やりお腹に詰め込み、なんとか食事も終わりました。
深夜のフライトとなり、映画も見飽きてきたので眠る事にしました。


第9章 6月14日−日本へ

 気がつくと外は、すでに明るくなっているようですが窓が閉められているので機内は、薄暗いままです。“何時やろ?”と思い腕時計を見ると7時前、その時機内の明かりが点いたので「どうしたんやろ?」と聞くと「朝食やて」と言う答えが返ってきました。「え〜っ!もう?今起きたばっかりやのに・・・」とゲッソリしながらもメニューを覗き、なるべくお腹に溜まらないものを、と日本食を注文しました。
 まだお腹の中には、消化されずに夕食が残っている感じで食も進まず半分以上残してしまいました。“この一杯が最後かな・・・”と思いながらセイロン・ティーであろう紅茶をおかわりして目の前のモニターに目をやると九州上空を飛行中でした。
 
「もうすぐ大阪上空やな」「大阪直行便が、あったらホンマに便利やのになぁ〜」「パラシュウト貸してもろて途中下車ちゅうのは、どうや?」などと騒いでいるうちに大阪上空も通り過ぎて行きました。
成田到着は、10:30頃の予定なので、そろそろ着く頃です。モニターでは、静岡沖を飛んでいるので「富士山見えるかな?」と遠くの窓を見つめていると“あれかな?”と思える山が見えました。何分にも真中の4列シートに座っている為によく確認できませんでした・・・
 シートベルトサインが点燈し着陸態勢に入りました。揺れる機体に身を任せながらモニターを見続けていると、雲の中から東京湾が近づいてきて“いよいよ日本に帰ってきたんやなぁ〜”と実感がわいてきました。
 機体が地面に付きガタ!ガタ!ゴーッ!と激しい震動の後、アナウンスが成田空港到着を告げると「おーっ、着いた、着いた」と安堵の声が聞こえてきました。
 ドアが開いたらしく前の方に移動していく人の波に揉まれながら出口にたどり着き、お世話になった客室乗務員にお礼を言ってスリランカン航空の飛行機を出ました。

【写真:5時間待ちの成田空港ロビー】

 入国チェックを終え国際カウンターに出てきたところで集合が掛かりました。「皆さん、やっと日本に帰ってきました。・・・が、大阪行きの飛行機は、16:40発のANAです」しばらくの沈黙の後、「16時って4時?」「5時間後!?」「新幹線で帰ったほうが早いかも・・・」とブーイングの嵐。「ホンマに乗り継ぎ悪いよな・・・」と諦めて5時間をどう潰すか考えることにしました。
 長谷川さんは、翌日の理事会出席ため私達とは別れ成田から直行すると言う話でした。取敢えず重い荷物を宅配便で送り出し身軽になる事にしました。
 ところが16時になってみると「案外、早かったね」「コーヒー飲む時間あるかな?」というぐらい、あっさりと5時間が経ってしまいました。「これが、一人で居ったらホンマに苦痛やで・・・大勢で居るから気がまぎれるんやろなぁ」と長谷川さん、その長谷川さんは、これから一人で別行動です。
 
長谷川さんと別れて搭乗口に向いました。手荷物だけになったので移動も楽になり荷物検査もすんなり通れ、いよいよ伊丹空港に出発です。
 大阪までの1時間は、アッと言うまでした。飛行機から降りると1週間振りの関西でしたが「久しぶり・・・」と思わず声に出てしまうほど何ヶ月も過ぎてしまったように懐かしく思えました。
 貨物室に荷物を預けた人も居て荷物が出てくるところで解散となりました。
 成田から実家に電話をしたとき「お帰り!おかあちゃんも北海道に行ってて確か今日の6時ごろに伊丹に帰ってくるはずやけどな」と父親から聞いていた私は、荷物受け取る場所の各路線の到着時間を見て15分後に札幌からの飛行機が到着することを知り少し待ってみる事にしました。
 
待つこと20分、「出てけえへんな・・・」とあきらめかけたとき見慣れた顔が見えました。「おかあちゃん!」私の呼ぶ声に驚いたようで「あんた、こんなところで何してんの!?」と叫びました。「何してんのって、今スリランカから帰ってきたんやんか・・・おかあちゃんこそ何してんの?」と言うと「急に北海道に行く事になってな。友達と一緒やからはよいかんと・・・」と照れくさそうに指差す方を見ると手を振る人が3人、立ち止まって母親を待っているようでした。
 安孫子さん・池田さん・長谷川さんの奥さんに母親を紹介して、別れ際に「写真撮ったるわ」と安孫子さんが写真を撮ってくださいました。 母親とも会えたことだし、とお世話になったメンバーにお礼を言って帰路につきました。


最終章 美しい島スリランカ 

 日本に戻ってからは、机の上に山積みになった仕事や8日分の洗濯物の処理、思い出に浸る余裕も無く数週間が過ぎていきました。「あの8日間は、夢だったんじゃあないだろうか?」と思ってしまうぐらいギャップを感じます。
【写真:整備された植物園】
  
 しかし、6月7日〜14日と言う長期旅行で体験したいくつもの経験は、貴重なものばかりでした。観光の方も北海道程の島の中に世界遺産が7ヶ所もあり見所がいっぱいあって書ききれません。仏教寺院があちらこちらに点在し石仏・遺跡は、すばらしく荘厳でした。多分、このまま冷戦時代が続いたり、外国からの観光客が増えてしまうと世界遺産を守る為に今までのように目の前で見れなくなってしまうかも知れません・・・

【写真:美しい仏像】
生い茂る草花、巨大な木、自由奔放に動き回る動物達、道端や軒先にでもたわわに実る果物、豊かな水、温和な人々、広大なインド洋から2000mの高地まで、とても一言で語れるものではありません。

【写真:テレコムの担当女史」

また、どれも困難に思われた『全員の運用許可書取得』『現地でのアマチュア無線』『政府観光局との懇親会』『アーサー・C・クラーク先生の面会』など全てうまくいったと言っていいと思います。

【写真:アーサー・C・クラーク先生と一緒に】 
来年は、日本との国交50周年にあたり記念式典も行うようで2ヶ国合同記念局を開局する予定だと聞きました。私は、怖いとか危ないとか感じませんでしたが日本の外務省からは、危険度の高い国とされています。
日本にいても安全と言う保証のない今日この頃、行ってみる価値は十分にあると思いますので皆さんスリランカに一度行ってみませんか?




「2002年スリランカ再び・・・」編

☆ 番 外 編 − 2002年 スリランカふたたび・・・

 私の初海外旅行から1年以上が経ちました・・・今回は、スリランカと日本との国交50周年を記念してメンバーを増やし再度スリランカツアーが計画されており、もちろん私も参加することにしました。

 スリランカでは、最近の選挙で大統領が代わり、国政も大幅な変更が有りました。当然政府機関である政府観光局の状勢も変わってしまい当初の計画通りに進みませんでした。出発間際のホテル変更、それに伴う行程のズレ、スリランカに打合せに行ったまま音信不通のナレンドラさん、諸々の問題を抱えて長谷川団長や宮本さんは、本当に大変だったと思います。(間際まで伊丹―成田間の予約が取れていなかったらしく最後までハラハラしました) 行程も一向に定まらない8月11日に旅行説明会が池田市民会館で開かれました。メンバーは、未定の人も入れて30数名、大人数です。その後、いつもの石橋の「ごん兵衛」に移動して壮行会も賑やかでした。 また出発前の9月14日には、池田の田中さん宅に集合しアンテナの部品チェックや組み立ての手順など打合せを行い準備万端で出発の日を待ちました。

9月18日
 いよいよ出発を明日にひかえて荷物(約25Kg)や書類のチェックをしたり、目覚ましの設定をしたり。今年から空港行きのバスが、阪神尼崎からも出るようになったので“助かった♪”と思いました。
 集合時間が7時という事で“何時に起きよかな?”と時刻表を調べると6時台のバスは、6:05の一便だけ・・・これに乗ろうと思えば阪神電車の5:45に乗らないと間に合わないので結局4:30に目覚ましを設定して蒲団に潜り込みました。

9月19日
 4:30 起床、目覚めて直ぐにつけたテレビのニュースでスリランカ政府と対立しているテロ組織がインドネシアで今日会合する事が決定し和解に向けて一歩前進との報道があり、スリランカ出発当日に明るいニュースが聞けたのも何かの縁でしょうか?

 5:35 自宅出発、阪神尼崎から伊丹空港までの直通便が出来て喜びましたが早朝で便が限られ結局5時半には、家を出ないといけない羽目になってしまった。家を出て駅に向かいましたが旅行ケースのキャスター音が大きく響きわたり早朝なので困りました・・・

 5:49 阪神電車、こんな時間に乗るなんてスキーバスで早朝帰ってきた時以来でした。

 6:05 空港行きバス発車(運賃¥600円 JR尼崎経由)平日という事もあってビジネスマンも多く見受けられ結構混んでいました。

 6:40 大阪空港到着 今回のツアーは、32名。参加者は、長谷川ご夫妻・宮本ご夫妻・安孫子さん・小永井ご夫妻・武市ご夫妻・大村ご夫妻・西川さん・海老原さん・田中さん(和歌山)・岩崎さん・野添さん・田中さん(QHQ)・中浴さん・大串さん・下釜さん・山田さん・宮川さん・白原ご夫妻・山村さん・谷川さん・柳本さん・尾崎さん・川口さん・近藤さん・野村さん・私で中には、アマチュア無線を持っていない一般のメンバーもいました。全員が集合したところで最新の行程表とICOM贈のTシャツを一人一人に配りました。
搭乗開始

 8:40 JAL 大阪発→成田着搭乗

 9:40 成田到着、スリランカン航空搭乗まで自由時間、喫茶店でコーヒータイム。(昨年より待ち時間が短く感じた)

 12:30 搭乗開始  出国書類は、書かなくてもよくなっていました。長谷川さんの奥さんと世話人の奥さんんのバースデイプレゼントを買いに行き、悩んだ末、シャネルNo,5のオーデコロンに決定!今年の搭乗者は、結構多いみたいだけど、やっぱりモルジブのせい?

 13:20 コロンボに向けて出発!スリランカン航空は、なんとマーレ(モルジブ)経由でコロンボに着くようになっていました。魔の昼食と夕食付


 23:00 マーレ到着(マーレとコロンボの時差、1時間) コロンボ行きの乗客を残したまま清掃が始まる掃除が終わるとマーレからコロンボに行く乗客が続々と乗り込んで来た。クリケットの国際試合がキャンディーで開催されているからか結構搭乗者が多くて驚きました。

 24:00 マーレ出発   サンドウィッチが出されたけど食べられませんでした。(夜食?)
 1:30 コロンボ到着、12時間は、長かった・・・ 入国カウンターを出ると去年は、ずら〜っと並んでいた電気製品のお店は、1軒も無くなっていました。去年、私たちが帰国して1ヵ月後に空港が爆破テロのため被害を受けたと報道がありましたが、見たところ何の変化も無かったような至って平和な感じでした。(日本とコロンボの時差、3時間)


 (22:30) 現地時間に修正 22名の運用許可書が届きました。荷物検査もなく全員無事に空港ロビーに出ることができ、そこで許可書を個人に配布。宮川さんの許可書が2枚あり、山村さんの許可書に山田さんの写真を貼り間違い、山田さんの許可書が無い事が発覚。スリランカルピーに換金 2万円=15530ルピー。去年が、14630ルピーだったので少し円高なのかな?深 夜  空港のロビーで花輪をかけてもらい観光バスに乗り込みました。これからダンブッラのカルチャークラブに向うのです。今回、お世話になるガイドさんは、サラさんで運転手さん1名とサポートが1名。夜食に美味しいバナナとパイナップルがでました。

 9月20日
 3:30 カルチャークラブに到着。早朝にもかかわらず多数出迎えがあり、ここでも火を灯す歓迎の儀式がありました。

 ラウンジで誕生祝いがありましたが相変わらずケーキは、めちゃくちゃ甘い!部屋割りをすることになり、このホテルしかないという『エコロジールーム』なるものが10部屋用意されていましたが、床が牛糞で出来ているらしいという事だけで詳細も判らず高級と言う言葉を信じてご夫婦とゲストに割振ることになりました。野村真弓さん(以後まゆみさんという)と同室です


 このホテルもコテージ式になっており敷地も広大で部屋までが遠いこと・・・部屋に着いてみると確かに『エコロジールーム』という事でクーラー無し、窓も木の格子があるだけでガラスは入っていないため虫も入り放題、蚊も多くトイレも一応水洗になっているものの木枠の座りにくいものでした。ベッドには、蚊帳がついているけど数箇所刺されてしまいました。未明  就寝

 10:00 起床   アンテナ設営後、食事。ICOMのTシャツを着て記念撮影をしたが、まゆみさんと2人集合写真に入れなかった・・・   実は、Tシャツを着て行かなかったため着替えに帰ったが2度にわたり道に迷ってしまい、なかなか部屋に辿り着けず遅くなってしまったのでした。なんとまゆみさんも方向音痴だそうです・・・その後、アーユルベーダを希望するメンバーが問診を受けに行きました。もちろん私も希望者の一人で問診の結果、今晩10:00からに決定。名目は、肩こり(スティック・ショルダー)治療です。
エコロジールームの評判が悪いらしく長谷川さんから「部屋変わるか?」と聞かれて「別に今のままでも・・・」と言ったのに部屋を出てフロントに向かう途中にボーイから「ルームチェンジ37」と言われクーラーつきの現代ルームに移動となりました。


 13:00 観光に出発 ダンブッラの石窟寺院見学、岩山の隙間に白い壁が続きその奥に何部屋にも区切られた石窟の中に涅槃像や仏像がまつられており、漆くいで固められた壁には、美しい壁画が書かれています。  木彫り工場見学→ロウ染め見学→町散策→ホテル。
ホテルに戻るとレストランの上のホールでサリーの販売が行なわれていました。奥さん達に見てもらいグリーンに金の刺繍があるサリーに決めました。5500ルピー(約¥7000円程)で服は、仕立ててくれるということでサイズを測ってもらいました。
 
 長谷川さんご夫婦・まゆみさん達は、7:30からアーユルベーダで夕食は、別々になりました。9:30頃“少し早いかなぁ?”と思いながらもアーユルベーダを受けに向いました。人の話では、パンツを残し丸裸でオイルマッサージを受けスチームサウナ、浴槽風呂、ハーブティーで終わると聞いていました。まずバスタオルをひいた木のベッドのある小部屋に通され、服を脱ぐように促されました。パンツ一丁になってベッドの方に行こうとするとパンツも脱ぐように言われ仕方なくパンツも脱いでベッドにうつ伏せになると、オイルマッサージが始まり背中・手・お尻・足まで行くと「ターン」と言う声がしました。“えっ!?う・上向くの・・・?”と少し戸惑いましたが意を決して上を向きました。
 
 恥ずかしいやら、気持ちがいいやら・・・複雑な気持ちでされるがまま状態です。身体のマッサージが終わると椅子に座り頭のマッサージ、部屋を替わってスチームサウナをしましたが、全くと言っていいほど汗は、出ませんでした。(なんでだろう?)皆が「これが一番気持ちよかった!」と言ってただけに悔しい〜その後、薬草風呂でお風呂からあがり、着替えてハーブティーを飲むと終了。料金は、3000ルピー(約¥4000円)でしたが10時前から12時過ぎまでたっぷり2時間半のマッサージでした。
 汗をかけなかったのは、心残りでしたが血行もよくなって気持ちよくクーラーの効いた部屋で眠りにつきました。
9月21日
 6:00 モーニングコールで起きだし、朝食に向う。


 7:00 シーギリヤの観光に出発。満月のお祭り後の土日で観光者が多いと予測し早目の出発となった。シーギリヤに到着、2度目の観光が始まりました。険しい階段で息を切らしながら登って行きましたが時間を早めにしたのが良かったのか、前回すずなりで身動きもままならなかった壁画までの螺旋階段もスムーズに登り降りできました。よく見ると横に新しい階段を造っていたので登り用と降り用が出来るようです。
 頂上に到着しひとしきり写真撮影などして帰り道を行くと七不思議の一つの貯水池が見えてきましたが、ここ4ヶ月ぐらい雨が降っていないという事で水位が下がっていました。全般的に水不足になっているということでした。
 途中、コブラを笛で操っている蛇使いのお兄さんがいて2〜3mぐらいのアナコンダを首にかけてくれるというのでまゆみさんが挑戦しました。引き続き山村さんも挑戦しましたが一人100ルピー取られたそうです。出口に近づいてくるとやけにお土産やが、目につくようになり“やっぱり、こっちの方が出口らしいわ”と実感しました。また今回は、体調を崩す人も出ず道を間違わず降りることができ無事バスまでたどり着くことが出来ました。

 お昼をまわっていましたが、昼食は、ホテルで取ることに成っていたので、急いでホテルに戻りました。
今回は、無線室に冷蔵庫を借りていたので無線班も飲み放題のようでしたが、ビール1本300ルピー(約¥400円)で、今回も飲み代が赤字になるのは、間違いないようです。


 昼食も終わり午後からの観光は、サファリ見学です。前日ガイドのサラさんから「ゾウにのりたいひといますか?」と聞かれ、多数手を上げましたが「イットウに4ニンのって3000ルピー」と聞いて乗りたい人は、いなくなっていました。2200ルピーにするということで集まった人は、25名でした。象の乗り場につくと3頭しかおらず6人づつ乗っても乗り切れず「話が違う!」と言ってはみたものの、結局、宮本ご夫妻・大村ご夫妻・海老原さん・和歌山の田中さん・私が居残り組みになりました。私は、象チームとジープチームに分かれるのかと思っていると象チームが帰ってきたらジープのサファリにでかけるという事らしいのですが、その時点で3時半、“観光大臣のレセプションで6時に帰ることになっているのに大丈夫かなぁ”と思いつつも居残り組みの話も盛り上がっていました。
 
やっと象チームが戻ったので急いでジープ乗り場にバスで移動、5台のジープに乗り込みサファリへ!と言っても車と人の行き交う道を走り続けました。その途中、「あっ!ここ去年来たディア・パーク・ホテルの近所とちゃう!?」という声が聞こえたので、外を見ると見覚えのある政府の軍事基地の門がありました。「ギリタレって今泊まってるダンブッラと近かったんや」と懐かしさがこみ上げてきました。

 
私の乗っているジープは、先頭で運転手は、リーダーのようです。デコボコ道を猛スピードで走るので何か掴んでないと振り落とされそう、後続車もついてこれないため、途中で待っていないといけません。“待つんなら、ゆっくり走ればいいのに・・・”と思いながらあんまり早いので“いったい何キロで走ってるんやろ?”と思いスピードメーターを覗き込むと「0・・・?!」。なんと速度計は、0を指しているではありませんか!よくよく観察しているとハンドルも90度にした状態で直進しているみたいだし・・・怖いを通り越して思わず笑ってしまいました。
 
見た動物は、数の多い順に牛・人・ノラ象・孔雀・犬・キツネ・・・でバスの中からでも見れた動物ばっかりでした。時間だけが刻々と過ぎており草原に出たときには、6時をまわっていました。
 大慌てでバスに戻ったのが6時半、とっくに時間オーバーです。ホテルに帰ると7時過ぎ、「レセプションは、8:15から、8時に集合」という事なので急いで服を着替えてフロントに向いました。
 レセプションは、ロウソクの仄かな灯りでライトアップされたで湖畔で行なわれ、明日日本に出発すると言う観光大臣をかこみ何とか無事終了しました。
 この日、観光で寄ったロウケツ染で購入した民族衣装をまとった、まゆみさんの美しさに男性人は、メロメロ状態でした。

9月22日
 今朝は、早朝のバードウォッチングから始まりました。が、私とまゆみさんは、寝る方を選んでしまいました。この日は、フリータイムの予定でしたが、明日のヌワラエリアへの移動が大変という事で23日予定だったスパイスガーデンとヒンズー教寺院見学を今日することになっていました。私は、少しのんびりしたかったので観光をやめて無線でもすることにしました。

  朝食が終わり観光チームも出発したので長谷川さん、田中さん(QHQ)、野添さん、中浴さん、私とホテルのショップに水着を見に行きました。男性用は1200ルピーぐらい女性用で2500ルピーぐらい「光ちゃんも買いいな」と言われて少し迷ったけど「あまり好みのデザインが無いから・・・」と結局買いませんでした。
 
 まゆみさんは、観光に出かけたので一人部屋で荷物の整理をしたり、少しのんびりしてから無線室、第2サティアン(57号室、1号室が、第1サティアン)に行ってみました。大村さんの奥さんがCQを出していたので聞いていると「次は、阪本さんやで!」と言われ「大村さんが今やってはるやん!」と抵抗しましたが「後3局で区切り付から代わりましょう」と大村さんに言われてしまいました。その時の電波状態も良く、JAからパイルを受けていました。バトンタッチしてからもパイルは、続いており四苦八苦しながらQSOしていました。
 しばらくすると観光チームが戻ってきて第2サティアンに押掛けてきたため無線もパイル、部屋の中もパイル状態になり、ビートをかけられるわ、騒がしくて聞こえないわで、22局目と交信して早々に交代しました。
 その後、小永井さんの部屋43号室でサリーの寸法直しをするため集合しました。長谷川さんの奥さん、宮本さんの奥さん、小永井さんの奥さん、大村さんの奥さん、尾崎さん、柳本さん、私の女性7人と、コナ爺、大村さんのご主人とで賑やかに雑談をしているうちに夕食の時間になってしまいました。
 夕食時、レストランで9月生まれの海老原さん、宮川さん、中浴さん、長谷川さんの奥さん、宮本さんの奥さん、チャンパーさんの6人分まとめて誕生会を行いました。宮本さんの奥さんは、チャイナ服姿で大変キュートでした。賑やかにカルチャー・クラブでの最後の夜も更けていきました・・・

9月23日
 6:00 カルチャー・クラブ出発(朝食サンドウィッチのお弁当)キャンディの仏歯寺到着、裸足になり荷物検査をして寺院内へ。今回も一般参拝のできない仏歯を奉った塔まで見学できることになり、塔の入口で一人200ルピーのお志を集めました。

 武市さんの奥さんにお供えの花をもらい本殿に向いましたが今回は、まだあのおなかに響く太鼓の演奏をしていませんでした。

 参拝の時間になり塔の入口に案内され狭い階段を登っていきました。参拝も終わり、標高2000m以上にあるヌワラエリアに向けてバスが出発しました。
 お昼もお弁当でしたが、少し時間に余裕が出来たのでバスの中で食べないで鳥の足・サンドイッチなどが入ったお弁当を滝が見えるレストランで食べることになりました。
 昼食も済み、再び走り続け標高が1500mを越えたぐらいで茶畑が目立つようになってきました。
 頭から大きな袋を下げて茶摘をしている人々が茶畑の急斜面にへばりつくように作業している姿を「あっ!やぎ。」と私が間違って叫んでしまったので、その後ず〜っと「あ、あそこにもやぎがおるわ」と言われ続けました。
 
 標高2200mを越えるともうすぐヌワラエリアに到着です。グランドホテルに到着するとすぐに服(ピンクのワンピー)を着替えてヌワラエリア市役所に市長訪問です。役所のスタッフや町民の歓迎を受け、入り口で市長と握手した後、国旗掲揚があり物々しい限りです。2階の広い部屋に通されレセプションが始まりました。そこで先方の勘違いもあり『宇治問題』が勃発してしまいました。


 その1時間後、市長主催の歓迎晩餐会にむけてサリー購入組は、長谷川さんの部屋で着付けてもらいました。その上私は、図々しくアクセサリーまでお借りしてしまいました。サリーの着付けが終わり廊下を歩いているとボーイさんに「オー、マダム、ビューティフル!」と言われ、お世辞とわかっても悪い気は、しませんでした。
 晩餐会も終わり服も着替えたところで忘れ物に気づき長谷川さんの部屋に行くと長谷川さん、宮本さん、安孫子さん、武市さん、小永井さんと渋い顔で『宇治問題』について話をしていました。“ま、まずい・・・”と思いましたが後の祭りで「QHQを呼んできて」と言われ、ホテルのラウンジで楽しんでいる田中さんを呼びに行き、そのまま一緒に話を聞く事になってしまいました。
 その他、このヌワラエリアでは『まゆみさんお友達問題』など問題続きで団長も大変だったと思います。その後『宇治問題』は、話し合いで何とか落ち着いたようでした。   

9月24日 
 7:00 起床 随時朝食

 8:30 紅茶工場見学(団長・宮本さん・武市さんは、公園で植樹祭) 交通事故がホテルの近所であったらしくざわめく道路を避け別路で紅茶工場へ、工場見学の後、販売店に入るや否やお土産用に購入者が殺到し、30分程のあいだに紅茶売り切れ・・・やっぱり日本人ってすごい!私もホテルに残った無線班から託っていたのでわずかに残っていたB.O.P.Fを買い占めました。

 サラさんは、お土産を買う時間を15分ぐらいに設定して9時半に工場を出て10時には、ホテルに戻る予定だったらしく10時になった時計を見て、「また、しかられますね・・・」と呟いていました。

 10:30 ホテルに戻り、荷物の積み込み開始。

 11:00 ベントッタに向け出発 途中、トイレ休憩の際に小永井さんの奥さんが小指を有刺鉄線で怪我し出血が多かったので取敢えず手持ちのバンドエイドで応急手当をしました。今日のホテルは、観光大臣のご好意により「ベントッタ・ビーチ・ホテル」から五ツ星のシーサイドホテルの「TAJ・EXOTICA」に変更になっています。
 部屋割りも終わり夕食の集合時間を連絡するため、各部屋にまわっていると白原さんより「小永井さんの奥さんの怪我、病院で治療ないとあかんで」と言われ、私では決め兼ねるので長谷川さんに相談し、医師を呼んでもらいました。
 バタバタしていて服も着替えないでそのまま夕食へ、治療中の小永井夫婦は、直接レストランに来るように連絡済みですが、待てど暮らせど同室の安孫子さんと宮川さんが来ない・・・レストランに行っても「まだ来ないよ」と言われるし、部屋に電話しても出てこない、心配になって部屋に行っても誰も出てこないし、あきらめてレストランに戻ると2人が居るではありませんか!部屋でメール受信してたら遅刻したんだって・・・ちょっとムッとしましたが本当に安心しました。


 乾杯の後に自己紹介、夕食、その後有志でカクテルパーティーを行いスリランカの感想とかを話しました。ほろ酔い気分で部屋に帰る途中、なんか目が痒くなり擦ったら今度は、ゴロゴロしてきました。目薬を持っていたので注しましたが治らないので安孫子さんと宮川さんの部屋に行き見てもらいました。
 「赤くなってるよ」と言うので洗面所で見てみると白目に水脹れのようなものが出来ているではありませんか!驚いてもう一度見てもらったら「一度お医者さんに診てもらったほうがいいで」という事になり長谷川さんの部屋に電話するものの通じない・・・直接部屋に行こうと部屋をでたのが11時過ぎでした。
 
申し訳ない気持ちで長谷川さんの部屋に行き、医師に連絡をしてもらうためにガイドのサラさんの部屋へ行ってノックしました。「なんや、ここにおったんか!」と事情を話しお医者さんに連絡(自宅)をとってもらいました。待つこと30分ほど、女医さんが鞄を持って来てくれました。診断の結果、長谷川さんの言うとおり目のアレルギーと判明し飲み薬と軟膏をもらいました。診察が終わると「症状も軽かったし、これで安心して寝れるやろ」と長谷川さんに言われました。

 診察が終わったのは、夜中の1時・・・外国での診察でしかも深夜往診なので恐る恐る診察料を聞いてみると、「2000ルピー」との事、「えっ!?2000ルピー?」と思わず聞きなおしてしまいました。
 ちなみに今日の夕方、小永井さんの奥さんも同じ先生に来てもらい治療費が1000ルピー、去年DUEが火傷してキャンディーで診てもらったのは、5000ルピーでした。日本円にすると2000ルピー=約2600円、深夜往診で保険もきかないのに良心的な先生で本当に良かったです。ちなみに“なぜ長谷川さんの部屋にもナレンドラさんの部屋にも電話が掛からなかったのか?”というと、深夜11時以降、お客さんの眠りの妨げにならないよう部屋への電話は、つながらないようになっており、これはホテルのサービスの一環だそうです。
 取敢えず診断書兼領収書を書いていただき部屋へ帰り無線室に遊びに行っているまゆみさんの帰りを待って就寝しました。

9月25日 最終日
 9:00 Taj ベントッタ出発 途中、海岸のヤシの木林で作っているヤシのお酒を試飲。去年も2回行った『kinjo』という中華料理屋さんで昼食を済ませお店のおトイレに行くと先に女性が並んでいました。“・・・中国人かな?”と思ったら「なんかこのトイレ水が流れないみたいですね」と日本語で話し掛けられてビックリ!「観光で来られたんですか?」と聞くと「そうです」とのこと。

 去年は、コロンボのTajホテルで仕事のためにスリランカに来たという日本人一人に出会い、その人に「何でこんなところに来られたんですか!?」と言われたぐらいなのに今回は、日本からのツアーも多くなったみたいで、いろんな所で日本人に出くわします。話も盛り上がり、トイレから出ると店の中には、誰もいなくなっていて、慌てて外に出るとバスの中で待ってくれていました。
私 「す、すいませ〜ん!」
長谷川さん「長いトイレやなぁ」
私 「トイレの前でさっきの日本人女性と盛り上がってたもんで・・・」
宮本さん 「大丈夫や、それ持ってるからおいていけへんわ」
私 「あぁ、飛行機の券全員分私が持ってるもんね」
そういう訳で、取り残されることもなくバスは、出発しました。

 次にとまったところは、ジュエリーショップ。数名のメンバーは、目を輝かやかせて宝石を見ています。谷川さんが「12月の誕生石ってなに?」ときくので「店員に聞いたら判ると思うけど・・・」と言ってバスに帰りました。しばらくしたら谷川さんが戻ってきて「これが誕生石です」と紫色の宝石を見せてくれました。「彼女のプレゼント?」と聞くと「12月の誕生石を聞いたら店員がこれをくれた」との事。しかも、わざわざ小さいのを1カラットにかえてくれたとか・・・「これ一粒8ドル(千円未満)らしい」でもラッキー!に違いないですよね。

 そのころ宮本夫妻、安孫子さん、QHQ、中浴さん、野添さん、武市さんは、去年行った『さくら』という日本料理店を探しに行ってついでにマクドナルドや本屋によってコロンボの街中を散策していました。
 宝石の次は、お土産屋さんです。着いたところは、去年も寄ったお土産やさんで、皆思い思いのお土産を物色していました。途中、去年宿泊したインド洋沿いのTajホテルの近くでティータイムをした時には、昨年は、延々と張り巡らされていたフェンスが撤去されて海岸では、凧を揚げたり芝生に上に座ったりして遊んでいるのには、驚きました。

 時間も少ないという事で早々に買い物を済ませバスに乗り込み、首都『スリ・ジャヤヤワルダナプラ・コーッテ』、旧国会議事堂など見ながら空港に向いました。空港は、見た目厳戒態勢ですが、去年のようなバスのチェックも無く空港ロビー前に到着しました。ガイドのサラさんとは、空港でお別れです。「光さん、あと空港券のチェックインお願いします」と言われ困惑しながらもなんとか無事に空港内に入りました。
 空港でもあれやこれやとフライトの時間ギリギリまでお土産を買ってしまいました。搭乗が始まり、これでスリランカともお別れです。「来年は、絶対島で運用して、ニューIOTAを作るぞ!」と皆の気持ちは、もう来年のスリランカに飛んでいました。