かま池荘物語
かま池荘物語前口上

このノートの一ページを記すにあたり一言書き添えたい。
三日坊主の例えとされる日記に過去何度か挑戦したが、何年も続けるというのは至難の業で、これまでを振り返ってみてもせいぜい一年ほど続けられたのが最高記録だと思う。

昨年の暮れに父を亡くしその遺品類を整理するにつれ、今日の状態や重要な事柄を文字として残すことの必要さを痛切に感じ、遅まきながら私なりに書き残すことにした。

父は昭和17年太平洋戦争に従軍したときから小さな一冊の手帳に、心にうつり行く身辺の思いを書き綴っていた。銃弾を潜り抜け胸元に忍ばせていた手帳は古びてはいたが、中を覗くと当時の新鮮な心を感じることができる。
その後は紙質の悪い粗末なノートながら書き残した数冊に加え、晩年まで続いた膨大な日記にその思いが克明に残されている。

父とは晩年言葉を交わすこともままならぬ状態となったが残された文字をたどって行くとき、その折々の記憶がよみがえり同時に懐かしさがこみあげてくる。
これは厳しかった父からの無言の教えのようなもので、今まで意識したこともなかった「愛されていた自分がいた・・」ことにはっと気づかされた瞬間であり、恥ずかしい自分がいたことを実感したときでもある。

他人にとって何の価値もない一抹の文章がその肉親の目に触れたとたん輝ける強烈な新鮮さを放つことは、これひとえに家族の絆、暖かさにほかならない。
私自身も何ものにも変え難いこれに値する絆を与えられた今があることに喜びを感じ感謝している。

今さら気負って何かを残そうというつもりはないが、とにかくこの思いを忘れないことを心がけてつれづれなるままに記すことにした。

時は1979年(昭和54年)2月11日、内では航空機疑惑が国会で取り上げられ、外ではイランの内戦が伝えられる平和な日本の片隅にて・・・

1979年2月11日、大久保町《かま池荘》の一室にて
                                      長谷川了彦(31歳)記
「かま池荘」由来記

かま池荘について話さなければこの物語は始まらない。
転勤族の父が兵庫県明石市大久保町に住まいを構えたのは私が小学校3年生の時だった。
兵庫県警に勤務する父は、早いときはたった三ヶ月、どんなに遅くても2年ほどで転勤しなければならない宿命にあり、家族はそれに伴って移動し官舎住まいになる。

私は昭和22年神戸市須磨区妙法寺で生まれた。
敗戦の色合いが濃くなった終戦に近い時期、本籍地であった神戸市兵庫区の住居はやがて迫り来る戦禍から逃れられない状況になっていた。各地の空襲は激しく、やがて神戸も焼け野が原になると、父が半ば強制的に家族を疎開させた地が妙法寺だった。

仏領インドシナ(現ベトナム)から本土決戦のために呼び返された父は職業がら、それなりの情報を持っていたようだ。これが正確なものであったことがその後証明された。
しかし祖母だけは日本が負けるわけがない!近所にある御崎の八幡様が護ってくれると信じ込み家を留守にし疎開先に行くことには否定的であったが、もしそのまま兵庫に留まっておれば恐らく我が家は全滅していたと思う。

その後祖母の口から神戸空襲によって燃え尽きたこの周辺の状況を聞いたが筆舌に尽くせない惨状で、祖母たちが築いた家も店舗もかけがいのない多くの人命とともにすべてが燃え尽きてしまった。

終戦後も疎開先にそのまま住み着いたわけだが妙法寺の思い出は幼い時期でもあり限られたシーンしか記憶にない。
夏草の香りや、昼寝の目覚めが自転車でまわって来るアイスキャンディー屋の鐘の音・・、さくらんぼがたわわに実る庭・・祖母がつくる野菜畑の土の臭い、ほのぼのとした思い出だけが残っている。

この山奥で幼稚園の入学前まで暮らしたが、ある時どこかに引っ越すという話で荷物はトラックに、家族は船に乗ったことを覚えている。

行き先は淡路島だったが当時はフェリーボートなどなく、港までトラック、ここで荷物を船に積み、着いた港でまたトラックに積み込む作業の繰り返しだったようで淡路への海路は近いようで遠い感じがした。

父が最初に署長として赴任した淡路島の郡家警察(今の津名西警察署)敷地内にある官舎が我が家となった。
妙法寺は神戸と言いながら板宿の町までかなり遠かったこともあり、この淡路で初めて幼稚園というものがあることを知った。友達や仲間との出会いは初めての集団生活であり、戸惑いの連続で不安な思いの幼年時代だったように思う。

そして間もなく小学校へと進み、その後は父の岩屋警察署への転勤に伴い岩屋小学校、次の転勤で印南郡阿弥陀小学校(当時)、神戸への転勤で明石の大久保小学校、そして但馬への転勤で八鹿小学校と、ここを卒業するまで小学校だけでも5校を転々とした。

八鹿小学校を卒業したとたん今度は社中学校に入学し、2年生になると龍野中学に転校そして卒業、龍野高校に入学したものの、父の転勤のためにすぐに明石高校に移るという目まぐるしい少年時代をすごした。

高校の転校は困難だが、県立高校の試験問題は県下一斉ということもあり転勤時期と重なる公務員の子弟はその点数をそのまま相手校に移すことができ、龍野高校を受験しその点数を明石高校に移し入学したことになる。
お陰で同じクラスのA君が補欠で見事龍野高校に入学を果たしたが明石高校では誰かがあおりを受けたことになる。
県立高校の入学式を一日違いで2度も経験するのは非常に珍しいことだと思う。龍野高校の入学式が終わった夜制服のボタンを明石高校のものに付け替えていた母の裁縫姿が印象に残っている。
この背景はすべて父の転勤がもたらしたもので、四人兄弟の末っ子であった私は家族の中で最後まで父の移動先に沿ってめまぐるしく県下各地を駆け回ったことになる。

私は4人兄弟の末っ子だが、郡家から岩屋小学校時代に移った時、一番上の姉は高校に入学した。進学先は明石海峡を隔てたお向かいにある私の母校と同じ明石高校で船を使った通学だった。
冬場に海が荒れると淡路からの通学組は急きょ帰宅指令がでて欠航寸前の船に飛び乗ったようだ。ひと冬に何度かこんな経験をしたようだが、その時代の連絡船はさほど大きくないためにすぐに欠航したようだが今では考えられない話だ。

その淡路から次に、今は高砂市となった印南郡阿弥陀町に移ったが、姉は毎日自転車で宝殿駅まで行きそこから明石高校まで列車通学をすることになった。
この時すぐ下にまだ中学生だった姉が二人おり、やがてくる高校受験に備えて転校のない定住の地が必要になったようだ。

父が赴任したこの阿弥陀警察署は、私の目から見ても木造のボロボロの庁舎でしかも小さかった。なぜこんなに汚く小さな警察に移動したのかその理由を聞いたのはずいぶん後のことだった。
なんでも前任の署で留置人がカミソリを呑んだそうで、監督不行き届きというのだろうか、見事な左遷だったようだ。
あれやこれやで子どもたちの成長を楽しみにしていた父だったが、転校を避けるため選んだ道が官舎住まいから離れまず自前の家を持つことだった。

当時は公務員・・特に警察官が現職の間に家を買うにはその資金の出所などを徹底的に調べられる時代だった。
安月給の父が養子だったこともあり、ある程度の資金は祖母の援助があったと思うが、縁あって移り住むことになったのが「明石市大久保町大窪字釜池1099番地」だった。
ここに祖母の「しん」を核とするおばあちゃんと娘3人の女の園が生まれることになった。この時点で我が家の二重生活が始まった。

大久保駅から北に7分ばかり歩いた田んぼの中の一軒家は、道路が拡張するまでは細い農道しかなく国道から見通しの位置にあった。私は父とともに八鹿に行ったためこの家で暮らすようになったのはずいぶん後の明石高校入学時からになる。

その後私が大学に進学した時は、父は尼崎北警察署を勇退する前であった。父は定年を迎える準備のためその前任地龍野警察署長時代に老後の自分の空間を確保したいと願い、自らが選んだこの大久保の母屋の奥に堅牢な十畳の和室を増築した。

退職後この部屋に戻ってきたわけだが、時を同じくして約200坪ほどあった敷地の北側に家賃収入を得るために母が4戸のアパートを建設した。
そのアパートの名前が「かま池荘」であり、母の命名による自筆の木製の看板がかかっていた。その一階部分が私たちの住居となり、子どもたち大起(ダイキ)と明里(アカリ)の歴史はまさにここから始まっている。

梅雨の時期は一晩眠れないくらい騒がしい蛙の鳴き声や、夏はセミの声、庭には100羽のウズラと20羽の鶏に囲まれ、西側の小さな川には魚が泳ぎ自然がずいぶん残っていた。
息子と娘の物心がついた頃おばあちゃんに手を引かれ保育所に通う道は、まさに子どもたちにとってときめきのコースで、あちこちに興味を抱きながら通う道は自然を学ぶ最適の環境だった。
郵便物が迷わないために便宜上つけた全然スマートでない名前の「かま池荘」だったが我が家族、大起と明里の情操教育の原点はまぎれもなくこの地にあると思う。


父の死「1978年(昭和53年)12月19日」

この日は特に寒いというわけではなかったが、連日の穏やかな外気と比べると肌寒さを感じる日であった。
退職後、悠々自適の毎日を過ごせる身分になった父も60歳過ぎから老人性の痴呆が進み、ここ2、3年でその症状も次第に悪化しこの一年に至っては想像を絶するひどい状態となりその世話をする母の苦労も並みの程度ではなくなっていた。

警察官として30数年を勤め一介の巡査から兵庫県下各警察の署長を歴任した父も、昭和41年尼崎北警察署長を最後にその職を退いた。
退職前から再就職先として結構条件の良い誘いがあったようだが、公務員としてかなり堅物人間であった父はこれらの話には一切乗らず、企業からの誘いを断り同県の交通安全協会の参事として定年後の人生を歩み始めた。

「お前達は税金で育てられたのだから、これを忘れるような生き方をしてはいけない・・!」とか「収入より支出が多いと犯罪者になる・・」とよく話をしていた。
これは商人であった祖母の考えとは真っ向から異なり、婿養子としては素直でなく祖母から観れば面白くない婿だったようだ。明治最後の男の美学と無関係でないような生き方だったと思う。

幼いころ父は早くに父親(松崎栄一、33歳没)を亡くし、母親が再婚したため父方の親戚に預けられ決して恵まれた環境ではなかったようだ。
私が中学か高校時代だったと思うが、父は「本当は歴史学者になりたかったが、夜学では昼間の疲れが出て居眠りばかりして勉強にならなかった・・」と言ったことがある。東京で書生をしながら夜学に通わせて貰っていたときの話のようだった。

そんな訳で幼くして妹と別々に育てられ苦学の末、大阪府の警察官だった父と同じ警察官の道を選び兵庫県巡査を拝命した。
それが縁となって神戸市林田区(現兵庫区)にあった長谷川家の婿養子となり今日に至ったわけである。
その父も晩年は非常に恵まれた状態にありながら、衰える体力と知能に我々も本人も手立てするすべもなく回復することなく永遠の別れとなってしまった。

私が中学時代、父が龍野警察署に勤務していた時に定年後のために大久保の自宅奥に実に堅牢な鉄筋作りの十畳の和室を増築したことは述べた。
ここは晴耕雨読にあこがれていた父の自慢の部屋であり、その名も母の名から採った「しずの家」と名づけお気に入りの空間となった。
しかし、定年後勤めた交通安全協会も自信をなくしたのか2年程度で辞め、この部屋で読書をする程度になったがいつのころからか廊下をウロウロするのが日課となり、この年の後半にはこの美しい和室は見る影もなく異臭を放つボロボロの部屋に変わってしまった。
そして、この年の12月10日頃にはついに自分の足で歩行することが困難になり部屋の一角に寝込むことが多くなった。

ここに至るまで母が尽くしてきた想像もできないくらい壮絶な世話が、こんどは床に伏したまま続くのかと思うと複雑な思いだったが、その後わずか10日で帰らぬ人となってしまった。
痴呆症状が現れてから数年間片時も目を離すことができない徘徊という看病は厳しいものだが、次は寝たきりの長患いになると覚悟をした母はとにかく部屋の大掃除を行い新しい寝巻きとフトンを用意した。
格段に寒いこの冬を暖かく過ごしてもらいたいという母の思いだったが、父が息を引き取ったのは真新しい布団を用意した日、まったく歩くことが出来なくなった翌日のことであった。

その夏、神戸大学医学部付属病院の脳神経外科を訪ね種々の検査結果から回復の見込みなしとのことで医者からも見離された状況となっていた。脳のCT写真をみても空洞部分が多く打つ手がないということは容易に想像できた。
このような状況で四六時中父から目を離すことができなくなってから数年、長時間の外出もままならなくなった母も看病疲れで時折弱音を吐くようになっていた。

看病は主に母の役目で、私も必要なときは父の部屋に顔を出していたがここ数日の弱り方はひどく、12月18日に大久保同仁診療所の医師の往診をうけた。
その結果この冬を越すのがやっとだろうとの所見で、医師から入院させ病院で息を引き取らせてやった方が良いとのアドバイスを受けた。
今までの看病疲れもあって母もこの助言に救われたように二つ返事でお願いしたようだが、帰宅するなりすぐ「ここまで来て病院に入れるのは可哀想だからやっぱり断ってくる・・・」とすぐさま診療所まで引き返して行った。
心労の極地だったに違いないがこれだけ長く一人で看病してきた父を今さら病院に送ることなどできないと思い直した気持ちは母の最後の踏ん張りであり大正人間の気性から判るような気がする。

この翌日19日朝、父が何も食べなくなったと母から連絡を受け不安を感じた私はすぐに父の枕元に行った。
父の手から脈をとったところ心臓の鼓動はまだ正確だったが目の輝きがなく鈍い光を放っていた。
母が用意した林檎のすりおろしを一口ずつ口にしていたが、全くしゃべることが出来ないはずの父が突然はっきりと聞き取れる声で「もうよろしい・・もうよろしい・・」と何度もつぶやいた。
私は驚いて「お父さん・・おとうさん!」と何度も呼びかけてみたがさして大きな反応もなかったが、やがて左の目から一筋の涙が伝わっていることに気がついた。

その弱りきった表情をみて今夜あたりが危ないのではないかと一瞬頭をかすめたが脈の正確さからまさかとの思いもあり、疲れさせてはいけないとしばらく寝かせてやりたいと思った。
父の涙を見るのは初めてのような気がする。父が泣いているのは確かであった。その時父の左手が突然ふとんを押し上げるように上がったかと思うと今度はゆっくりと右手が伸びて左手と組み合わさった・・しっかりと胸元で指を組んで合掌した。
手を動かすこともままならないはずの父が、正確に両手を組んだ姿を見て、今まで苦労して献身的に看病してきた母に詫びているようで何故か今度は私の涙が止まらなくなってしまった。
しゃべれなくなった父が発した言葉に驚くより、この手の動きが最後の感謝の気持ちと別れのあいさつだということがすぐに理解できた。

その様子を見た母は、もう一度医師の診断を受けさせ今度こそ入院させるしか無いとの思いで足早に診療所に向かった。母を玄関まで送るために父の傍をしばらく離れたが妙に胸騒ぎがするので赤ん坊の大起を抱いて急いで父の部屋に戻ることにした。

両手を組んだままの父に最初の内孫となった大起の手を添え「おじいちゃん!」と呼びかけてみたが、大起の手のぬくもりを感じたのだろうか、急に父の体温が下がったように感じた。その時、父は永遠の眠りについた。13時35分のことであった。

りんごを口にして「もうよろしい」という言葉を発した父の短い言葉にこれまでのすべての思いが込められていたと思う、母と残された家族に告げた言葉として・・・。
行年67歳「釈法善」とまつられることになった。大起の誕生の喜びから1年3ヶ月、父とのあっけない別れとなった。


父の葬儀「1978年(昭和53年)12月20日」

父が息を引き取ってから20数時間、今読経の声が響いている。
現実とは厳しいもので故人との永遠の別れの日だが今の哀しみなど問題とされないくらい事務的な時間が続いている。
父の死亡が確認されたときから葬儀の手配、役所への手続き医師との連絡、死亡診断書・・と、息つく暇もない。
通夜の弔問客の応対に故人の枕元にいることもままならない。私の人生にとって始めての家族の葬儀となる。ただこの日は前日に比べ風が強く寒い日だが天気は快晴で、よくよく恵まれた日和となった。

葬儀参列者は約150名、人数的には多くはなかったが県下各警察署長からの弔電60通を含め内容的に立派なものとなった。故人が30数年勤め上げた警察という職場から退職後13年以上も経っているのにこんなに多くの見送りを受けたことも特筆すべきことだ。

いよいよ出棺の時となる。最後の対面を済ませ一輪の菊の花を手向ける。参列者にお礼を述べて斎場に向かった。明石市和坂にある斎場の1号炉に父は消えた。
永遠に父の肉体は今この世から姿を消すことになった。「本当に長い間ご苦労様でした。晩年思うように自由がきかなかった無念を別世界で心行くまで晴らしてください。」そんな思いを添えた!
何より永遠の別れがこんなにあっけないものであることに不思議な思いがよぎった。
心より父の冥福を祈る。


忌明け「1979年(昭和54年)1月21日」

この日を以って父の忌明けとなる。35日目である。出席は父の妹、大阪のおば小山佳代、母の妹瀧清子、私の姉の幸子、松崎亨夫妻他・・少人数ながらごく内々の法要となる。


大起の検査「1979年(昭和54年)2月22日木曜日

大起の心臓検査の日を迎えた。10時までに県立尼崎病院に到着すべく8時に大久保の自宅を出る。仕事も多忙であるがこればかりは代役などありえない我が子との宿命の絆であり午前中休業とした。
母とその膝に大起、敏子を隣に乗せ第二神明道路から阪神高速へと進む。9時15分病院着、早速手続きを執る。思えば生後1ヶ月の頃から黄疸の診断の受け心雑音を指摘されてから16ヶ月目のこの日の検査となった。

大起が誕生したのは昭和52年9月21日午後6時5分、大久保の国立明石病院で産声を上げた。体重は3,790グラム比較的大きな赤ん坊だった。
その日の朝5時頃から陣痛を訴えた敏子を車に乗せて7時前に病院に入ったがもちろん医師は未だ出勤していない。こちらとしても気が気でないが、こんな時の男は昔から話に聞く通り全く役にたたないことが身をもってわかる。かといって落ち着いているわけにも行かず、しかしずっと付き添うわけにもいかず、事務所から車で5分程度の病院までの道を暇を見つけては何度往復したことか。その間は母に付き添いを頼んでいた。

そして、夕方仕事を終えて病院に駆けつけたとき母からたった今男の子が生まれたと聞いた。何ともいいがたい安堵感と嬉しさを覚えたものだ。
誕生のあくる日、姓名判断的にも運命的にも強い「大起」という名を付けることにした。子どもの名前はどんなことがあっても私自身でつけたいとかねてから思っていた。もちろん家族皆にも喜ばれた名前であったのは言うまでもない。大きく自らを起こし、独り立ちできる!そんな願いを込めての命名であった。誕生後5日目に黄疸症状が発生したが、重症でもなく無事退院となった。

その日から大起の入浴は私の日課となった。ポリ製のたらいで産湯を使い我が家の宝物に、新おばあちゃんも、ひ孫を見る大ばあちゃんも目を細めながら見物にくる毎日だった。

それから1ヶ月後、保健婦さんの訪問検診で黄疸の症状とわずかの心雑音を指摘され、まずは明石市民病院の小児科へ受診に行くことになった。その1週間後、検査結果をもらう日に聴診器をあてた医師からやはり軽い心雑音を指摘され、すぐさまレントゲンを撮ることになった。

心雑音というのは、静かな場所でしかも熟練した医師しか聞くことができない難しいノイズであり、心臓に穴があいているか、弁が不具合であるなど血液の逆流や、血流の乱れる音である。
大起はこの可能性が高いという結論にいたった。しかしながら大起が誕生してからこれまで4人の医師が直接診断している。
そのいずれの医師もこの音を聞き逃した現実は特殊な領域の医療かもしれないが医師の技術レベル差を感じるものだった。
もっと不思議なことはこれを指摘したのは医師ではなく巡回してきた一介の保健婦さんの聴診器だったということだ。
この日を期して明石市民病院の大塚医師が主治医となった。

私としては大変ショックな宣告だったが、それにも増して大起の発育はすこぶる順調で心臓疾患特有の症状も全く見受けられず外見的には何の異常もない元気な子だった。
しかし、レントゲンで見る心臓はやはり肥大気味で決して軽症ではないとの医師の所見であった。にもかかわらず大起の発育は体重の増加を見ても順調で申し分ない状況であった。そのために1歳の秋に行う予定であった心臓カテーテルがきょうまで伸び伸びとなったものである。

大起の心臓カテーテルがきょうの日になったのはショッキングな出来事によるものである。
年末のあわただしい父の葬儀以来多くの来客があった。大人の我々でさえ疲労気味であったが、12月25日頃から大起に風邪の兆候が見られるようになった。そこで近くの香山小児科を訪ねたところ単なる風邪との診断で薬をもらい服用を続けていたが一向に回復しなかった。

大起の声はガラガラになり気分もすぐれない様子となった。何しろ年末年始は医療機関が閉まるのでそれまでにどうしても直しておきたい、暮れの救急病院の世話になるのは避けたいそんな思いだった。
しかし悪いことは重なるもので大晦日の朝5時40分に大起が突然全身痙攣を起こし意識も定かではなくなってしまった。こうなると一刻を争うので急ぎ香山小児科に電話を入れて運び込んだ。
すでに年末の休診中ではあったが快く診察をしてくれたが、大起の意識が戻ったのは処置後30分経ってからであった。
ずっと大起の様子を見てきた私はたまらず医師にこれは肺炎の症状ではないか?と聞いたところそうではないと断言され改めて薬をもらい帰宅した。

眠りについた大起の様子を見ながらとりあえず落ち着いた症状を確認し内心喜んだものであった。このまま新しい年を迎えられれば気分一新いい年にしようと思っていた。
そういえば父の葬儀以来ゆっくりとした時間を過ごせなかったため、これで正月らしい時間を家族水入らずで過ごすことができる。そう願った!
                 
元旦の雑煮をいただき寝入る大起を横目にまた夜がやってきた。突然大起の様態がおかしくなった。これはいけない、元旦早々で気が引けるがそれよりも正月に医師が果たしているのかが頭をかすめたがとにかく医院に電話をしてみた。幸運なことに今帰ったばかりというので急いで医院に向かう。全く火の気のない冷え切った小児科医院の診察室に飛び込んだ。

時刻は夜の10時15分、レントゲンを見た医師は「肺炎ですね!」とさも当然そうに告げた。
昨日の所見から私は肺炎ではないかと何度も聞いたが問診だけで「風邪です」と断言したはず。
今度は堂々と肺炎だという医師の言葉に絶句と怒りがこみ上げてきた。レントゲン写真にはかなりの影が写っている。
「ここではどうしようもありません・・」と言う香山医師は急ぎ大きな病院に回さなければ危険だという。苦言をいう時間的な余裕もない一刻を争う緊急事態になった・・そこで心臓疾患があるので市民病院にかかっていると告げたところ、相手もほっとしたようにその場で主治医の大塚医師に連絡を取った。幸いなことにすぐに連絡がつきそのまま明石市民病院に車を走らせた。

まさか元日の夜に本来の主治医である大塚医師のお世話になるなどとは夢にも思わなかったが、夜11時過ぎに病院に着いたときには大塚医師はすでに準備を整え診察室で待ち構えていた。飛び上がるくらい感動し頼もしく嬉しい光景だった。

すばやい処置と点滴を施してくれたが、症状はかなり悪く予断を許さない状況であった。
実は大起の心臓に負荷をかけることは禁物で、特に風邪をひかせるということは絶対避けなければならない課題であったが結果は最悪の肺炎・・・ふがいない親となってしまった。
何があっても避けなければならない病気だと、気を使いながらかなり慎重に日常の生活をしてきたのだが、まるで石橋を叩いて川に落ちるようなもので親として失格である。

ただただ悔しいのは昨日の症状で「肺炎ではないか?」との問いに風邪だと言いきった小児科医の診断にはほとほと不信感が募った。もし、主治医の大塚医師が元旦のきょう自宅に居なかったら・・他の救急病院に向かっていたら間違いなく大起は命を落としていたと思う。

元旦深夜そのまま入院した大起の付き添いで病室に残った敏子と交代するために、翌2日午後1時病室に入ったところ、大塚医師と看護婦が大起のベッドを取り囲んで異様な光景が広がっていた。
その後に立っている敏子が泣いている。言葉など不要でこれはただならぬ事態になっていることが判り医師の間から大起を覗き込んだ。
大起はタンを喉に詰まらせたらしく呼吸困難となり虫の息となっていた。息をしている様子はなく、わずかに肩だけかすかな動きをしている状態だった。虫の息というのはこんなことなのか・・・顔色はなく死んだような状態になっていた。
大塚医師に様態を聞いても大丈夫とは言わず「やれるだけのことはやってみます・・・・」と答えるだけであった。その後一緒に病室に入った母と姉も言葉なく立ちすくんでしまった。

おせち料理とはほど遠い正月になったが、疲れている敏子と交代するために病院に行った結果がこんな状態とは予想できなかったが、こうなると覚悟を決めて私も病室に残らなければならない。もしものことがあればやはり大起の傍に居てやるのがせめてもの私の務めだと思った。
どっしりとこの病院に腰を落ち着かせる決心をしたので、先ほど来たばかりの母と姉を我が家で休んでもらうために送り届け、とんぼ返りでまた病室に戻ってきた。

年末年始に葬儀の連続などこれ以上の不幸はない。考えたくもないが、そんな状況が目の前にある。ただただ大起の生命力に呼びかけるしかできず、亡くなったばかりの父にたとえ寂しくても大起だけは迎えに来ないでくれ・・と真剣に心で唱えていた。

急ぎ病室に戻っても大起の症状に変わりはなかった。前夜から一睡もしていない敏子をソファーに横たえて今夜は私が不寝番をすることになった。
目が離せないのは酸素ボンベの交換時期を逃さないためである。
何しろ息がない状況で体力も極限まで落ち込んでいる。看護婦の指示通り一晩中酸素のブクブクの監視だった。とにかく頑張れ大起!負けるな大起!勝手に逝くな!と一晩心の中で叫んでいた。

ぼんやりと薄明かりが差しいつの間にか病室の外が白んできた。正月3日の夜明けを迎えた。ボンベから一晩中絶え間なく新鮮な酸素が送られている。長い夜のはずだったがさほど長くは感じなかった。
正月3日の朝が過ぎ太陽が上り始め、ふと大起の顔に目をやるとほんのりとした赤みが差したように見えた。外からの光のせいだろうと思っていたが、それまでの土色の精彩のない顔色とは異なりわずかにピンク色に変わってきた。
敏子も蒼白の頬に淡い桜の花びらが落ちたように確かに顔色が良くなっていく大起を嬉しそうに見つめている。
大起がよみがえり始めた・・・急降下していた体に変化がみられる!こんな感動を味わったことなど今までなかったことだ。

そして正月3ケ日が終わろうとしている。忘れられないこの日深夜、大起は確実に危機を脱出した。自らの生命力と多くの力に支えられて・・。
その後の大起の回復振りは全く信じられないようなスピードであった。一時9キログラムまで落ち込んだ体重は、その後わずか10日間ほどで10キロに戻った。生涯でこんな正月を過ごすことはこれからもまずないだろう。

これまで順調に育ってきた大起がこの入院によって、大きなダメージを受けてしまった。退院後の定期診察で、もう観察期間は過ぎ急ぎ心臓の予備検査を受けなければならなくなった。
1月29日県立尼崎病院の心臓センターに向かった。結果は心室中核欠損、肺動脈狭窄症と診断された。
さらに詳しく症状を確認するためきょう2月22日本格的な検査を受けることになった。検査といっても赤鉛筆の芯くらいのチューブを太ももの血管から注入し心臓まで挿入するというもので1歳の終わりに近い子どもとなればそれなりに危険な検査である。

今時刻は夜11時半、敏子とともに眠る大起を気遣いながら筆を進めている。どうか大起、明日の難しい検査に力強く耐えて乗り超えてほしい。正月に見せた見事な生命力を再び発揮して欲しい・・検査の無事を祈りながら。


手術入院「1979年8月30日」

今年の夏は男性的というか強烈な日差しが印象的である。それでも朝晩涼しさを増してきたきょう8月30日、いよいよ大起が心臓手術を受けるために県立尼崎病院に入院する日だ。2月にカテーテル検査を受けてから、ようやく・・いやついにこの日を迎えた。

この頃になると病院通いも手馴れたもので、いつものごとく手回りの荷物を車に積み込んで8時に家を出た。今年5月に生まれたばかりの明里を母に預けて約1ヶ月足らずの入院生活がいよいよ始まる。明里には心から済まないと思いながら・・・
朝のラッシュ時と重なって第二神明道路も阪神高速も数珠つなぎの大渋滞である。10時までに手続きを終えなければならず到着が気になったが、須磨を過ぎてから意外と流れに乗れ9時半に病院に着くことができた。

病室に案内されるまでの間、大起は物珍しい広い病院の光景に興味を覚え、待合室からロビーへと走り回りこれが病人かと疑うような元気さであった。
待つこと40分大起と同じ9月6日に手術を受ける谷上麻弥ちゃんと同室となった。兵庫県立尼崎病院第二病棟の457号室である。
この病棟には小さな子どもたちが入院しており、元気よく廊下を走りしばらくすると急に呼吸が荒くなり唇が見る見るうちに紫色に変わるチアノーゼ症状をみることも多く心臓の働きのすごさを改めて知ることになった。

大起は6歳年上の女の子、麻弥ちゃんが気に入ったらしくしきりに愛嬌を振りまきついには手を引いて病室から出て行く始末で、あまりの人なつっこさに看護婦さんも思わず吹き出す場面の連続だった。
主治医は辰巳医師とのこと。まだお会いしてはいないが後日手術について説明がある予定だ。
事務所も母にまかせっきりでおまけに明里の面倒までみてもらっていることもあり、午後2時半になってひとまず帰ることにした。
この日から毎晩、大久保と尼崎の往復が始まることになった。大起ガンバレ!敏子ご苦労様!おばあちゃんありがとう!明里ゴメンネ!


手術の日「1979年9月6日

大起が入院してからちょうど1週間目である。あすは敏子の誕生日でもある!
一昨日、主治医である辰巳医師から受けた手術説明が頭から離れない。8月30日に入院してから・・いやそれ以前から大起の手術のことが脳裏から去ったことが無かった。
そんな思いの中で辰巳医師からの所見と手術説明となった。大起の病名は心室中核欠損症、肺動脈狭窄症ならびに卵おうかく開存症・・以上の診断である。
もしこのとおりの症状であればそう困難な手術ではないとのことであったが、手術によって起こる可能性のある十数例の併発症や後遺症は聞くに堪えないものばかりであった。
主治医にとっては避けることのできない事実であるだけに起こるべきあらゆる症例についてくどいくらいの説明となった。
そして手術への同意書の提出。これを見ただけでもいかに危険な手術であるか理解できる。我々が沈痛な思いで説明を聞いている間でも大起は机の下に潜ったり、椅子を引っ張りだしたりいたずら放題である。明後日の手術などどこ吹く風のようだ。

思えば心雑音を指摘されてから今日まで大起の成長を見守りながらいつも考えることはこの日の手術のことばかりだった。今や100%の成功率と人は簡単に言うが実際はそんなものでもないようだ。大起を抱いたときいつも「死なせるものか!」と強く抱きしめたものだ。
まだろくにしゃべれない大起に「がんばりますか?」と聞いたらいつも一つ覚えの調子よい「はーい!」という返事は心和ませるものだった。
仕事を終えてから病院の面会終了時まで毎日大起と交わすたどたどしい会話は楽しい時間になった。
とうとう手術の日を迎えることになった。急ぎの仕事が入ってしまったが、お昼までに仕事のさわりだけを済ませ一路病院へと向かった。到着は2時前であった。
昼から幸子姉、晴子姉そして海老おばの3人が石切神社にお参りをしてから立ち寄ってくれることになっている。2時になるので玄関まで迎えに出るとちょうど3人が阪神尼崎駅の方から歩いてくるところだった。

手術は10時30分から既に始まっている。所見どおりであれば4時ごろ、悪くても30分遅れ程度で終了する予定だ。
もしこの時間が大幅に延びれば何か予期せぬ事態が発生したことになると事前に説明があった。これが頭にあるのでただひたすら時間を気にしながら待ち続けた。
姉たちには待合所で待機してもらい手術室の廊下でじっと待ち続ける敏子との連絡係りのように往復しながら落ちつかない思いでいた。こんな思いは今までしたことがない。
しかし先日の辰巳医師の話を思い起こしここまでくれば先生を信頼し、すべてを受け入れるしかないと自分に言い聞かせたら冷静にものを考えられるようになった。とはいっても何ともいえない時間に変わりはなかったが・・。
同室の麻弥ちゃんは2時過ぎに手術を終えて回復室に回ったと聞く。大起より1時間早い手術開始だったが嬉しそうな家族の表情を見るのは心強い。

今回の手術に関しては大勢の友人や親類から多くの献血カードを提供してもらった。私の友人の久保、石原、鍛冶、ハム仲間の内橋さん、敏子の兄たち、親戚の人、福知山の隣のおじさん、おばあちゃん、小坂千草さん、海老の志郎ちゃん稔ちゃん、その他にもたくさんの申し出を頂き予想以上に多く献血をいただくことになった。
一人で6枚のカードを仕事の帰りにわざわざ持参してくれた石原君、8月の初め真っ先に届けてくれた久保君、どんな言葉でお礼を述べても今の感謝の気持ちを表現することはできない。
父が亡くなったとき人の思いやりに触れ、再びこの感謝の気持ちを思い起こすことができて幸せな自分を味わうことができた。不幸だ!不運だと考えたこともあるが、このような経験をさせてもらうことに感謝している。

4時前に回復室の看護婦さんが今終わったので迎えに行きます、と台車を手術室まで運び入れた。急いで姉たちを呼びに廊下に走り出た。
しばらくすると頭をやや右に傾けた状態で辰巳医師に手動ポンプを操作されながら大起が我々の前に姿を現した。
約束の4時に5分前である。バンザイ!嬉しい。大起の痛々しい姿もこの大きな手術に耐えたくましく大きく見えた。
まだまだがんばれ大起。負けるな!おばの目から思わず涙が溢れていた。

回復室では多くの補助装置によって心臓の機能を取り戻すためマンツーマンで看護をうける。待機すること約40分ようやく入室を許される。消毒とマスクの着用をし、感染防止の処置を施し大起との対面である。
執刀医横田部長の話によると所見どおり肺動脈弁のすぐ近くに10mm×14oの穴があいていたとのこと。穴の縫い合わせも順調に進み手術は巧くいったとの報告を受けた。
主治医の辰巳医師によると肺動脈弁が少し変形しかかっていたとのことで、今回の手術は全くベストのタイミングであったと聞かされた。

痛々しく横たわっている大起は、当初早かった脈拍も夕方再度の面会では130位に落ちついてまだゆっくりと眠りについていた。この先大きな障害がなければ退院の日をただ首を長くして待つだけである。大起の眠る顔を見届けて病院を出たのは夜7時になっていた。

チームの先生方の働き見ると頭が下がる。いつ眠るのだろうと思うくらい長い時間病院内に居る。医師のモラルがとやかく話題になることが多い昨今だが、現在の日本の中でも高水準をいく県立尼崎病院の心臓センタースタッフに最大の敬意を払いたい。
おそらく大起には今後大きな傷跡が胸元に残るだろう、でもこの傷跡に振り回されないような生き方をして欲しいものだ。
この傷跡の意味を考え今日生きていることの重要さを絶えず意識しながら生きる青年になって欲しいと願う。
今の命がたくさんの人たちの真心と愛情で支えられていることを十分に感じ取って欲しい。私もこの感謝の気持ちをいつまでも忘れることなく大起の胸に輝く傷跡を「お前だけにしかない勲章だ!」と伝えていきたいと思っている。事実そんな誇らしい気持ちに満ち溢れていた。
敏子は入院から初めて大起と別室で過ごすことになった。敏子ごくろうさん。大起ガンバレ!
                              (喜びの日、1979年9月6日夜帰宅後記す)


アクシデント「1979年9月10日」

このところ当然のことながら連日病院通いだ。多忙なので一日おきにしようと思いながらも4時ごろになると決まって大起に会いに出かけてしまう。まるで恋人に会いに行くような心境である。特に昨日よりきょうと回復する姿を見るのはこの上ない喜びとなる。

手術48時間後の8日11時に回復室から病室に戻ることができた。点滴はそのまま継続状態である。
しかし思わぬハプニングが起こった。回復室で目覚めた大起がいつも傍に居るはずの敏子が居ないことに気づき起き上がりかなり看護婦をてこずらせたようだ。
母親を求めて体中にセンサーをつけたままで無理に起きたものだから心臓周辺の内出血排出用のチューブが抜けてしまった。
もう一度胸を切り開いてチューブを入れ直さなければならいのかと青ざめた私の気持ちとは裏腹に、母親の顔を見たとたんご機嫌になり本人はケロリとした様子であった。
慌てて駆けつけてくれた担当医から「出血が少ないのでこの時点でチューブは抜き去りましょう・・」と言ってくれて実にほっとした。いつも大騒ぎの主人公は大起である。お陰で普通より数日も早く胸からのチューブが取れ自由の身になれた。

チューブ騒ぎの翌日9日日曜日は、尼崎の甲藤家に泊まっていた敏子の両親を病院まで送り届けることになった。手術後私の母とともに両祖父母の見舞いを受けた。
案外の大起の元気さに甲藤のオバも驚いた様子でとにかく安心したようで、敏子の両親も福知山へ帰っていった。
そして10日のきょうは支払日なので、病院行きの時間が取れないかもしれないと思えたが、比較的早く処理も終わり初めて電車で病院まで出かけることにした。
所要時間は車より30分ばかり多くかかる。これは乗り継ぎ待ち時間のせいでもある。5時過ぎ病院に到着した。

術後少し微熱が続いている大起は着ているものを脱ぎすてて裸になろうとする。恐らく微熱のせいもあり居心地が悪いのだろうが、この時期歓迎できないしぐさだ。
当然食欲がなくなっているので傷口の直りが若干遅れそうな気配である。回復の速度はやはり食欲と比例するというのは間違いないようだ。
決まった食事より間食に興味を示す。この日持参したアイスクリーム70gをぺろりとたいらげると機嫌よくベッドで遊び始めた。
やたら飲み物を欲しがるが心臓の負担を減らすために厳しく水分量が制限されている。食べるものはもちろんおしっこの量も細かく計量してノートに克明に記録するのは敏子の大事な仕事となっている。
お茶を飲む大起はまるで何日も水を飲んでいない動物のように喉を鳴らして一瞬のうちに飲み干してしまう。そばで見ていて可笑しいくらいだが、早く制限なしに思う存分飲める日を心待ちにする。

夜6時になって主治医の辰巳医師が病室に現れた。嬉しいことに点滴の管を今抜き取るとのことで、右足太腿の静脈から術後4日目にしてチューブが外され大起は自由になった。
もう少し体力がつけば自力で歩行できるようになる。その日が楽しみである。


大起が帰ってくる「1979年(昭和54年)9月25日」

大起が帰って来る。明日26日大起が我が家に帰ってくる。明日だ!
26日のスケジュールを動かすのに一苦労だったが良いことは早いに越したことはない。きょうが敏子と大起の水入らずの病院最後の夜となる。
この日夕方病院に行くと大起の隣のバッドが空になっていた。谷上麻弥ちゃんがきょうの4時に退院したとのこと・・9月21日ベッドの上で2歳の誕生日を迎えた大起とささやかなケーキでお祝いした写真を手渡すことができなかった。後日郵送することにしたが、彼女の幸せを祈らずにはおられない。
大起はすこぶる元気だ。主治医の辰巳医師と話したが、退院後の生活について明日詳しく説明があるとのことだ。ようやく大起は辰巳医師とも慣れはじめたようで別れが残念な気もする。
思い起こせば8月30日に入院してから28日目にしてやっと退院の日を迎えることができる。
手術の成功を祈り、多くの人の協力と力添えをいただいたことに、今夜はただただ感謝の気持ちで一杯だ。文字にあらわすことができないこの感情を大起の今後の成長のバックボーンにしたいと思っている。


明里が生まれた日「1979年(昭和54年)5月8日」

我が家の大きなニュースは大起の成長とともに持ち込まれたものが圧倒的に多い。その陰に隠れたかのように明里が話題にならなかったがここで明里の誕生の記録を残しておきたい。

今日この頃の明里の可愛さは表現が追いつかないくらいだ。大起の同じころと比べれば遥かに成長が早いし言葉の理解力も相当なものである。
ただ昨年、大起の入院の陰に隠れて夏の終わりから約1ヶ月親としてまったくかまってやれなかったことを済まないと思っている。そのせいだろうか最近はおばあちゃんにぴったり寄り添って愛嬌を振りまいている。

飛び石連休が終わった1979年5月8日火曜日、敏子が出産のために大久保病院に向かう。新しくできた民間病院で我が家から歩いても10分以内で行ける所にある。
大起が生まれた国立明石病院は線路を越えた我が家の南だが、ここより遥かに近く敏子が希望したこじんまりとした病院である。
その朝敏子を病院まで送り届けてひとまず帰宅することにした。2回目の出産なので少しは落ちついた感じもあり何しろ近いということは安心でもある。

その日の昼過ぎ、正確には2時前だったと思うが病院からの電話を母が取ったところ午後1時28分女の子が誕生したとのことだった。しかし、お話したいことがあるのですぐに病院に来てくれとのことだった。

出産直後のこんな電話は嬉しいものではなく一瞬何事かと不安な気持ちになったが、取るものもとりあえず母を車に乗せて急ぎ病院に向かった。その間わずか2、3分の距離だ。
到着後主治医の吉岡医師に面会した。こちらはてっきり赤ちゃんに異常があるのではないかと恐る恐る話を聞いてみた。
こちらの心配を悟ったのか吉岡医師は窓越しの新生児室の中を指さして、赤ちゃんはこんなに元気ですよ、と真っ先に告げてくれた。それならいったい何が・・・。
実は敏子が出血多量で緊急輸血を施したとの報告だった。幸い事なきを得たが、その点をお話しておきたいとのことであった。
その報告の直後まだ分娩室に横たわったままの敏子に面会することができた。こんな場所で会うことも特別なことだがスリッパに履き替えて総タイル張りの分娩室に入った。お産のための器具が一杯置かれている。中央の分娩台の上に敏子が疲れた様子で横たわっていたが元気な様子で安心した。しかし輸血はまだ続いていた。

とりあえず大きな心配はなくなったが、女性にとって出産というのは大変な労力であることを改めて感じた。生まれた赤ちゃんの色は、2年前保育器越しに見た大起とは明らかに違う色で、これが赤ちゃんだというほど真っ赤で元気な赤ん坊だった。3,750グラム女の子、我が家に新しい一員が増えた記念すべき日になった。

何しろこの出産までに大起の肺炎による緊急入院、心臓カテーテルとまだ敏子のお腹に居た赤ちゃんにも過酷な試練を与えてしまった。もちろん一番負担がかかったのは敏子だったに違いないが、おばあちゃんの一番の心配はこの負担が赤ちゃんに出ないかというものであった。
しかし、新生児室の生まれたての赤ちゃんは見事にこのハンディを克服したように元気そのものだ。何の異常もなく動き回っている姿に本当にほっとしたものである。

そしてまた、名付けの苦労が始まった。正直女の子の名前をつけるのは難しいものだ。
私が子ども時代同級生の女の子で一番多かった名前は「ヨウコ」だった。ある学年ではクラスに5人の「ヨウコ」が居た。
「陽、洋・・」の文字が目立った。名前の由来を聞くとやはり戦後のまずしい時代に大きな希望を持って欲しいとの親の願いが込められていたように記憶している。

初めての女の子の名前だけに大起の時より名づけは難産気味であった。ああでもないこうでもないと色々考えていたが仕事帰りの車の中でふとひらめいたのが「明」と「里」という文字だった。
それならこの文字を一緒にして「明里」と書いてアカリと呼ぼうと考えた。家に帰ってすぐ以前にも開いたことがある姓名判断の本を読みかじるとまんざら悪い名前でもなさそうなので。恐る恐る我が家で披露したところ、敏子もおばあちゃんも気に入った様子だった。

かくして大起騒動の陰できょうの出産までお腹の中で苦労したはずの明里がこの世に生を受けた。明石の里で生まれた娘、明里・・私なりに気に入った名前であるが大きくなった明里が気に入ってくれるか気がかりだが、明里の健やかな成長を祈りつつ・・・
                     
                                   (1980年8月明里1歳夏記す)
とにかく、この「かま池荘」が我が家の原点であったことは確かだ、その後神戸市垂水区に住まいを移すことになったが思い越せば子どもたちのふるさとはこの地であることは間違いない!