震災10周年に思う

 2005年1月17日は、阪神大震災から10周年の記念日です。あの夜明け前の出来事は今も鮮烈な記憶として残っています。
 神戸の悲しい日々も徐々に復興の槌音とともに落ち着きを取り戻しかけたころ我が家に一大事が起こりました。それはまだ神戸に町が必死にもがいていた夏のある日予想もしない出来事が母の身に起こりました。
 幸い九死に一生を得て見事に蘇ることが出来一族に囲まれて全快を喜び合った母でしたがその後新たな病が見つかりその翌年に永遠の旅立ちをしました。
 
 震災から10年を迎えるにあたって6600人の犠牲者への鎮魂の思いとともに、あのころ書きとめた母の闘病日記からヤケドの治療について少しばかり参考になればという気持ちを込め母を偲んでみました。
 私の年齢までまだ両親が健在という家がどの程度の割合かわかりませんが、父を送り祖母を送りそして母を送った後、家族4人となったとき何か不思議な寂しさを感じたことを思いだします。
 スマトラ沖の津波災害に揺れた年末年始は筆舌に尽くせない思いがありますが、まさに南海・ 東南海地震が近いという事実は避けられないことであることを認識しながら日常の心がけを忘れないようにしたいと思っています。             「2005.1.12記」

 
おばあちゃんの仮説住宅
プロローグ

 阪神大震災も交通機関のいち早い復旧により神戸に町に復興の兆しが見られたその夏、母が仏壇のロウソクから火傷を負ってしまいました。病院ならどこも同じ治療をしてくれるという淡い思いなど微塵に砕けるという経験をとおして、看病する側の家族の判断ミスが患者の負担と大きな代償を支払うという経験談です。186日間の我が家の経験から同じ思いの方も多いのではないかと思います。
 そして医師の裁量権や人としてのモラルやレベルを改めて思い直す機会にしたいものです。
 本 編
 1995年10月、1月17日突如起こった忌まわしい阪神大震災から初めての秋を迎えました。神戸沖に浮かぶ人工島ポートアイランドにある神戸市立中央市民病院のまわりの港湾施設には震災の爪痕があちこちに残っています。
 おばあちゃん〔子どもたちのおばあちゃんで、私の母のことです〕が、最初の入院先からやっとの思いで転院を果たした10月13日、病棟11階から望む神戸の町は遠目には変わりはないものの、周辺の空き地には震災のモニュメントのような仮設住宅が広がっています。

 阪神大震災では震源地から近いにもかかわらず我が家は難を免れました。無事を喜んだのも束の間、そのあと体験した不自由さは記録的なものでした。
 水もガスもない不自由な中、我が家の辛抱強さの一番は唯一の戦争体験者であるおぱあちゃんでした。震災を無事に乗り越えたはずのおばあちゃんがその年の夏、地震よりもずっと恐ろしい体験をすることになってしまいました。

 8月1日の朝のことでした。我が家で一番の早起きはもちろんおばあちゃんです。その日はお寺さんがお盆参りに来る日になっていました。朝早くから仏壇の掃除や花の水替えやら忙しく動き回っていたようです。おぱあちゃんの寝室は一階の仏間で、私たちは2階が生活のべ一スになっています。

 朝の6時前だったでしょうか階下から突然「敏子さーん」と言う叫び声が聞こえました。私はまだ眠りの中にいましたが驚いて目を覚ましました。呼ばれた家内の敏子さんは急いで階下のおばあちゃんのところに行きました。私は寝床の中で下の様子を伺っていましたがただならない様子です。
 耳を澄ますとおぱあちゃんが火傷をしたとの呼び声です。異変に気づいて起き出した娘の明里に「おぱあちゃんを風呂場に連れていって服のままで良いから水をかけ、火傷の箇所を冷やしなさい」と命じ、私はすぐに病院の手配にかかりました。とにかく119番に電話を入れ火傷の手当てが可能な病院を聞きだしました。
 同時におぱあちゃんのお馴染みの病院に電話をすると当直が内科医なので処置が出来ないと断られました。
 救急車を呼べば良いのでしょうが8年程前、私の祖母つまりおばあちゃんの母を救急車で搬送したことがあります。昼ごろだったのにも関わらず近所の注目になったことを思いだしました。早朝ですからピーポーの音は近所に迷惑をかけます。119番には私が搬送する旨を伝え外科医が宿直していた垂水駅近くのJ救急病院に向かいました。

 明里もつき添って10分後病院に着きました。眠そうに医師が白衣に腕を通しながら診察室に入ってきました。その時点で初めて火傷の全体を見ました。仏壇のロウソクの火が脇の下から服に燃え移ったもので、右脇から上腕部にかけて広範囲の火傷です。髪の毛も少し焦げて右の手のひらと指も色が変わっています。特に右脇腹から背中にかけてはひどい火傷です。
 しかし担当医の治療はいとも簡単で、私たちがかすり傷をつくった時に塗る黄色い消毒液をガーゼに浸して火傷に張りつけ包帯を巻き、その後点滴を一本施しました。あっけないほどの処置でしたから私も少し油断をすることになったのかも知れません。
 担当医が処置をする前に看護婦に「クリームは・・?」と尋ねたのが聞こえました。看護婦は首を横に振って「無いんです」と小さい声で答えました。おかしな会話をするものだと思いましたが、アルバイトの当直医が処置をしてくれたことを後から聞きました。治療のあと様子が変わったら来てくださいと言われ帰宅することにしました。家に戻ったのは朝7時50分でした。

 おばあちゃんは自分の足で病院の行き帰りをこなしました。相当大きな火傷なのにしっかりとしていたのはやはり大正人間特有の震災で見せた我慢強さだったのでしょうか。
 私が出勤した後は、急を聞きつけてやって来てくれた姉たちと昼食をとりながら談笑をしたようですが、3時頃再び家に戻ったときにはさすがに元気がなく横になっていました。
 早速病院と連絡を取りその朝、内科医しかいなかったおばあちゃんがお気に入りのO病院の玄関をくぐったのは夕方の診察が開始された午後5時のことでした。

 家から車で5分以内で行けるこの病院では、おばあちゃんの顔馴染みのO院長が主治医です。診察室に入り症状を見たあとてきぱきと処置をしてくれました。感染防止用のゲーベンクリームをたっぷりとガーゼに塗り傷口につけてくれました。
 そのとき朝のJ救急病院になかったのがこのゲーベンだと言うことがわかりました。朝とは全く異なる安心感のある処置でした。おばあちゃんに「これで大丈夫だから・・・」と話した事を覚えています。

 ところが処置が終わりレントゲン室に入った途端、それまでシャンとしていたおばあちゃんが突然立てなくなってしまいました。いくら小柄なおばあちゃんと言え力を抜くとその重さといったらありません。火傷にレントゲンが必要なのかと不思議に思えたのですが本人はもうグロッキーです。敏子さんの支えでは間に合いません。
 それでも容赦なく次は心電図を取ると看護婦に告げられました。今まで歩いていたおばあちゃんがそのころからグニャグニャになったのですから見かねたのでしょう検査は中止となりました。8月1日の夕方6時過ぎの入院でした。
 ベッドに寝かせしばらくつき添っていましたが落ち着きをみせたおばあちゃんの状態にホッとして我が家に戻ったのは面会時間が終わる夜9時すぎの事でした。

 入院後のおばあちゃんはO病院にとって良い患者ではなかったようです。火傷のショックのせいでしょうか何故この病院にいるのかよくわからないようで、帰りたい一心から点滴の管を引きちぎってベッドから離れたり、無理にトイレに行こうとベッドから落ちたり看護婦にとっては大変困った存在だったようです。
 入院したあくる日の夜、病院から電話が入りました。私の帰宅が遅い日でした。おばあちゃんが帰ると言って聞かないので家族の人に急ぎ来てほしいと呼び出しがありました。
 敏子さんがあわてて病院に駆けつけました。大騒ぎの夜になりました。これが原因で夜は睡眠薬を与えられたり静かにさせる為に何かの薬を飲まされていたようです。

 入院後二、三週間程するとあきらめたように初期のわがままはなくなりましたがそれとともに徐々にすべての意欲をなくし話の辻棲が合わないことが多くなりました。
 O病院の毎日は今から考えると母にとって最悪の日々だったのです。狭い病室は快適とは言えません。火傷のショック症状のストレスから食事の意欲が半減し症状も悪くなり、私たちとの会話も噛み合わなくなってしまいました。主治医からは「段々と頭がやられてきています。火傷は直せてもボケは直せません」と言い渡されました。
 結果的にはここでは火傷もボケも直せなかったばかりか、まったく基本的な処置をするレベルでなかったことを教訓として残しました。

 その頃のおばあちゃんの話は「夕べは交番の前で一晩待っていたのよ」とか「家に帰るのに誰かに馬に乗せて欲しいと頼んだらそんなものないと言われた…」とかの意味不明な事を口走り心配な状況でした。それでもこの時点では介助があれば歩行器に支えられてトイレにも行くことができました。そのうち食事をとる意欲がなくなってきました。毎朝届ける果物をお義理で少し食べる位です。
 入院してから段々弱っていくのですからただならぬ状況に向かっているのではないかと思えました。点滴が食事の代わりになってしまいました。

 体力が徐々に衰え始めた8月28日、主治医のO院長から植皮手術をすると告げられました。こんな体力で大丈夫ですかと尋ねましたが手術自体は難しくないので8月30日にやるとのことでした。
 この時書かされた手術の同意書は気乗りのしない患者側は口を出さないという内容でした。入院からちょうど30日目の手術となりました。

〔8月30日水曜日の連絡日記から〕
07:55
 明里と一緒にいつもより少し遅れて病院到着。手術のため朝食が無い。不安感の為だろうかトイレに行きたいと言い出す。ベッドから離れるのは至難の業だが、とにかく行きたいと聞かない。家族が行くと安心なのかじっとしておれないみたい。
 狭いトイレに明里と看護婦一人と合計3人がかりで運び込む。約30分間かかって成果なし。ちょっとした動きでも痛いのか顔が歪む。トイレを見届けて出勤。
【この時すでにかなりひどい褥創、俗に言う床ずれが起こっていました。】

12:00 
 仕事場から病院に到着、明里と合流。昼食もなし。手術前1時間。一寸元気がなく呼び掛けてもいつもより返事が少ない。上の入れ歯を外すよう促すがその意思がない。入れ歯が余りにも汚れているので明里が売店まで走り歯ブラシを買ってくる。
12:20
 明里の入れ歯掃除が始まる。歯磨き完了、下の歯はキャビネットの引き出しの上に置かれており、上下の噛み合わせは全く不可能。
12:50
 点滴開始。8月1日より注射だらけで点滴の針が入らない。失敗、失敗で腕をあきらめ三度目の正直はようやく足に。見るだけで痛々しい。
13:00
 手術室へ搬入準備開始。手術用ベッドヘ移動の際痛みに耐え兼ねて叫ぶ。「90才の年寄りにひどいことをしないで…」いつの間にか12才も歳をとったことになる。手術室まで見送り、昼食の為に一時帰宅。
14:20
 病院到着。明里、大起、姉たちと手術室隣の待合室で待機、約束の3時30分が過ぎていく。遅い。
17:00
 それまで手術室のドアの音がするたびに廊下に飛び出すがすべて空振り。ようやく手術が終わる。長い時間だった。すぐにICUへ。麻酔から覚めるまで一時帰宅。
19:30
 家族4人全員でICU室で再会。まだ意識がない。最高血圧147、最低69。酸素吸入姿が痛々しい。長い1日が終わろうとしている。

 日課となった病院通いでは、朝、昼、晩と食事をさせるのが最大の目的となりました。時間に遅れると食事はベッドの上に置かれたままで手がつけられていないのが通常です。
 家族が必ず来ると思われているのが原因でしょうが何もしてくれません。これがかえって気になり休むわけに行かなくなる作戦でしょうか・・・本人に食欲がないのが原因ですが、看護師の人手が明らかに少ないのも理由の一つです。病院の廊下には「当病院は入院患者○人に一人の看護婦を配置しています」と自信の張り紙が見られます。

 9月になってしまいました。新学期です。習慣となった朝の病院通いの後に通学することが難しくなった明里は学校の帰りに病院に直行するようになりました。
 手術後2週間で皮膚がつき、その後2週間で退院できるとの主治医の説明を信じ続けてきましたが素人目に観ても一向に回復しない症状に不安といらだちがつのりだしました。
 入院42日目の9月11日、秋の気配が濃くなるとともに私たち家族にも疲労感が漂ってきます。おばあちゃんには輸血、点滴、解熱剤と繰り返し同じ治療が続きますが良い兆候は見られません。

 変わりばえしない症状のまま、9月20日になってようやくICU室から407号室の一般病室にに転室しました。
 術後21日間のICU生活でした。病院の説明では看護婦の目が届きやすく処置が早いのでICUに留まって貰ったとのことでしたが、要するに他の部屋に空きベッドがなかった事が長居の理由のようです。その間も元気な患者が幾人も入れ代わり入ってきたことからもわかります。

 このICU集中治療室と言うところは居心地の良いところではありませんでした。冒頭で述べたように今から8年前、救急車で運ばれた私の祖母(おぱあちゃんの母)が息を引き取ったのがこの部屋でした。
 私にとっても強烈な思い出の部屋です。皮肉にも祖母が亡くなったベッドの真向かいに足を向け眠っているのがおばあちゃんです。いつもべったりだった相棒の祖母が呼んでいるのではないかとつまらない考えが頭をよぎった事を思い出します。
 
 この部屋の欠陥は何かと騒がしく落ち着かないことです。重症患者をサポートするための人工呼吸機や心電図やらの機械が絶えず警告音を発します。そのたびに看護婦が部屋に飛び込んでくる異様な部屋です。時折、声をあげるはずのない重症患者が断末魔のようなうめき声をあげます。おばあちゃんの意識がはっきりしていなかったのがむしろ幸いでした。
 一般病室が空くまでこの部屋に入院させられた軽傷患者もありこの人たちはさぞ落ち着かない夜を過ごしたことと思われます。でもなにより寂しいのは、この病室から事務的に運びだされる患者さんのことです。
 小さい病院ですから玄関に葬儀屋の車が来るとすぐ判ります。例外なくこの部屋を経由して永遠の退院をする人達です。おばあちゃんと運命をともにした戦友みたいな同室の人とのお別れにも幾度も遭遇しました。

 ICUから移された407号室は二人部屋です。先住人はSさんと言う女性で3か月も入院を続けている人です。この部屋に移るまではおばあちゃんがこの病院の中で一番見舞い客の多い患者と思っていましたが、このSさんの姪と言う21才の娘さんには脱帽しました。毎日明石から電車、バスを乗り継いで通院して食事を運びSさんの大好きな食べ物を調理したり話相手になっています。
 聞くところによると阪神大震災で会社が倒壊し人員整理にあい失業したそうです。短大を卒業して1年たらずのOL生活だったとのことでした。お陰で叔母さんの世話が出来ますと嬉しそうな笑顔が印象的でした。
 10月13日転院までの間、Sさんとおばあちゃんの二十日余りの同居生活でした。おばあちゃんが調子の良い日はそれでもSさんとお話ができたようです。Sさんがきょうはよく話ができましたよと報告してくれたものです。
 
 Sさんの病気を詮索するつもりは毛頭ありませんが毎日接しているとSさんの症状にも一向に回復の兆しが観られません。日増しに悪くなるような感じがします。今までに私が体験しだ何人かの知人の終焉と似ているような気がしてなりません。
 ある朝、Sさんがようやく起き上がり点滴のスタンドを杖がわりに洗面所までたどりつきました。歯磨きをしながら洗面台を抱きかかえるように泣いていた後ろ姿は忘れることができません。おばあちゃんの無表情な顔とSさんのすすり泣きには悲しくなってしまいました。あの日Sさんと別れてから3ケ月以上がたちました。Sさんの消息を確認するのが怖いように思えます。

 407号室に移ってから、おばあちゃんの容体を観察しているとますます変だと感じるようになりました。熱が下がらなくなったのです。病室に入って真先にするのが挨拶と同時におばあちゃんの額に手をやることです。
 ある日の朝、病室に入ってびっくりしました。瞼を閉じて眠ったままのおばあちゃんの目の窪みに水溜まりができているのです。顔中玉のような汗です。
 目に入ると痛いはずの汗が顔一杯に吹き出し目の窪みに溜まっている姿にさすがショックを受けました。自分で汗を拭うことも出来なくなったおばあちゃんの容体は重症以外の何ものでもありません。看護師に言うと「座薬を入れたので熱が下がりかけると汗が出ます」「気がついたら拭いておきます」との話でした。
 このような状況をみかねて主治医に面会を求めました。話によると皮膚の一部はつきはじめているがもう歳も歳だからどうなるか判らないとの説明です。そういえば祖母の入院のときも真っ先に言われたのがもう歳ですからという言葉でした。ものを売らねばならない業者がもう寿命です・・というのと似ているようです。

 そのころから見舞いに来た姉たちや叔母からこの病院に預けていても良いのかと厳しく私に問いかけてきます。おばあちゃんのお馴染みの病院ですからおばあちゃんにとっては一番居心地が良いはずの病院です。私はそれまでは疑いも抱かず主治医を信頼をしておばあちゃんを預けて来ました。でももしここが最良の治療施設でないのなら手遅れにならないうちに最善の病院を探すのが私の務めだと思うようになりました。
 再度主治医に面談を求め正直に思いを告げ相談をしました。O院長は「どこへ行っても同じですよ。これ以外の治療方法はありません。後は本人の生命力だけです」と答えました。
 私の不信感はこの時点で決定的になりました。断言するほどの治療をしているとは到底思えなかったからです。このままではおばあちゃんを死なせてしまうと感じました。同時に火傷の治療はどうするのがベストだろうと知りたくなりました。

 私の親しい知人に漫画家の高橋孟さんという方がいます。作家の田辺聖子さんの挿絵画家として、また新聞の政治漫画で有名な人です。その孟さんの主治医にS病院の元院長のN先生と言う方がおられます。このN先生は熱傷、つまり火傷の治療の権威です。私の心配を聞いた孟さんが見かねてN先生の病院に同行してくれました。N先生は現在、西宮にある外科病院の成形外科部長として動務しておられます。有馬温泉から北に車を進めたところにある病院でN先生にお会いしました。
 あいさつのあと「お母さんはお幾つですか?」と先生の質問がありました。78才だと答えると「それならまだ、大丈夫な歳ですね」という返事が帰ってきました。先生の話はもう歳だから覚悟しておけ式の話ではありませんでした。
 そこでおばあちゃんの火傷の治療には根本的な誤りがあることがわかりました。火傷は発生してから6時間以内の感染予防が不可欠です。条件が良くて8時間が限度だそうです。

 あの日の事を思い出すと私にも大きな過ちが思い起こされます。明里に頼んで20分程風呂場で水をかけたのは最良の処置でした。
 しかし火傷発生から30分後に搬入した救急病院には薬がありませんでした。アクリノール液で傷口を消毒して点滴をしてすぐに家に帰されました。
 そして姉たちが心配して駆けつけてくれました、お寿司を注文して一緒に食べたようです。そしてその日の夕方6時にO病院に入院させるまでの経過は既に述べました。
 この間の対応の遅れと病院選択に大きなミスがあったのです。この判断の失敗がおばあちゃんに半年間の入院生活を余儀なくさせてしまいました。火傷の患者を産婦人科病院へ搬入するものはまず居ないでしょうが、救急病院を患者が選べる状況にはまだ程遠いのが現状です。

 火傷の治療は皮膚科と形成外科とでは異なるのも初めて知りました。だだ基本は傷口からの細菌感染の予防を徹底することにつきるようです。一般病棟では、他の入院患者や見舞いの人の出入りが多く雑菌の巣窟みたいで最悪の状況とのことです。廊下を歩く人の埃でさえも患者に重大な影讐を与えるものだそうです。
 話を聞いているうちに思い当たる事が幾つも見あたりました。色々なアドバイスを受けているうちに一刻も早くおばあちゃんを最適の病院に移そうと決意しました。

 この頃からおばあちゃんの意識は混濁して喋ることもままならなくなってきました。おばあちゃんを救うには多くの方法はありません。要するに感染予防の設備のある病院に転院させる以外に道がないことを知りました。この付近では、兵庫県立西宮病院、神戸中央市民病院、神戸大学医学部付属病院そして兵庫医大病院にはこれらを満足できる設備と医師がいることがわかりました。
 N先生の勧めは神戸中央市民病院です。N先生は誠意をもって主治医に相談して転院ができるようにお願いしてみてはとの話でした。ただ慢性的にベッドが不足している中央市民病院ではベッドの確保が難しいので救急の手配をとり急患として搬入しなければ無理だろうとのアドバイスでした。
 医師の誇り高さは数々体験しています。プライドと実力が一致しなくてもです。うまく行くとは思いませんでしたが早速主治医に相談してみました。結果は案の定主治医のプライドを損なったのは言うまでもありません。
 「そう言うならN先生とやらに診察してもらって面倒をみてもらってください。」最悪の反応でした。このお願いで主治医と我が家との溝は修復できない状態に入ってしまいました。

 依然おばあちゃんの容体はブレーキが壊れた下り坂の自転車みたいです。こうなれば病院からの脱走も辞さないそんな思いでした。
 なぜ医師として最善の処置が出来ないのなら他の医師の力を借りないのでしょうか。プライドか経営か真意はわかりませんが人の命と医者のちっぽけな名誉とどちらが大切なのでしょうか。馬鹿げた医師の論理に憤りを覚えずにはおれませんでした。

 とにかく中央市民病院に出向く決心をしました。患者なしの問診に付き合ってくれるのか心配でした。
 私が所属するロータリークラブには8人の医者がいます。困った時には何時も友人がタイムリーなアドバイスをしてくれます。その中の一人外科医のFドクターに相談しました。彼は話を聞いて次のような事を言いました「医者の名誉よりも、お母さんの命の方が大切や。医師会の特別ルートの診察手順があるから今すぐ病院に行ったら・・今なら間に合う・・」とその場で書類を作ってくれました。
 10月7日、土曜日の朝のことでした。ただO院長と喧嘩はしないでほしいとの注文でした。同じ地域の医師会の野球チームで一緒だそうです。

 9月末に転院を考えだしてから、こんなに時間が経過してしまいました。11時30分中央市民病院2階の神戸医師会の窓口に到着しました。指定の言類に記入して、皮膚科の診療を希望しました。
 形成外科にしますかと聞かれたのですが、ボロボロになったおばあちゃんの傷跡が頭に浮かぴ、皮膚科の診察室の待合所に向かいました。
 これからの展開がどうなるのかとの不安を抱きながら順番を待ちました。診察は予約制ですが大勢の患者さんが待合所にいます。患者さんたちの話に耳を傾けると予約は11時だけれどいつも12時半頃になる・・と言う話が聞こえます。3時を過ぎるかなと覚悟を決めて待っていると予想外に早く名前を呼ばれました。

 担当はF医師。F先生との初めての出会いです。女性の名を呼んだはずなのに私一人を見て少しぴっくりされたようですが、紹介状と私の説明で事情は納得してくれました。とにかく良く話を聞いてくれます。
 先生の説明によると2か月も火傷の傷が直らないのは異常。感染が進行した状況で抗生剤の投与や点滴を続けても無駄。尿管を入れたままの状態や長期の点滴の針から細菌が混入しやすく発熱はその原因が濃厚だ。等々親切に説明をしてくれました。
 やはり専門医はみんな同じ事を言うものです。話が終わるとすぐに電話に向かい病室の確認をしてくれました。
 返事は病室が空き次第入院が可能だとのことで早くて10月11日頃ではないかとのことでした。早速入院申込み手続きをとりました。

 ここまでくると後はO院長への説得だけが課題となりました。これから主治医になろうとするF先生の書簡を手に何かしらホッとした気持ちでポートライナーに乗り込みました。
 崩れたままの岸壁や震災で無残にも落ちた阪神高速の橋桁を見ながら神戸の復興とおばあちゃんの生還とがオーバーラップした車窓からの眺めでした。
 その日の夜9時過ぎ、私の親書とF先生の手紙をO院長に手渡しました。そこまでは行動を起こすとは考えていなかったようで、返ってきた返事はあきらめたように「いつ移りますか?」と以外にあっさりとした一言でした。

 転院予定は早くて10月11日頃とのことでしたが、連絡があるはずの中央市民病院からは一向に電話が入りません。O病院の看護婦は顔を見るたび転院はいっですかと聞いてきます。まるで出て行くのを待っているような口ぶりで落ち着きません。入院から72日目の予定日10月11日は連絡が無いまま長い一日に感じました。

 あくる日の朝病室に入ると、ベッドが立てられてテーブルの上には朝食が置かれたままになっています。手はつけられていません。おばあちゃんは口を開けたままで眠っています。眠るというより意識が腺朧としているのです。
 緊急入院させても不思議ではない状況なのにどうしようもありません。たまりかねて中央市民病院に連絡をいれました。最初から事情を説明しましたが、もうしばらく待ってくださいとの返事しか返ってきませんでした。容体が悪いと告げるとどうしても不安なら救急車で連れてきてくれれば診察しますとの答えです。
 O病院のプライドを守るために、救急車さえ呼べない・・これができれば簡単に解決するのにのにどうしてこんな面倒な事になるのだろう・・こんな話を担当者と論争する気にもなりません。入ってしまえば出にくい病院の壁の厚さと転院の難しさをいやというほど味わいました。

 私の親しい友人にNさんと言う人がいます。元プロ野球選手です。Nさんの親しい友人に神戸市議会議長経験議員がいます。私も何度か会っているのですが、私が困っているのを聞いて話をしてくれました。
 市民病院は神戸市の施設です。一番無理が通るのが市会議員の働きかけだというのは私も知りすぎるくらい知っています。政治力を使うのは好きではありませんでしたがもう時間がありません。
 反則行為かも知れませんが命に関わることだと言い聞かせこの手段を執りました。連絡を受けた医事課の責任者はすぐに病室を手配してくれました。緊急に空けてもらった病室は11階の1日17,000円程のバス、トイレ電話付きの豪華な個室でした。そこがかろうじて空いていした。ただホテルみたいな部屋で重症患者を収容するための病室ではないとのことでしたがさすがにホットした思いでした。入院さえ出来れば何とかなる、そう思えたからです。

 10月12日転院決定前日、比較的熱は低かったもののおばあちゃんの意識はウツラウツラの状態になってしまいました。いよいよ明日中央市民病院へ転院することになったもののもし今夜容体が急変したら…と余計な思いが頭を過ってしまいます。その日は何とか無事に終わり待ちに待った翌朝を迎えました。

 10月13日午前8時、手配していた民間会社の寝台車が迎えに来ました。おばあちゃんの点滴はすでに外されています。点滴だけが生命線だったはずなのにあっさり外されてしまうと不安です。
 私と敏子さんが付添いです。途中でなにがあっても突っ走るだけの一発勝負のドライブです。それこそおばあちゃんの生命力だけが頼りです。
 何も知らないおばあちゃんを乗せて一路神戸に向かって走り出しました。震災で高速道路を無くした神戸の町は、秋だというのに大渋滞を繰り返しています。市街地の混雑を避けて山麓バイパスを経由しても病院到着まで1時間半を要しました。混雑がなければ30分で着く所です。おばあちゃんにとってあの日から74日目に触れた外の空気でした。

 待ち構えていた姉たちと病院で合流し11階南病棟の316号室のベッドに運ばれました。この日から主治医となったF先生の診察を受けました。
 診察のあとF先生から0院長からの手紙には投薬データが全く書かれていないのでどんな薬を飲んでいたか心当たりはありませんか?と尋ねられました。ここにまで来てまたかとがっかりしましたが、O病院で毎日つけていた連絡帳兼日記に薬の記号とメーカーをメモしていたのが幸いし役に立つことができました。
 患者を他の医師に託すときには今までの処置内容や経過を申し送ることは常識以前のマナーだと思うのですがまた一つ失望してしまいました。どんな処置をしていたかは診ればわかるだろうと死にそうな患者をただ追い出したような対応が情けなく思えました。治療の経緯を明らかにすれば不都合なことがあったのでしょうか。

 最初にF先生の診察を受けた後私から一つ質問をしました。それは私が一人で外来を訪ね説明した火傷の症状と、それによって先生が想像した症状とではどの程度の差があったかというものです。先生からは想像していたより随分ひどかったとの返事が返ってきました。
 事実、傷跡は手術から44日目になるというのに膿が溜まったようにベトベトで、むっとする臭気が漂っています。これがバイ菌に侵されている患部特有の臭いです。

 入院後すぐに病室の入口に粘着マットが置かれました。外からの入室者は手を消毒し靴を履きかえて白衣に着替えて入らなければならなくなりました。外と完全に遮断する目的です。話に聞いていた通りです。
 火傷の治療と平行してまず最初に始めた内科的な治療は、電解質のバランスをとることでした。栄養不足により意識障害が発生しているのではないかとの疑いでした。見事にこの予想が的中して治療開始後2日目におばあちゃんの意識が戻り話ができるようになりました。
 我々には奇跡が起こったように思えました。なぜもっと早く転院をしなかったのかと喜びよりも私の怠慢を悔やみました。この医療レベルの差はいったい何なのだろうとの思いが頭から抜けませんでした。

 話ができるようになってからすぐに植皮の再手術をする旨主治医から相談を受けました。先生は「言葉は適切ではあり,ませんがいちかばちか手術をやってみましょう」との提案でした。
 意識は戻ったものの体力は相当衰えています。前の病院で移植した皮膚は細菌に侵され腐ってしまっています。
 危険かも知れませんがおばあちゃんの生還には避けられない試練です。最後のチャンスに違いありません。今度はお腹から皮膚を採取し移植することになりました。お腹のたるみを利用して採取後の皮を縫い合わせ一本の線にして傷痕の面積を減らす方法をとるとのことです。
 O病院でのベッドに触れる側の背中の皮膚を採られた最初の手術はおばあちゃんには大きな負担でした。今度こそ医師を信頼して再手術に全てをかけることにしました。

 皮膚の移植は採取した皮膚を引き延ばして網状にして患部に張りつけるだけの何でもない手術ですがそのあとの処置が大切です。
 おばあちゃんの最初の手術は、背中から皮膚を取り傷口に移植しました。結果は採取された場所が新しい傷となって火傷の箇所を拡大したのと同じことになってしまいました。
 それよりも決定的な失敗は、火傷ばかりに気をとられていたために褥創と呼ばれる床ずれに気が回らなかったことです。病院もこの事を知らせてくれなかったのです。お尻のすぐ上の床ずれは肉がえぐられ骨まで達する傷になっていました。

 まさに命がけの再手術は適切に終え奇跡とも言える大成功で驚くほど早く回復を見せました。秋から季節が冬に移りかけた頃おばあちゃんの話も正常になり、動かなかった右腕に徐々に力が入るようになりました。リハビリの効果もでてきました。
 このころから火傷の傷の心配は全くなくなりました。ところが退院の障害になったのがこの褥創です。火山の噴火口そっくりの傷は見るだけでも驚きます。もしこの傷から感染すると生命に直接影響すると説明を受けました。その後も入院が続いたのは火傷ではなくこの為です。

 O病院は火傷の処置の際は、私も病室から出され治療の様子を見せてはくれませんでした。中央市民病院では傷口の処置の際、立会いを許してくれました。
 実は家族の対応も大事だからと主治医が見ていてくださいと呼び止めてくれるからです。このお陰で今おばあちゃんの治療に役立っています。全治までまだ2か月程度かかるこの傷の治療は毎日私が続けています。F先生からの直伝です。
 お正月は、病院も静かになります。せめて正月くらいは家で過ごさせてやろうと思うスタッフと、病院の人手が減少するタイミングが一致する時です。
 例外なくおばあちゃんにもチャンスが巡ってきました。待ちに待った3日間の仮退院です。大晦日の山麓バイパスは快適そのもので足取りも軽く病院に着きました。入院から6ケ月目にはいる前日おばあちゃんは初めて外の景色を自分の目で見ることができました。帰路についた国道2号線の阪神高速の復旧工事を見ながら「ひどいことになってるね」と感想をもらしました。

 正月三が日の一時退院の効果は目ざましいものがありました。記憶も正確になり足取りも随分しっかりしてきました。何よりも食欲が旺盛で、動かなかった右手で箸を持ちお節料理の黒豆を一生懸命つまもうと努力をしています。
 絶好調のため病院に戻るのを一日遅らせてもらい4泊5日のおぱあちゃんの自宅療養が終わりました。病院に戻ってからのおばあちゃんは先生も驚くほど元気になりました。あとは褥創の完治だけが目標です。
 年が明けた1月の中頃先生から提案を受けました。もう一度仮退院をして自宅療養をしてみてはどうかと言うものでした。調子が良けれぱそのまま退院ということにしても良いのではないかとの話でした。

 1月30日とうとうその日がやって来ました。おばあちゃんの頭には仮退院などとの意識は全くありません。もうここには戻らないと決意しているみたいです。
 荷物はそのまま病室に置いたままで構いませんとの看護婦の話でしたが、あれもこれもと指図して結局持参した旅行用バックに回りの荷物を全部詰め込みました。まるで海外旅行の帰りのような姿です。
 我が家での生活が再開したおばあちゃんは、入院前とまでは行かないものの元気さを取り戻しつつあります。ただO病院での入院についてはまったく覚えていないそうです。頭の中では「もうこのまま死んでしまうので、食べる必要がない」そう思っていたと話してくれました。

 長女として生まれ家からでることの少なかったおばあちゃんの初めての長期外出は、入院という思いがけないものでした。火傷という事故がおばあちゃんの人生のなかの大震災なら、O病院での入院生活は選択の余地がなかった不自由な避難所暮らしでした。そして多くの人たちの協力を得てやっとの思いでたどり着いた神戸中央市民病院の病室はおばあちゃんにとって、震災の被災者と同じ明日に向かって一人立ちするための発進基地、仮設住宅だったのかもしれません。

 昨年の8月から正式に退院日となった2月2日まで三つの季節を二つの病院で過ごしたおぱあちゃんの長い旅が終わりました。埋め立て地ポートアイランドにある病院から見える仮設住宅を眺めると一年前のあの日が思い出されます。神戸の町と仮住まいの人達が一日も早く普通の営みを取り戻すことができるように祈らずにはおれません。
 ご心配をおかけした多くの皆様のご厚意に応えるために完治の日までもうひとふんばりします。
おばあちゃんを暖かく見守ってくださったみなさまに心からお礼を申し上げます。
おばあちゃんにとって待ち遠しい春の訪れを心待ちにしながら・

                                          (1997年記す)